しかしね?

こういうのって
「ライブ」に対してだけのことだっけ?

違うよね。


むしろあれよ

好きな音楽、
見たいライブについてさえ、
そうなわけです。

するってぇと

やはり外は
疲れる場所だ という ことなんでしょうか ね?

人がこわい
とか
信用できない
とか。

とここまでじりじり
すすんでくるうちに
いろんなキーワードが
フラッシュバックのように

いっぺんに
羅列される感覚がある

『楽しむことを学ぶのよ』

『きみは遊ぶのが下手だねぇ』

『今まで人を信じたことがないね』

『人を愛したことがないのね?』


わー

これは、きびしいなあ。

やっぱりそうなのかな?



フラッシュバックに応じるわたしなのだ。

で、
どうやって
そういうのを
変えていくのか
方法が全くわかんないもんなー。

(こうやって書き出してみて、もうけっこうしんどいですけども)

土曜日夜も更けて友達としゃべってるうちに
ポッコリ
問題の核心が浮かび上がって
きましたんですよ。


「恥ずかしいんだよね」

そうです。

自意識過剰というか
いろんなことが恥ずかしいんです。

それ

メインは
『人にどう思われてしまうか?』
『どう見えているか?』
というポイントから
派生しているように
思います。

そのうえ
この
『人にどう思われてしまうか』
という感覚は

(冷静な客観性に基づくものではなくって)
そもそも危険から身を守るためのアンテナとして
妙な(歪んだ)感度がぐんぐん伸びたものなんだと
おもいます。

(そのアンテナは
使い道のない
長いツノみたいに
とても邪魔になります。生活するのに邪魔になるわけです。)

あれ?

でもなにが恥ずかしいんだろう?

んん?

ええと

1対1で向き合うのは、わりと大丈夫。

不特定多数?
ええと
『誰か』に見られてる/思われてる(と感じてしまう)のが苦しいというか
濃度を薄ーくしたパニックなのよね?

自分の想像力?対応のキャパシティーを越えちゃうんですよ、あっさりと。

自動的に恥ずかしい。
『恥ずかしい』状況はとても苦しくてつらいので、こわいこと、嫌なことなんです。

あれ?

整理できたようで
できてないんじゃない?

気持ち悪いねぇ








やー、

繊細…なのか?

(もっとなにか えぐいものが潜んでるんじゃないのかなあ)

やー

まあ

ここから先は繊細を通り越して
恥ずかしい(つか情けないに近い)話なんだけどもねぇ。

気づきました猫山田。

思い出しました猫山田。


そこには
(猫山田が言うには)
「プレッシャー」があるんです。


(え?今この人、プレッシャーって言った?)


そうですプレッシャーです。


(※プレジャーでもトレジャーでもありません。)


ほら、
当然さ?
「ライブ」でも
「舞台」でもね、
その場限りなわけでね?

『今ここで感じられるか/楽しめるのか!?』
というプレッシャーがそこに
(猫山田にとっては)
あるのであります。


それに加えて、
感じてなお、持ち帰るためにはケアが必要なわけで
(メモリー機能が弱いのかしら俺)
気楽なものじゃないんだと思ってるわけなのです。
(ひとりで行くほうが気が合う誰かと行くよりも気苦労は断然多いです)

ふー。

なんかヤワな感受性ですなあ。
かたじけないったらないですが、
これはまあ
現実なのですな。


その一方で

音源(CD)や
映像(DVD)だと
1度目で感じ損ねても、
そのまま音楽/景色は、そこにあるのであります。
2度目に聴いた/観たときにも、同じ形で(!)、感じるチャンスがそこにあるのであります。
つまり
素晴らしさが、そこに留まってくれているのですよある意味。

わたしにとっては、
それ、
すっごい、
やさしい在りようなんです。

こちらの
コンディションの調整を待ってくれる余地があるわけです。
それをとても「やさしく」感じるのでしたよ猫山田は。


そうね

であるからこそ

音源、映像、本、が
わたしにとって
信頼が置けたり
親密な気持ちを抱くものなのだなぁと改めて思いましたですよ。

まるで手紙みたいに感じるのですな。

いつか伝わるときまで必要とされるときまで無意味のふりしてでも それらは 待ってくれているように
猫山田は
感じるんですね。


ふー。


ある意味じゃあ
『たまにしかひらかない扉』なのでありますわたしの心なんてのは!

や、

ひらきたいですけどね。

ひらき方よくわからないんですから。

集中力が小さいんでしょうかねぇ?

(それはあるとおもう!)

や、

これは、
こういうのは

悪化したとかではなくて

淡々と15年くらい普通にそうしているのです。

普通にめんどくささと共にあるのであります。

猫山田です。








さてさて。

土曜日、友人が部屋に来ました。もろもろの近況などを聞くのです。はい。
(最近は自分以外の人がいろんなことをどう感じたり考えているのかを聞くのがおもしろいのですようやく。)

あるていどヘビーな話題が落ち着いた頃に、気楽なかんじで、
最近よく演劇の舞台を観るという友人に

「どうして猫山田は演劇、観に行かないのー?なにか理由とかあるのー?」

と訊かれたのでした。
わたしは考えてみた。
うーむ。

まずはとっさに、
前提として「ライブ」より「音源」が好きだったりすることや、「本」や「映像」が落ち着くんだよねー、なんていう話をしたあとで、続けざまに
浮かんできた
すこし妙な考え

口にしたのでした。


えーとね、
もしも、今よりもっともっとたくさん、舞台の映像を
テレビやらDVDやらで気軽に見られる状況があればね、
きっと、
こう、
じわじわとね、
『これはすごいなあ』
とか
『ぜひ生で観たいなあ!』
っていう
気持ちの土台つうの?

親密さっていうかさ?

そういうのを高めてからならさ

もっと
行くかもしれないなあ…

と。

わたしは言った。

で、
自分で言ってすぐ
妙な隙間のようなものを感じた。

(そこにあった隙間が、わたしの闇のようなものを図らずもずるずるとひっぱり出させることになった)

これはなかなか
奇妙な言い様ではないのか?

この人(猫山田)は
なに?
親密さを高めたりしないと
行けないのかい?

そんなまどろっこしい
(あるいはフットワークの重い)ことを言っているのか…。
と、

そう

なんだか

不憫に思ったほどであるのでした。