関城址探検・茨城県筑西市にある南北時代の関城主・関宗祐・宗政親子  | 西村治彦の日記

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関城址探検・茨城県筑西市にある南北時代の関城主・関宗祐・宗政親子 

 この日は 茨城県筑西市(ちくせいし)

にある「関城址」に行って参りました。広々とした畑や林ばかりで、何もない荒野・原野です。これなら「コロナ」は大丈夫でしょう。

 「関城」は南北朝時代に、関東の「関宗祐(せきむねすけ)」が治めた城であります。南北朝時代は、鎌倉時代の後、1336年から1392年までの57年間を指します。

鎌倉幕府は、「後醍醐天皇」「足利尊氏」「新田義貞」らによって、滅ばされました。その後の政権は、これらの3人・「後醍醐天皇」「足利尊氏」「新田義貞」が「次の政権は我こそ、我こそ!」と思いを馳せ 争いとなりました。「足利尊氏」は、京都に「光明天皇」を立てました。「北朝」です。

一方、「後醍醐天皇」は、吉野に「自らを正統の天皇」として、「南朝」を立てました。争いは57年間続きました。最後は 南朝第4代の「後亀山天皇」が北朝第6代の「後小松天皇」に譲位するかたちで両朝が合一しました。「北朝」が 天皇を継ぎました。

関東では、この頃、南朝公卿にして、慈円と共に中世を代表する歴史家である「北畠親房」が、関東地方で「南朝勢力」の結集を図り、常陸国小田城にて篭城していました。同年秋、新帝に道を表すため、南朝の正統性を示す「神皇正統記」を執筆し、儒学を導入して、帝王には血筋と神器だけではなく、徳(=政治能力)も求められるという、当時としては大胆で革新的な思想を展開しました。親房は興国4/康永2年(1343年)ごろに吉野に帰還し、後村上天皇の頭脳として、南朝を実質的に指導しました。

一方、常陸国・下総国の諸将は後醍醐天皇の建武政権に従いながらも所領を巡って対立を続け、延元の乱をきっかけに北朝側と南朝側に分かれて争うことになりました。

結城氏・小山氏・佐竹氏・大掾だいじょう)などは北朝側に着き、小田氏や結城氏の庶流である白川結城氏・「関氏」・下妻氏 などは南朝側に着きました。

当時は どちらかに着かないと解決しない争いです。「関氏」は 「関城」で、「南朝として」、北朝側と戦いました。

この「関城」で、関氏は戦い続けました。当時は 土と木と竹で作られた城です。夜襲を受けて 火を着けられれば ひとたまりもありません。

「関城」は 落城しました。

私は その「関城址」を歩いてきました。大きな土塁、堀の跡。また、「北朝側」が、「関城」を攻めるために、密かに掘った「地下壕」がありました。「南朝側の関城の見張り櫓」から「北朝側」を死角にするためです。

 歩いた最後に「関城」の城主・「関宗祐.宗政親子」の墓がありました。私は 南北の政権争いで命を落とした関宗祐・宗政親子」の墓前で、当時を偲ぶのでした。

人を支配する人間の本能は 現在に至るまで、争いの元であります。どれだけの命が失われてきたのでしょうか。

命の大切さを考えると、現在は「コロナ禍」で、ほぼ瞬時に多くの命が失われています。「コロナ」に負けないよう、知られている対策を十二分に取って、命を大切にしたいと思ったのでした。

 

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