明智神社 福井県福井市東大味町
明智光秀は織田信長に仕える前は越前朝倉氏のもとで仕えておりました。この地はその時の住居跡と言われています。その住居跡に「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠「明智神社」があります。
明智光秀の三女 珠(玉) ※後の細川ガラシャの生誕地とも伝わっております。
明智光秀と越前の地
美濃国の斎藤家に内紛が起こり、内紛に巻き込まれた光秀は美濃を追われ、越前に逃れたといわれています。
その後、光秀は越前に妻子を住まわせ、自身は旅に出て文武をみがいていたようです。特に当時の最先端の武器の火縄銃に目をつけ、その技術を習得し、加賀一向一揆と朝倉氏の戦いでは、朝倉軍に与し勝利に貢献しました。
これを機に、鉄砲指南役として朝倉氏に仕官したといわれています。
柴田勝家が一向一揆との戦いでこの地に兵を送り込もうとしましたが、光秀は住民を戦禍から守るため、勝家に攻撃対象から外してもらうよう申し入れたと伝えられています。
神社の祠の中には高さ13cm程の木彫りの光秀坐像が祀られており、この木像は東大味町の3軒の農家が「生きているのは光秀公のおかげ」と、光秀の像を密かに400年以上守り続けてきたと伝えられています。
光秀の命日である6月13日に御開帳が行われ、ご神体である光秀の木像を見ることができます。
明智神社から約20Km離れた所に
織田信長の祖先の故郷で、氏神として厚く崇敬した劔神社があります。
織田一族発祥の地 劔神社
(福井県丹生郡越前町織田金栄山)
織田家の由来
織田家は越前町織田荘の荘官であり、劔神社の神官として仕えておりましたが、神官の子の常昌という人物が、越前の守護斯波氏に家臣として取り立てられ、後に尾張の国に派遣されることになりました。
苗字は故郷の地名をとって織田を名乗るようになったとのことです
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