天然記録 -85ページ目
アボカドカレークリーム
アボカドに釣られたけど🍛味、いまいちだった

 

 

 
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↑より抜粋

 

前にも言ったかと思うが

歴史は一部の先覚者だけがいかに目覚めても前には進まない。

国民の大多数を占める庶民が「これではダメだ」とか

「新しい政府にするしかない」と思い定めなければ

いくら先覚者が声を大にして叫んでも、付いては来ない。

庶民は安定を求めるからだ。

黒船が来ようと外国人が日本に大勢入って来ようと

それで何も変わらなければいい。

 

「イギリスは軍事力で清を散々脅して屈伏させた」

のは事実だったが

海の向こうの話であり、直接自分の目で見たわけではない。

だから庶民にとっては

いや社会の支配階級である武士にとっても

それは対岸の火事なのである。

では、彼等が目覚める時はどんな時か?

 

それは、その「安定」が何らかの形で崩れた時だ。

「安定」とは何かといえば、まず経済的安定だろう。

平たく言えば「食える」ということだ。

逆に言えば、フランス革命もそうだが

おとなしい庶民も餓死によって大反乱を起こす。

今も昔も、為政者の責任とは民を飢えさせないことにある。

それさえ出来ていれば社会は安定する。

今年と同じ暮らしが来年も出来ると思えば

人々は黙って働き反乱など起こさない。

 

この年(安政6年)、日本は本格的に開国した。

それで何も変わらない。

逆に日本が豊かにでもなれば

倒幕運動など起こりようもなかっただろう。

先覚者がいかに黒船の危機を訴えても

それは幕府がきちんと対応するから問題ない

ということになったはずだからだ。

しかし、日本、いや幕府は対応を誤った。

 

これまで述べたように様々な失敗はあったが

当時はマスコミもなく「不平等条約の締結」

ということすら外には漏れない。

ところが「為替ルート」設定の失敗だけは隠せなかった。

これは日本経済に直接影響を与えたからだ。

 

まず、金銀交換ルートが国際価格と合っていなかったため

大量の金が日本から流出した。

これも平たく言えば国が貧乏になったのだ。

そして、その対策として、ただでさえ金の保有量が減っているのに

残り少ない金の品位を減らした万延小判を発行した。

国際相場との調整をするためとはいえ

通貨供給量を3倍にしたということは

物価も3倍になったということだ。

しかも極めて短い期間で。

 

商人はインフレ分を値上げして物価に組み込むことが出来るし

職人などの労働者も手間賃を上げてもらうなどの処置で少しは対処できるが

もっとも困惑したのが幕府開幕以来

給料を「〇〇石」という形で米でもらっている武士階級だ。

 

真面目に日々の勤めをこなしている下級武士がいる。

その俸禄(ほうろく)は江戸時代初期からまったく変わりないが

最近どうやっても暮らしが立ち行かなくなった。

本来、武士の俸禄というものは主君に対し軍役をつとめるものだから

足りないということは有り得ないはずだ。

しかし、実際に足りない。

その原因をつきつめて行くと

物価がすべて2倍以上に上がったことが原因だとわかった。

 

江戸時代の幕府の経済政策といえば

老中田沼意次(おきつぐ)の「改革」は別にして

すべて米増産で財政を立て直そうというものだった。

また、しばしば行われた貨幣改鋳(かいちゅう)も

基本的には金貨の品位を落とすものであった。

つまり、2つとも「インフレ政策」なのである。

その上で、幕府は物価を最終的には3倍に押し上げるような政策を実行した。

 

これでどうやって暮らして行けというのか。

武士にとって「商売」とは賤(いや)しいことであった。

「アルバイド」も出来ないし、もしやるとしたら

それは極めて屈辱を伴う作業になる。

それもこれも、彼等に見える「原因」は開国したことである。

そして、その認識自体は間違っているとは言えない。

では、どうなるか?

「ガイジンなど皆叩き斬って日本から追い出してしまえばいい」

ということになる。すなわち攘夷だ。

 

前にも紹介したが、アメリカのハリスと組んで日本に誤った経済政策

(品位を落とした万延小判の鋳造:ちゅうぞう)を勧めた

イギリスのオールコック総領事も、後にこの過ちに気が付いたが

回想録では全部ハリスの責任にしている。

 

「被害者は全国民」なのである。

長屋の住民だって苦しんでいた。

実感としては、稼いでも稼いでも暮らしが楽にならない

ということになる。

「こん畜生、こんな馬鹿な世の中があってたまるけえ」

ということになり、たとえば浪人がガイジンを叩き斬れば

快哉(かいさい) を叫び

「もっとおやりなさい。役人には口が裂けても言いませんぜ」

ということにもなる。

 

