尾張国上四郡守護代岩倉城主織田信安の家老 山内盛豊が城代として黒田城を居城とした。
この盛豊の二男が江戸時代土佐藩主となった「山内一豊」である。
弘治3年(1557年)織田信長の夜討によって落城し、山内但馬守盛豊と長男十郎は討たれ(諸説ある)、
山内一豊は竹藪に逃れ、生竹を倒し橋にして堀を渡って逃れたという。
目まぐるしく城主が変わりました。
山内盛豊,和田定利,和田定教,沢井雄重,一柳直盛,富永忠兼
現在は、黒田小学校の一部分です。
この川を利用して堀を巡らしていたのでしょう。
踏切を渡ると「法蓮寺」
山門は崩壊の恐れ有りで通行止め
墓所地最奥に「山内但馬守盛豊・十郎父子の墓」
「山内但馬守」と読める(看板等は無い)
JR木曽川駅に戻る途中「見初塚」