倒れた奈良の大仏復興なる・本泉寺の「あおばずく」とシイの大木 | 西村治彦の日記

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倒れた奈良の大仏復興なる・本泉寺の「あおばずく」とシイの大木

 5年4カ月前の大地震で、倒れてしまった「奈良の大仏」、

私は 大地震以後、この倒れた「奈良の大仏」を見に行きました。

無残にも、台座から倒れ落ち、頭部が折れて 取れておりました。
 大震災後は、もう、「奈良の大仏」は

 永遠にダメかと思いました。

 ここで、「奈良の大仏」とは、千葉県市原市奈良にある「大仏」を申します。

奈良県にある東大寺にある「奈良の大仏」

ではありません。千葉県市原市には「奈良」と申す地名があるのです。
「なら」は朝鮮語で「故郷」と言う意味であります。従って、「奈良県の奈良」は、半島から渡って来た「半島人」が集まって、定住した場所でした。自分たちが住む場所を、「故郷」と呼びました。「奈良周辺」は、大陸や半島からやってきた文化や技術の定着の地であります。古墳も 奈良周辺には たくさんあります。古墳は 半島にも多く存在します。古墳文化が、最初に、日本で育った場所が「奈良」と言えるのです。

 「奈良の大仏」は、奈良の東大寺にある「大仏」を普通は指します。

市原市奈良にある「大仏」は、大きささえ まるで違いますが、「奈良の大仏」を模して、ここに鎮座させたのだと、私は考えます。

現在の「市原市奈良の奈良の大仏」は、2代目か3代目なのです。

長い間に破損したか、破壊されたかで、江戸時代の文化年間に作り直されております。

「市原市奈良の奈良の大仏」は この地の先にある「東金市御門」及び「東金市殿廻り」にあった「平将門」の拠城から、





そう遠くありません。

「平将門」が「市原市奈良の奈良の大仏」を建てたのだとの言い伝えがあります。

 5年4カ月前の大地震後に、私が、「市原市奈良の奈良の大仏」を見に来た時は、無残にも 大仏は 倒れて 首が取れておりました。

 その後、市原市と近隣の人々が、費用を出し合って、修復したのです。見事 元通りになっておりました。

しかも、今回は、また大地震があっても、台座から落ちないように、

大仏の下に、「芯」を入れて 再発を防ぐようにしたのだそうです。

 周辺は 古い大木の森でした。

周辺は開発されずに、「奈良の大仏」は鎮座しておりました。

 さて、「奈良の大仏」を終わって、次は 近くにある「本泉寺」に行ってみましょう。

この寺は古くて、大木の「シイ」が何本もあります。

ざっと、「800年以上 経っているシイの木」だと、私は想定致しました。

古木には、「穴」が たくさん開いております。この「穴」に、「あおばずく」が住みついているのです。

「あおばずく」は 日本で普通に見かける「フクロウ」であります。まあ 夜行性ですから、普通の人は、昼間、簡単には「あおばずく」を見ることはないと思います。

 この日、私と同行の岡崎葉が「本泉寺」に着くと、数人のカメラマンが、大きな望遠レンズを

 どさっと、大きな三脚に据え付けて、大木の上の方を撮影しています。

 私は、そっと、カメラマンに質問しました。「何を撮影しているのですか?」「あおばずく、です」。

 大きな望遠レンズのカメラは、軽自動車一台分と同じくらいの値段なのだそうです。

趣味も凄いですね。私の一台 1万円のカメラとは 全然違います。

 望遠レンズのカメラマンは、「この顔 今日一番良い!」とか申しておりました。

私には、「あおばずく」さえ 見えませんでした。昼間寝ていて、夜 行動する「ふくろう」なのです。

 本泉寺の古木を見て、次は。また 近くの「飯尾寺」に参りましょう。

国指定の「不動明王」があるのです。

この付近の名物「蕎麦」

を食べてから、



「飯尾寺」に参りましょう。


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