天皇や公家も

「コレラのような疫病が流行し

庶民の暮らしが立ち行かなくなったのは

すべて“ケガレに満ちたガイジン”を日本に入れたためだ」

と思っている。

すなわち彼等も「ガイジンを叩き出せ」に大賛成なのである。

 

ところが幕府は攘夷実行など不可能なことを知っている。

徹底的に突っ張った清国がイギリスにどのような目に遭わされたか

情報はきちんと把握しているのである。

しかし

「攘夷は不可能ですから、開国路線で行くしかありません」

ということを、幕府は主張できないのだ。

その理由は、幕府が軍事政権であり

その長である征夷大将軍はまさに

「ガイジンどもを叩き出す大将軍」であるからだ。

「攘夷実行不可能」と言った途端に

「ならば幕府も将軍もこの国には無用のものではないか」

ということになってしまうのだ。

 

ならば、どうするか?

表向きは「いずれ鎖国に戻します」

というウソで時間稼ぎをして、その間に英仏などと戦えるように

軍制を改革し、科学技術なども取り入れることだ。

しかし

「日本にとって本当にいいのは、開国し広く貿易を行なって

国を豊かにし軍を改革していくことだ」

という正論をうっかり唱えると

「貿易が国を豊かにするだと

開国以来我が国の経済は滅茶苦茶になったではないか」

という攘夷派に切り殺されてしまう。

現に、この論者の勝海舟は何度も命を狙われたし

「海舟」という号を彼に与えた佐久間象山(しょうざん)は

後に本当に斬殺されてしまう。

この時代の奇妙さがわかって頂けただろうか?

 

客観的に見て、日本という国を

欧米列強の植民地にさせず独立を保って行くには

結局、明治維新政府が採用した、開国近代化の道しかない。

しかし、この時点で、その正論をもって人々を説得しようとすれば

実行不可能な攘夷を唱える人々に斬り殺された、ということなのである。

だから、この時点で、本当の意味で日本の将来に貢献出来ていた人間は

まさに海軍術を学んでいた勝海舟のように

日本の近代化に少しでもかかわっていた人間だ。

島津斉彬(なりあきら)はその代表であった。

しかし、藩内保守派の総反撃にあって暗殺されてしまった。

斉彬の暗殺は日本にとって

人々が考えている以上にはるかに大きな損失なのである。

 

水戸も長州も薩摩も

「このままではいけない」という点では一致していた。

そして、その三者の共通するのは皮肉なことに

「幕府は攘夷を実行すべき」であった。

皮肉といったのはこれが実行不可能だからだ。

大老井伊直弼が自分の行動を「正義」と確信していたのは

反対者が攘夷を唱えていたからだろう。

「馬鹿めが、そんなことをしたら日本が滅びるではないか」

ということで、確かにこの点においては井伊の方が正しいのである。

だから井伊は水戸藩を徹底的に追い詰め

ついに藩主の徳川慶篤:よしあつ(一橋慶喜の実兄)から

「戊午の密勅をお返しします」という言質を取った。

安政6年12月20日(和暦)のことだ。

井伊はこれで完全に勝ったと思った。

 

 

安政7年(1860)3月3日。

その日は朝から季節はずれの大雪であった。

大老井伊直弼(なおすけ)の登城を護衛する供廻り徒士(かち)

上士で15名、他に足軽、馬夫など軽輩の者と合わせ総勢60名は

刀が雪溶けの水に侵されることを防ぐため

柄袋(つかぶくろ)をつけていた。

日本刀は鉄で出来ているから水気を嫌うのである。

しかし柄袋をつけているということは

とっさに刀を抜けないということなのだ。

「カバー」をはずす手間がいる。

 

そしてもう一つ、今まであまり指摘されないことを言えば

護衛の彦根藩士の手は寒さによって

相当かじかんでいただろうということだ。

昔は手袋をしないし、武士たるもの

いかに寒くても手は外気に触れさせたまま堂々と歩かねばならない。

一方の襲撃部隊は、茶屋で大名行列の見物客を装っていたから

手はいくらでも暖められる。

火鉢にかざしてもいいし、懐に手を入れるだけでも全然違う。

このハンデは意外に大きい。

 

水戸脱藩浪士を中心としたグループが

大老暗殺という非常手段に出た直接のきっかけは

井伊大老の圧力に屈した水戸藩上層部が

戊午の密勅の返納を決定したからだった。

前にも述べたように

井伊は戊午の密勅のことを

水戸斉昭(なりあき)の大陰謀による

「帝の御意志に反するもの」と誤解していたが

実はそうでなはい。

それは本物

つまり孝明天皇の叡慮(えいりょ)を反映したものだ。

だから、これを返納することは

水戸藩が天皇の御意志を踏みにじったことになる。

 

