血の罪とは何なのかについて、

まずはエホバの証人伝道者と家の方との会話形式で考えてみましょう。



伝道者:血は命を表しています。


家の人:ほう、なるほど。では何ccでも血は命を表してるんですね?
だったらキリストは死ぬ必要などなくて血を一滴差し出せば良かったのではないか?


伝道者:いえ、命を差し出すことによって贖いの犠牲となられたんですよ。


家の人:だったら血が命を表すというのは死んだ場合にのみ成り立つのでは?


伝道者:・・・


家の人: だったら人を殺して奪った血ではなく、生きている人が善意で提供してくれた血を用いた輸血は禁止というのはおかしいのでは?
それは正反対の命を救う尊い行為では?


伝道者:・・・


(会話終わり)



もしこうした会話になった場合、
エホバの証人でちゃんと反論出来る人はいるのでしょうか?



さて、血は文字通り命を表しているのか、
それとも命が失われるが故に「命を表す」と言われているのかを他の聖書の言葉からも考えてみましょう。


あなた​は​ほふら​れ,自分​の​血​を​もっ​て,あらゆる​部族​と​国語​と​民​と​国民​の​中​から​神​の​ため​に​人々​を​買い取っ​た​から​です。
啓示5:9


屠られること、つまり命が失われたことが関係していますよね?



15 ダビデ​は,「ベツレヘム​の​門​の​そば​に​ある​水ため​の​水​を​飲め​たら​よい​の​に」と​願望​を​口​に​し​た。 16 そこで,3​勇士​は​フィリスティア​人​の​宿営​に​無理​に​突入​し​て,ベツレヘム​の​門​の​そば​に​ある​水ため​から​水​を​くみ,ダビデ​の​所​に​持っ​て​き​た。しかし​ダビデ​は​飲も​う​と​は​せ​ず,エホバ​の​前​で​注ぎ出し​た。 
17 彼​は​言っ​た。「エホバ,命​を​懸け​て​行っ​た​人​たち​の​血​を​飲む​など,私​に​は​考え​られ​ない​こと​です!」 こう​し​て​彼​は​水​を​飲も​う​と​は​し​なかっ​た。以上​は​3​勇士​が​行っ​た​こと​で​ある。
サムエル②23:15-17


ダビデが「水」を「血」と呼んで飲もうとしなかったのは、それが部下たちが命懸けで無理をして持ってきたものだから。
それを受け入れれば、また別の機会にも命を賭けさせ、部下達の命を失わせる可能性すらあったから。

当然ですが、いつでも「水」は「血」を表すものではない。水をいつでも飲むべきではないという訳ではない。




エホバの証人が主張するように血は常に命を表す神聖なものであり、
それ故に他人から提供された血を取り入れる行為、つまり輸血することも避けなければいけないというのなら、

暴力を振るって他人に流血させた場合、それは神聖なもの、「命」を奪ったということになるので、
その人は死刑にされなければならないのではないか?

しかしこんな記述があります。


言い争い​が​起き​て,1​人​が​石​や​こぶし​で​殴打​し,相手​が​死​に​は​し​なかっ​た​もの​の・・・​
ただし,その​人​が​完全​に​回復​する​まで,仕事​が​でき​なかっ​た​時間​分​の​賠償​を​する。
出エジプト記21:18-19


エホバの証人の基準でいえば、
怪我による遺失利益分の賠償だけでいいというのはおかしいことになりませんか?





ー聖書に対する洞察p178ー
聖書では、魂が血のうちにあると言われています。それは、血が生命作用として極めて密接な関係を持っているからです。神のみ言葉はこう述べています。「肉の魂は血にあるからであり、私はあなた方が自分の魂のために贖罪をおこなうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血がその内にある魂によって贖罪を行うからである」。(レビ17:11)同様の理由で、しかし生命作用との関係をなお一層直接的なものとみなして、『あらゆる肉なるものの魂はその血である』と聖書は述べています。(レビ17:14)明らかに、神のみ言葉は命と血の両方を神聖なものとして扱っています。




ユダヤ教の有名なラビであるメナヘム・メンデル・シュネールソン氏の講話でも「動物を血のまま食べる事は生きたまま食べるという事、残酷に扱うという事」
と説明されていました。参考までに。





エホバの証人は親子丼を食べますか?


血についての命令の真意は何ですか?


血の恩恵に預かりませんか?


輸血と踏み絵ー似ていませんか?


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エホバの証人は甲殻類を食べますか?