東金御殿・徳川家康公の御殿・八鶴湖のたたずまい・最福寺で日善上人と談話する | 西村治彦の日記

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東金御殿・徳川家康公の御殿・八鶴湖のたたずまい・最福寺で日善上人と談話する

 この日 私は、いちご狩りに行って、帰り 近くにある「徳川家康公」が鷹狩りに行って宿泊した「東金御殿」に寄りました。

現在は、東金高校となり

「東金御殿跡」となっております。

「東金御殿」の前には、「八鶴湖(はっかくこ)」があり、

水鳥が、のんびりと遊んでいます。

家康公は、当時、江戸城から海路あるいは陸路で船橋に進み、船橋にある「船橋御殿」で1泊し、翌日 現千葉市若葉区御殿町にある「御茶屋御殿」で 2泊目を迎えました。私は この二つの御殿には、何回か行きました。特に、「御茶屋御殿」は、当時の面影が残る「御成街道」沿いにあります。

「御茶屋御殿」を後にして、終点「東金御殿」に到着し、

到着後は、家康公は、この付近で「鷹狩」を行いました。「鷹」を使って、獲物を獲ります。現在でも 江戸時代でも、鷹匠が 飼い馴らした鷹を 使って 野生の小動物を追い詰め、鉄砲(弓矢)で 射止めるか、或いは 鷹が鋭い爪で小動物を握り殺します。当時は 弓矢や槍を使って、小動物を仕留めました。

当時、家康公が 鷹狩を行った一帯は、現在でも「徳川家康」の頭文字を逆にした、「家徳」と申す住所が、東金市に残っております。東金市家徳とは、殊勝です。

徳川家康公は、鷹狩だけが目的でなく、この近辺の外様大名が、江戸幕府に背くことがないか、会って その対応を調べたことも目的の一部であると考えられます。

「八鶴湖」の周囲には、城址、寺院があります。

戦国時代に、この地を治めていた武将「酒井定隆」の居城・東金城が、東金御殿の奥にあります。

その地を利用して、家康公は、この地に「東金御殿」を作ったのです。将軍が歩いた「御成街道」は 家康公に指示を受けた佐倉城主の「土井利勝」によって 近隣の百姓を動員して、三日三晩(実際には数カ月掛かった)で作り上げられました。「東金御殿」の前の道は、現在でも「御成街道」であります。

当時、船橋御殿から東金御殿まで 一直線の道でした。現在でも、「御成街道」は そのままあり、私も、車で 走ってみましたが、ほぼ一直線であります。ただ、区画整理などで、JR四街道駅付近は、迂回しております。

私の自宅のすぐ裏の道は、船橋~四街道線で、これが「御成街道」であります。徳川家康公、2代秀忠公、3代家光公も、当時、この「御成街道」を 大勢のお連れと共に、東金に向かって 歩いたのであります。実際に歩いたか、駕籠に乗ったかは 分かりません。駕籠ばかりだと 飽きるし、体に悪いので、自力でも歩いたと思います。

「八鶴湖」を挟んで、東金御殿の対岸に、「最福寺」

と申す寺院があります。

家康公と当時の住職・日善上人とが、「最福寺」で対談しました。

家康公が、たいそう 日善上人を気に入り、相談に乗って貰っております。

徳川と豊臣の天下分け目の戦い、「大阪冬の陣」と「大阪夏の陣」。戦うべきか、戦わないべきか、親戚同士の戦いを、是か非、家康公は、幕府開始以前に、日善上人に相談に乗って貰っているのです。日善上人は、「今しか機会はない。戦うように!」と 家康公に進言しているのです。こうして、徳川方は大阪城の豊臣方を攻め、落城させたのです。何度か対談をしています。東金での、二人の対談が、

「最福寺境内」に、レリーフ像としてありました。

凄いですね。

私と岩瀬千尋は、「最福寺」で、家康公にあやかって、願を掛けました。

岩瀬は、「来年の社会保険労務士試験に合格します!」と願いを新たにしました。家康公も、後ろで後押ししてくれています。「がんばって下さい!」

私は 特に何もないのが、困りものであります。

それでも、「このブログが、出来るだけ長く続きますように!」と願を掛けたのであります。

こうして 有意義な「東金御殿跡」の探索は、

この日 終わりました。

岩瀬は、やる気満々になりました。

彼女は、随分 変わりましたね。


 
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