場所は京成小岩駅~京成高砂駅間で、前回記事の場所からは歩いて移動です。
京成ドライビングスクールと京成電車高砂検車区の裏を歩いていけば、そんなに苦にならない移動です。
3500形3589の京成津田沼行き普通
かつては京成電車最大両数だった3500形も、未更新車は4両編成4編成のみとなり、すっかり脇役になってしまいました。
3700形3851の成田空港行き特急
3700形のうち、前照灯が前面上部に移動し、急行灯と後部標識灯を横長の2段型とした後期導入分です。このタイプの後部標識灯は、JR西日本223系(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線用の1000・2000番台)でも採用されており、おそらく同じメーカーの同じ部品かと思われますが、その上にある同じ大きさの急行灯は京成グループ車両以外での採用例がなく、3000形とともに新しい“京成スタイル”とも言えましょうか?
行先・種別表示は字幕式でしたが、現在はフルカラー表示のLED式となっていて、成田空港駅発着の場合は行先と経由(京成本線経由と成田スカイアクセス線経由)の交互表示となります。
3700形3791の京成佐倉行き快速
こちらは3700形でも中期導入分の編成で、3700形でいくつかあるバリエーションうちで最も多いタイプです。この編成も当初は行先・種別表示が字幕式でしたが、現在は3色表示のLED式を経てフルカラー表示のLED式となっています。
この編成は1997年度導入分で、“同期”として3808編成が存在していましたが、2003年から北総鉄道にリースされ、7300形7808編成となっています。
3000形3012-1の京成津田沼行き普通
言わずと知れた現在の京成電車最大勢力の3000形です。
京成グループ標準車両として位置づけられていて、新京成電鉄、北総鉄道・千葉ニュータウン鉄道に同系車が導入されています。
3400形3441の成田空港行き特急
初代AE車“スカイライナー”の走行機器を流用して作られた車両です。
1993年に登場し、すでに短命だったAE車時代よりも長く活躍していますね。
京急線や北総線にも直通していますが、成田スカイアクセス線経由のアクセス特急での運用はできません。京成電車で初めて車椅子スペースを装備した車両です。
~ここから下は、同じ場所で20年前の1993年5月に撮影した画像です~
3600形3611の京成臼井行き普通
最近、芝山鉄道リース車から京成車両として“復帰”した3618編成です。
現行塗装化が始まるちょっと前の時期で、未だ窓下の帯がファイヤーオレンジのままですが、雨樋下の帯は現在塗装に通ずるフューチャーブルー(そういえばお隣の私鉄で最近、特急車や新車でこんな名前の色が使われていますね…色味は違うようですが)に変更されています。
3448編成の20年前は・・・
初代AE車AE-61の成田空港行き“スカイライナー”
京成上野駅~成田空港(現・東成田)駅間、ノンストップ60分運転を目指して作られた初代“スカイライナー”です。10両編成を想定した6両編成で導入され、カーブの多い京成本線で効率よく速度を維持して運転できるように、定速制御を採用していました。これは、運転士がマスコン(運転士が操作するハンドル)で維持すべき速度を指令(AE車では50~110㎞/hの範囲で5㎞/h刻み)すると、勾配の変動や走行抵抗に拘わらず指令速度を維持するというシステムで、古くは阪急電車で1960年から導入された2000・2300・2100系オートカーで実用化されたシステムで、阪急のあとは1963年登場の名鉄の7500系パノラマカーや1971年登場の京阪3000系テレビカーでも採用されています。この定速制御を実用化することとリンクして、京成初となる界磁チョッパ制御と回生ブレーキも採用していますが、回生ブレーキは停車のためのブレーキ用としての意味合いより、定速制御のための機能という意味合いが強く、50㎞/h程度で失効していまい、ブレーキシューの摩擦力による空気ブレーキに切り替わります。このことは、定速制御を廃した3400形にも継承されることとなり乗入先の運転士からの評判がよくないという話も聞きます。
