岡城跡は埼玉県朝霞市(あさかし)にあります。柊塚古墳は岡城跡の隣にあります。 | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

日々の出来事を書いています。

岡城跡は埼玉県朝霞市(あさかし)にあります。太田道潅あるいは太田康資(やすすけ)など諸説ありますが、太田氏の城と考えられています。太田道潅は江戸城を建てた武将として知られています。

 城は東へ伸びた丘陵に築かれていて、現在は城山公園として整備されています。

細長く東へ伸びた丘陵の東端にあるのが主郭(本丸)で、空堀によって区画された曲輪が東西に四つは並んでいたようでありますが、現在公園となっているのは東側の三つの曲輪であります。

 私は 岡城跡の下から登って行きました。登ると、そこは、「三の丸」でした。「丸」とは 広場のことであり、当時は 武士たちの集合場所であり、建物も建っていました。

 下から「三の丸」、「二の丸」、「本丸」と続きます。「四の丸」もあったようですが、現在は消滅しております。「岡城」の場合、「本丸」は 見晴らしがよく、敵を探す「見晴台」の役目を果たしておりました。

 敵を発見したら、狼煙(のろし)を上げ、近くの味方に知らせました。親城 子城 孫城があり、まさかの時には、応援を願いました。

太田道灌は強い武将でした。現千葉県にある城を攻め ことごとく勝利しました。戦国大名として、天下を取りたかったのでしょう。

 その他30回もの戦いに勝利した「太田道灌」は、強いがゆえに、狙われました。文明18726日(1486825日)、扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、道灌はここで暗殺されました。享年55でした。

 

 「岡城跡」を歩き、当時の強かった「太田道灌」も この郭に休み、また歩いて、次の攻撃を考えていたのでしょう。

 「兵どもが夢の跡」でした。

●柊塚(ひいらぎづか)古墳;古墳がこの「岡城跡」の外れにあります。「柊塚古墳」は、4世紀に造られた前方後円墳であります。現状は、前方部が削り取られ、後円部が残っています。岡の上にあります。岡の上にある「岡城跡」の反対側の同じ岡の上にあります。

 古墳時代は 戦国時代より1000年以上古いですから、当時の戦国時代の武将たちも、「柊塚古墳」を見て、「ここは古い土地だな!」と思ったに違いありません。

 岡の下には「黒目川」が流れています。古墳時代も 古墳時代人たちは、黒目川で魚を取り 貝を取って 生活していたのでしょう。

 私は この「黒目川」を見ると 懐かしいです。中学時代、友人の「尾高聖君」と良く、この「黒目川」に魚釣りに来たことを思い出しました。帰りに 当時 朝霞市にあった彼の家に寄り、おにぎりを 彼の母親に作って貰って食べたことを思い出しました。お父さんは 厳格な、体の大きな人でした。「尾高聖君」は現在 国際弁護士として、活躍しております。現在 私とも仕事を通じても 交流しております。長い付き合いです。一時は ゴルフも一緒にやりました。私は現在は ゴルフはやめてしまいました。彼は現在もゴルフを愛し、かなり腕は良いです。

 「岡城跡」「柊塚古墳」「黒目川」、懐かしい「朝霞市」での散策でした。

 田舎だから、コロナは大丈夫です。

 

ランキング参加中です。
読み終わったら最後にワンクリック!
↓ご協力おねがいします。

にほんブログ村 士業ブログ 社会保険労務士(社労士)へ
にほんブログ村

 

西村社会保険労務士事務所ホームページ

↑役立つ社会保険情報 掲載中

求人情報ものっています!!

 

NEW
所長 西村治彦の本
【新版】日本で一番大きい社労士事務所の秘密

こちらから購入が可能です。ご購入を希望される方は、下記画像をクリックして下さい。
注文ページへ進みます。

ダウンご購入はこちらダウン


西村治彦 著
自由出版 刊

定価 1,200円