雨の伝通院・於大の方、千姫、孝子、於奈津の方、亀松を弔う・徳川家の菩提寺・帰って採用試験です | 西村治彦の日記

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雨の伝通院・於大の方、千姫、孝子、於奈津の方、亀松を弔う・徳川家の菩提寺・帰って採用試験です

 この日は雨でした。新婚の大森桂子と田渕祐が同行であります。大森桂子は、「姉御」

、私は「親分」。何だか最近は 変化を求めております。

 大森桂子は、「姉御」が似合います。私は、「おねえ」になったり、「親分」になったり、訳が分かりません。

 この日の行き先は、文京区小石川3丁目にある「伝通院」であります。

この寺は、徳川家の菩提寺になっております。

徳川家の菩提寺は、他に、「上野の寛永寺」「芝の増上寺」、そして ここ「伝通院」であります。

 「伝通院」とは、初代将軍・徳川家康の生母・「於大(おだい)の方」の、またの名であります。「於大の方」は、14歳で結婚し、15歳で「家康」を産みました。享年74歳でした。

昔は 随分 若くして 結婚したものです。平均寿命が短いせいもありますが、若くして 子供を産み、世代の交代を考えての当時の結婚適齢期なのです。14歳と言うと、現代の中学2年生であります。中三で子供を産み、子供は、お付きの女性が育てたのです。

跡継ぎのために、正室、側室とも、優秀な子供を大勢産みました。特に、第11代将軍・徳川家斉(いえなり)は、男子26人女子27人 計53人の子供を設けました。ただ このうち成人まで生きたのは、半分であったそうです。平均寿命は かなり短かった時代です。まあ、将軍は 産児制限をしないで、ぼこぼこ産んだのですね。「徳川家斉」は 妻も、正室・側室合わせて 分かっているだけで、16人いたそうです。凄いですね。当時は、街に出て、可愛い好みの女の子がいたら、「ちこう寄れ!お城の姫にならんか!」と申して、側室にして行きました。お姫様になった女の子の親は、「帯刀」を許され、多くの石高を貰い、大金持ちになったのです。

 街では、女の子は、「お姫様ごっこ」をして、殿様のお姫様になることが、「女の子の夢」であった時代です。

現代では、「私は殿様、あなたはお姫様!」などと言って、「ちこう寄れ!赤ちゃん作るぞよ!」などと言いながら遊んでいると、子供でも捕まるかも知れません。
 私の子供の頃は、これに限りなく近い遊びをしておりました。年配の方は、「二コッ!」と笑って、あの頃の「美佐子ちゃん」や「智子ちゃん」を思い出すのではないでしょうか。

 この日は、同行の大森桂子が、私に、お姫様ごっこをさせないために、「姉御」になりました。

怖いですね。私は 姉御に対抗して「親分」になりました。同行の田渕祐も、「私も親分になりたいです!」と申して、優しそうな親分になりました。

 伝通院には、多くの著名な人物の墓があります。ここでは 全部を取り上げませんが、徳川幕府の女性陣の墓があります。

 「千姫」の墓がありました。

「千姫」は第2代将軍。徳川秀忠の長女であります。豊臣秀頼の妻となりました。徳川と豊臣の天下分け目の戦い、大阪冬の神・夏の陣で、実の父方と夫との戦いに巻き込まれました。夏の陣で、「千姫」が住んでいた豊臣方の居城・「大阪城」が火に巻かれ、落城していきます。味方の豊臣方と運命を共にして、「千姫」は、焼け死んでしまうでしょうか。

 この時、大阪「茶臼山」に陣取った徳川家康が、部下に命じて、火の中の「千姫」を救出したのです。「千姫」は、三男秀忠の長女なので、家康の孫にあたります。「孫」を、みすみす焼死させる訳にはいきません。「千姫」はその後 生き抜いて70歳でなくなりました。

 天下を取るとは、骨肉の争いです。孫の亭主は焼け死ぬ訳です。

その他、家光の正室・鷹司孝子の墓がありました。

享年73歳でした。

「於奈津(お夏)の方」は、家康の側室でした。

享年79歳でした。

 徳川亀松は、3代将軍徳川家光の4男(次男の説あり)です。5歳にて夭折しました。

「いや~!」。もっともっと伝通院にある著名人の墓についても書きたかったのですが、丁度 雨で体も濡れました。事務所に帰りましょう。事務所では うちで働きたいと申している二人の面接試験があります。

 幸にして、この二人は、採用されました。

ご応募ありがとうございました。

今後とも頑張って下さい。


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