「尼御前岬」「安宅の関」は、兄の源頼朝から逃れ奥州へ向かう源義経一行が通過した地とされます。
「安宅の関」は、市川團十郎家の歌舞伎十八番で最も人気が高い演目「勧進帳」の舞台となった地です。
源義経 武蔵坊弁慶 関守富樫左衛門の像(安宅の関)
尼御前岬
石川県加賀市美岬町 尼御前岬
源義経、弁慶一行は、山伏の集団に変装し奥州へ逃亡していました。その一行には「尼御前」と呼ばれるひとりの尼(従女)が同行していました。
「この先の安宅の関の取り締まりは非常に厳しい」という噂があり、それを聞いた尼御前は「これから先一緒にいては足手まといになる」と深く憂いました。そして主君の道中の無事と成功を祈りこの岬の断崖から身を投げてしまいます。
この悲しい忠義の物語から、この岬は「尼御前岬」と呼ばれるようになりました。
尼御前の像
尼の正体は、義経の愛妾「静御前」では?との説もあります。
岬から日本海を一望できます
安宅の関
石川県小松市安宅町夕140-4
歌舞伎の演目「勧進帳」の舞台となった地です。
歌舞伎の演目「勧進帳」
源頼朝に追われた源義経一行が奥州へ逃亡する途中、安宅の関に差しかかります。関守の富樫左衛門から「東大寺再建のための勧進帳(寄付を募る趣意書)を持っているか」と問われ、武蔵坊弁慶は白紙の巻物を取り出し、そこに書かれているかのように即興で読み上げ、切り抜けますます。
しかし、荷物持ちに変装していた義経が、本人では?と疑われると、「弁慶」は主君を救うために「お前のせいで疑われた」とわざと金剛杖で義経を激しく打ち据えます。この弁慶の悲痛な忠義の姿を見た富樫は、正体を知りつつも通行を許します。という内容です。
源義経の像
武蔵坊弁慶の像
関守富樫左衛門の像
鎌倉時代末期に幕府が編纂した武家政権最初の歴史書「吾妻鏡」や室町時代中期に編纂された(作者不詳)源義経とその主従を中心に描いた軍記物語「義経記」には、「尼御前岬」や「安宅の関」のことは、全く書かれていません。
15世紀後半、能の作者 観世小次郎信光が、「義経記」に書かれている「三の口の関」「井上左衛門の温情」「如意の渡しでの打擲(ちょうちゃく)」の3つのエピソードを一つに統合し、「安宅の関」を舞台とし、関守を「富樫」に設定して作ったのが能の「安宅」です。
それが、江戸時代に歌舞伎の「勧進帳」へと発展しました。
ATAKA TERRACE - こまつ勧進帳の里
正妻の郷御前と子供たち
「吾妻鏡」には、義経は潜伏していた奥州平泉で、頼朝からの圧力に屈した藤原泰衡に攻められ、郷御前を手にかけ、後に自害したと書かれています。そのことから、義経一行の京都から奥州への逃避行に、郷御前と子供たちは同行していたと考えられます。
中世の修験道では、山伏が修行の際に身の回りの世話をする少年を連れて歩くことは一般的な光景ですが、女性や赤子を連れることはありません。
「義経記」には、弁慶は郷御前を「笈」(仏像や経典、衣服などを入れる木製の箱)の中に背負い、赤子の(亀若丸)も笈の中に入れて隠したとされます。
弁慶は、赤ん坊の泣き声がすれば「これは比叡山の尊い仏像(あるいは御神体)であるため、時折、奇跡の声を放つ」と言い訳をして煙に巻いたとされます。
静御前と郷御前
「吾妻鏡」では、義経の愛妾の静御前は、義経への愛を貫き通した悲劇の女性として何度も登場していますが、正妻の郷御前は、婚姻(1184年)奥州下向(1187年)衣川での自害(1189年)の3カ所のみで軽く取り上げられる程度の記載です。
「吾妻鏡」が北条氏の立場から編纂された歴史書であり、郷御前の実家の河越氏は、頼朝の乳母である比企尼の血を引く「比企氏」の派閥でした。
比企氏は、後に北条氏と権力争いをして滅ぼされた氏族であるため、郷御前のエピソードは意図的に省略されたといわれています。
弁慶謝罪之地
石川県能美市道林町ヘ−106
安宅の関から3.5kmほど離れた地に、安宅の関を無事に突破した後、弁慶が「主君を叩くという大不敬を犯してしまった」と涙を流して義経に詫びたとされる場所があります。
安宅住吉神社
石川県小松市安宅町タ17番地
「安宅の関」のすぐ隣に鎮座する、782年創建の歴史ある神社です。義経、弁慶一行が、最大の危機を切り抜けた地に鎮座されていることから、全国で唯一の「難関突破の守護神」として人気の神社です。
勧進帳を読み上げる弁慶の石像
神亀石
「左・右・左」と3回撫でてから神前に祈ると、延命長寿や末広がりの幸福、運気上昇のパワーを授かることができると云われています。
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