千葉山の探検、貴方の周りに千葉さんはいるか? | 西村治彦の日記

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千葉山の探検 貴方の周りに千葉さんはいるか?

千葉県、千葉市は「千葉氏」より取られた固有名詞です。「千葉氏」は 千葉地方の豪族として 古墳時代から平安時代に掛けて、力を有していました。鎌倉時代に入る直前、源頼朝が全国を制覇する時、「千葉氏一族」は、源頼朝に加勢をし、頼朝は 「鎌倉幕府」を発足させることが出来たのです。 現千葉地方を統一して、源頼朝による鎌倉幕府の千葉地区を治めたのは「千葉氏一族」でありました。もう 800年以上も昔のことであります。

 その「千葉さん一族」の累代の墓が、
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以前は 千葉市稲毛区園生町(そんのうちょう)にある「千葉山(ちばやま)」にありました。
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「千葉さん」と言っても 累代 大勢います。親から子供へ、何代にも渡れば 数え切れないほどの人数になります。
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現在「千葉さん」の苗字を持つ人は 貴方の知り合いに おられますか? 
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「江戸時代の剣豪、千葉周作」などは「東北地方に行った千葉さん」の子孫であります。
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私の家の近くに高速道路の「武石インター」があります。「武石さん」は 鎌倉時代初期に千葉を制した「千葉常胤(つねたね)」の三男であります。名前は「武石三郎篤盛(あつもり)」と言いました。「武石」の土地を治めたので苗字を「武石」と名乗りました。

ともかく 鎌倉時代の一人が 現在まで 何人の「千葉さん」を生じさせたでしょうか?
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日本で一番多い苗字は「鈴木」です。紀伊の神官の「鈴木さん」から 今日の「日本一多い鈴木さん」を生み出しました。

日本の「千葉さん」は 鎌倉時代に源頼朝に協力した「千葉氏一族」から 生まれてきたのです。


 「千葉さん」の古里は千葉市稲毛区園生(そんのう)町にある「千葉山」でした。ここ「千葉山」に「千葉氏一族の累代の墓」がありました。しかしながら この土地の境界争いで、農民同士で喧嘩になり、「千葉氏累代の墓」は 現「千葉神社」の境内脇に移されました。不運にも また 太平洋戦争で「千葉神社」は焼かれ、「千葉氏累代の墓」は 千葉氏稲毛区轟町にある「大日寺(だいにちじ)」に 戦後 移されました。
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 「大日寺」の本尊は「大日如来」であります。私は「大日寺」にある「千葉氏累代の墓」に行ってきました。
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墓は「五輪の塔」になっています。5個の石を積み上げています。
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それぞれの石には意味があり、五輪塔は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形=空輪(くうりん)によって構成され、古代インド
において宇宙の構成要素・元素と考えられた五大 を象徴しているそうです。
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「千葉山」には「園生八臂(はっぴ)弁財天尊」がありました。
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「八臂
」とは「8本の手」という意味だそうです
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「八本の手」に いろいろなものを持ち、人々に 幸せをもたらす神であると説かれています。
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昔の人々は 自然界の摂理や条理が解明させていませんでした。
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神に祈って 困難を 乗り越えたのです。そんな過去の歴史が 身近なところにありました。
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「千葉山」と「弁才天」は 国道16号線の脇にありました.
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 目の前には 天台県営野球場があります。
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 高校野球を見に行っても たぶん誰にも知れず、
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千葉県指定文化財になっている「千葉山」には 気が付かなったのではないでしょうか。
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