館林城・群馬県館林市にある城 | 西村治彦の日記

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 この日は、群馬県館林市にある「館林城跡」を訪れました。

「館林城」は、15世紀に築かれたとされます。ただ、築城時期・築城者には諸説あります。天将年間10万石で入城した徳川四天王の一人「柏原康政」が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えました。城沼を濠として利用、本丸以下7廓あります。

 

●室町時代

築城については、江戸時代になって書かれたもののなかに、赤井照光によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」として知られていますが、現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(471年)に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録であります。

「狐の尾曳伝説」とは、赤井照光が子きつねを助けたところお稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれたというものであります。

●戦国時代

その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏、北条氏などが館林城を支配するようになりましたが、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人、榊原康政が10万石で城主となりました。

●江戸時代

江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えました。

かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり威容を誇っていましたが、天和3年(683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となりました。

宝永4年(1707年)六代将軍徳川家宣の弟松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられました。1718年には再建費のための増税に苦しんだ農民により館林騒動が起こりました。

●近現代

城の建物の大半は明治7年(1874年)に焼失しましたが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されています。

 群雄割拠の戦国時代、城は朽ち、遺構も ほとんど残っておりません。破壊して、新しく勝者の城としていく。長い戦国時代から ようやく落ちついた江戸時代への過渡期です。古城を訪れて、「兵どもが夢の跡」をしみじみと感じます。そして、現在があり、我々が住んでいます。

 

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