「見広城」探検・永禄年間(1558年~1570年)に 島田三河守義広によって築かれたと言われてい | 西村治彦の日記

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「見広城」の築城年代は、永禄年間(1558年~1570)に 島田三河守義広によって築かれたと言われています。

その後、島田氏は永禄年間(1558年~1570)に、勝浦城主・正木時忠に攻められ落城し、滅亡したと伝えられています。

  「見広城」は、戦国時代の城です。 

攻めた正木氏の勝浦城も、1590年(天正18年)に、徳川家臣の「本多忠勝」に攻められ、落城後、廃されています。

 千葉の山奥で、日本の天下は取れませんね。現・旭市にある「見広城」は、そのような運命を背負って、戦国時代を しばし生き抜いてきました。

しかし 潰し合いの戦国時代には、地方にある、小さな城は、消えていく運命にありました。

 そんな山奥の「見広城址(みびろじょうし)」を、私と黒子さんは登って行きました。

 断崖絶壁の山の一方は、急な崖になっておりました。

敵は、崖からは登れませんね。登っても 上から、槍や鉄砲で撃退されるでしょう。

 長い間 崖が崩れずに、今日までほぼ原形を保っているのは、崖の淵に植えられた大木が、役立っています。

 虎口から、二人は登って行きました。登ると すぐ左には、見晴らし台と思われる土塁がありました。ここに、「見広城址」の石碑が立っておりました。

そこから先に、細長い「廓」がいくつも続きます。

幅は20mくらいしかありません。この細い「廓」が段々状に、いくつか続きます。

この細い「廓」に建物を建て、城主や武士たちが、いつ起こるかも知れない戦いに備えていたのでしょう。

城が狭いので、大勢の敵に襲われたら、ひとたまりもなかったことでしょう。襲われた「見広城」の武士たちは、崖を背にして、逆に逃げられなかったのでしょう。

数千の敵に一気に襲われたら、逃げ場のない「見広城の武士たち」は、みな討ち死にしていったことでしょう。

 同じ日本人でありながら、相手が敵であるならば、皆殺し。恐ろしい時代です。

 戦国武将は、100人が50人になり、最後2人が1人になり、日本が統一されました。

 通信手段も十分ない時代には、武力で突然襲うしかない戦闘でした。

天下を統一するものが、「一人」になり、戦国時代は終わりました。

最後の一人は、「徳川家康」であります。それしか平和を実現する方法はなかったのです。尊い多くの命が奪われて、やがて平和が訪れました。

 そんな過程の「見広城址」を見たのです。

私は こんな崖の上の、山の中の城は住みたくないです。そんな思いで、私は「見広城址」を降りて行きました。

 

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