志布志散策/志布志内城:鹿児島県 | 投資 播種 目を出せ! 植木屋のブログ

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酒と旅を愛した昭和の芭蕉

『種田山頭火』は昭和五年の秋、志布志を訪れている。

十月十日福島(現在の宮崎県串間市)から徒歩で志布志に入り、十二日志布志駅から都城へ向かい、この間山頭火は四十六の句を詠んでいるが、この旅の日誌『行乞記ぎょうこつき・あの山を越えて』には、当時の志布志の様子がいきいきと描かれている。

『小西児童公園』(元は小西墓地)

 

『肝付兼続の五輪塔』

肝付家16代兼続は志布志・福島・飫肥を領していた豊州島津氏を破り、志布志を隠居所と定め、大隅の経営に当たりました。

永禄9年(1566年)に志布志で没。

 

 

<伝承によると、伝左衛門は帯刀を許された商人で、糸満の漁師に金を貸したところ2年目になっても返せないので腹を立てて漁師を斬ろうとした。

「意地起きらば手を引き、手出らば意地を引け(腹を立てたら手を引き、手を出そうとしたら腹を鎮めよ)」

かっとなったらダメだという伝えを残した。

 

『日本どん』の墓

船頭であった善作は天気占いを得意としており、その功績により当時の藩主から名字帯刀が許され、『日本』姓を与えられました。

 

『愛甲喜春』の墓

慶長10(1605)年に志布志で生まれた愛甲喜春は、仏教や儒学などを学び、藩主である島津光久の侍講となり江戸へ行きました。

その後志布志へ戻り藩政に大きな影響を与えたといわれています。

 

 

『即心院跡』

島津6代氏久(1323-1387)と敬外夫人の墓碑が残されています。

氏久は南北朝時代の大隅の守護職として約30年間、志布志城(内城)の城主として志布志を治めていました。

 

『東郷医院跡』

「児玉病院(洋館)」後に東郷家によって診療が引き継がれ、「東郷医院」として地域医療の拠点となりました。

大正7(1918)年に建てられた洋館

 

 

 

『志布志城』

 

 

 

『津口番所跡』

藩政時代には、前川河口に船着場があり、

廻船・貿易船の積荷を取り締まっていました。

 

藩政時代の密貿易者中山宗五郞の宅址

2024.6.3(月)