外観は今見れば時代を感じる雰囲気もありますが、当時としては斬新だったようです。車内はクリームイエローの布目柄(色調は現在の3500形未更新車や3600形に近いかと思いますで、柄は当時の西武101系に近かったかと思います。)の化粧板(客室の連結側は茶系の木目)、座席はビニールレザー張りの転換クロスシートでした。かつて1600形“開運号”でリクライニングシートを採用したことを考えると、サービス低下とも感じられるところですが、空港連絡特急としてのビスネス需要が強いということや、当時の国鉄新幹線も普通車は転換クロスシートであったことを考えると、これで十分と判断されたのかもしれません。座席は後年、ビニールレザーが茶色のモケットとなり、晩年は回転式簡易リクライニングシートに交換されています。座席ピッチは外国人旅客の利用を想定して転換クロスシートとしては広めになっていましたが、スーツケースなどを置くスペースが設置されておらず、後年の改造で設置されています。その他、配色や座席を別とすれば当時の国鉄特急車にどことなく通ずる雰囲気だった気がします。
塗装は、1600形“開運号”譲りのクリーム色とマルーンでしたが、空港連絡特急としては地味すぎるということで、1983年から画像の通りの塗装になっています。先頭車の斜めラインは、当時の国鉄185系“踊り子号”を意識したものでしょうか・・・?
AE車は1972年に登場し、成田空港開港をまだかまだかと待ちわびる日々がつづきましたが、折りしも空港反対派の妨害活動もあってほぼ完成していながらも中々開港できず、1973年の年末になってようやく3200形“開運号”を代替する形で京成上野~京成成田駅間で暫定的に運行を開始しました。
その後も1978年の成田空港開港・京成成田駅~成田空港(現・東成田)駅間開業直前に宗吾車庫でAE-30編成のAE-29が放火されて運行不能となるアクシデントや、厳戒態勢故の見学客や送迎客の低迷、成田空港(現・東成田)駅の位置が不便さ(駅から空港ターミナルまでバス連絡)から、利用者数も低迷していましたが、上り全列車日暮里駅停車やイブニングライナー・モーニングライナー設定などの営業努力や円高による海外旅行需要増加、時間が読める鉄道の優位さが評価されて1980年代後半は右肩上がりで利用客が増加しました。そんな中、時の運輸大臣の一声で、空港ターミナル直下に用意されていた成田新幹線用の施設を利用し、JR東日本とともに京成も乗り入れることとなり、“スカイライナー”の8両編成化も実施されることとなりました。AE車は2編成を分解して改造の上、他編成に組み組み、不足分を新形式AE-100形導入により補充する形となりました。おそらくこの時期が初代AE車がもっとも華やかだった頃だと思われますが、その一方でAE-100形に比して格落ちの感が否めないAE車は、1991年以降AE-100形増備車に代替される形で運用離脱、順次走行機器を流用して3400形に生まれ変わることとなります。
1992年夏以降、スカイライナー所要時間短縮により、AE-70編成のみとなったAE車は、特定の運用に限定されるようになり、それも毎日充当されるというわけではなく、「充当“可能”な運用」という形の特定運用となったため、捕まえにくい存在となってしましました。そして、1993年6月にAE-168編成運用開始とともに定期運用から離脱し、6月のさよなら運転で引退することになります。実際には、3400形としての竣工まではAE車としての車籍を有していたため、1995年までAE車が在籍していることになるのですが、運用可能な状態ではなかったので、1993年で引退と括って問題ないと思います。
3100形3129の成田空港行き特急
現行塗装に移行する直前だったので、当然ファイヤーオレンジのベタ塗りです。
この頃はまだ、3100形の8両編成も普通にあり、特急、通勤特急や急行、あるいは京急線や北総・公団線への直通にも充当されていました。
かつての“京成スタイル”といえば、左右に分かれたオデコの前照灯ですが、これを京成で初めて採用したのも、最後まで堅持したのもこの3100形でした。