『油津駅』で『南宮崎』行きに乗換
油津駅から2駅で『飫肥(おび)』駅
『泰平踊り』
宝永4年(1707)対立していた薩摩藩と和解したことを祝って、
武家にも踊ることが許され、侍と町人が一緒に踊ると言う、
他藩にはまれな催しが続いてきました。
大名行列のような重厚な踊りです。
『酒谷川』を渡ると飫肥城下町となっていました。
天正16年(1588)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏5万1千石の城下町として栄えたところです。
後ろから走って追い抜いていったネコだと思ったら、タヌキだった。
『大手門』1978年(昭和53年)に復元
日向国に勢力を伸ばした土持氏(つちもちし)により、南北朝時代に築城され、
標高約51mのシラス台地は三方(西・南・東側)を取り囲むように酒谷川(さけたにがわ)が流れ、複数の曲輪で難攻不落の城として有名でした。
1485年(文明17年)に、『伊東祐国(すけくに)』が、飫肥への侵攻を開始しました。
これにより伊東氏と飫肥・都城を支配していた島津氏との間で、
約100年にわたって、飫肥城をめぐる争いが繰り返されます。
1572年(元亀3年)以降、伊東氏は勢力を失い、飫肥城は島津氏が支配。
しかし、1587年(天正15年)、「豊臣秀吉」の九州征伐で16代島津義久を降伏させ、この戦いで先陣の指揮を執っていた『伊東祐兵(すけたけ:伊東氏18代)』はその功を称えられ、飫肥城主に返り咲きます。
その後、伊東氏は幕末まで300年近くもの間、飫肥城一帯を支配し続けました。
『桝形虎口』
石垣の大半は江戸時代になってから貞享3年(1686)
5代藩主・伊東祐実(すけざね)が改修したものです。
左は『旧本丸』 右は小学校になっているが江戸時代の『本丸』
『旧本丸』
北大手門
旧本丸の虎口
途中のスーパーで宮崎ポイント使用。
乗り鉄から飲み鉄に早変わり。。。青島へ向かいます。
2024.6.3(月)