忠臣として、天地が引っくり返ろうとやってはいけないことだ。

それを、井伊大老はやれという。

しかも、孝明天皇もそれを望んで勅書を出したと主張するのだ。

その主張自体は事実だった。

確かに帝は井伊の要請に基づき「返納命令」を出した。

だが、今度は逆に水戸藩士の一部は

「そんなことはウソに決まっている」と思った。

なぜなら本当にそんなものがあるなら、見せればいいからだ。

しかし、井伊は「勅書は出た」とは言うが現物は見せようとしない。

一言で言えば、井伊は

「朝廷(おそらく岩倉具視(ともみ)の策」にはまったのである。

しかし、井伊がその現物を見せなかったにもかかわらず

幕庁はその圧力に屈した。

井伊は腹心長野主膳(しゅぜん)に命じて工作させ

水戸藩に対して天皇から「水戸は先の勅(密勅)を返還せよ」

という命令を再度出させることに成功したからだ。

 

そして勝ち誇った井伊は

水戸藩主徳川慶篤:よしあつ(斉昭の子)に対して

「返さねば天皇の御命令に反することになるぞ」

と返納を強く求めた。

これには藩庁も「返納やむなし」と断を下した。

しかし、藩内の過激派はこれに絶対反対だった。

激派は

「先の戊午の密勅こそ帝の本当の御意志であり

後から出された命令は大獄で忠臣をすべて奪われ

御自分の意志を通せなくなった帝が止むを得ず出したものだ。

偽の命令に従って本当の御意志の籠っている密勅を返納することは

忠臣たるもの絶対にすべきではない」

と考えたのだ。

それゆえに、藩に迷惑をかけないために脱藩し

浪士となって井伊を討つことを決めた関鉄之助ら18名は

自分たちが正義を実行しているという確信があった。

 

大名行列とは、今で言えば連隊、あるいは大隊の行進にあたる。

たとえ、その部隊長の命を狙うからといって

行軍中の軍隊を襲撃するバカはいないだろう。

自爆テロでもやるというならともかく、部隊長の命だけが目的なら

行軍時以外の警戒の手薄な時を狙うのが常識というものである。

テレビ時代劇などでよく見る、大名行列が襲撃されるという事件は

実は江戸時代ただの一件もなかったのだ。

おそらく井伊の頭の中にも、この常識はあった。

常識とは先例によって形成されるものだからだ。

 

井伊は「狙われている」という情報を摑みながら

行列を守る部下には「警戒せよ」と言った形跡がない。

もし、彼等がそう言われていたら

少なくとも柄袋は外しただろう。

少々の雨なら雨具などつけないはずが

この日は全員が雨合羽をつけねばならぬほどの大雪だった。

これも襲撃側に有利である。

雨合羽を着ていると動きが鈍くなるからだ。

井伊側にこうした悪条件が重なっていた。

言うまでもなく井伊側の不運は襲撃側の幸運である。

 

襲撃側は武鑑:ぶかん(大名図鑑)を手にして

行列の見物客を装っていた。

そこへ井伊家の行列がやってきた。

打合せ通り、まず森五六郎が偽の訴状を持って行列の先頭をふさいだ。

「お願いの儀がござる」と直訴を装ったのである。

当然、行列は一旦停止し

供侍(ともざむらい)の一人が森を排除するために出てきた。

それを森は訴状を捨てると抜き打ちに斬り捨てた。

あっと驚いた供侍が行列前方へ走り

井伊の駕籠(かご)の周囲が手薄になったところへ

黒澤忠三郎が側面から駕籠へ向かってピストルを一発放った。

この一弾が駕籠の戸を貫いて見事に井伊に命中した。

 

ピストルが射ち込まれた時

駕籠かきや荷物持ちはクモの子を散らすように逃げてしまった。

桜田門はすぐそこだから、井伊が重傷を負っていたとはいえ

彼等が逃げずに駕籠をかついだまま門内へ逃げ込んだら

城内には番士もいるし医者もいる。

何とかなったかもしれない。

しかし、駕籠はその場に置き去りにされる形となった。

ピストルが射たれたのを合図に同志が一斉に斬り込んだ。

ここで井伊にとっての、さらなる不幸、襲撃側の幸運が起こった。

 

フリーランスの駕籠かきなどが逃げたのは仕方がない

代々禄(ろく)をもらっている藩士のうち

7人がそのまま何も抵抗もせずに逃げたのである。

この7人は後に士道不覚悟のゆえをもって

切腹ではなく斬罪に処させている。

もっとも、彼等にも言い分はあっただろう。

屋敷が目と鼻の先なのだから

応援を求めに行ったということも充分に有り得る。

それは駕籠脇に残った者の命令だったかもしれない。

しかし、それを確かめる術はなかった。

駕籠脇に残った者はすべて闘死したからだ。

見事にはねられた井伊の首は

ころころと雪の上をころがったという。

 

 

幕府の面目丸潰れである。

繰り返すが、これが殿中(江戸城内)で

井伊が刺殺されたという「密室」内の事件であったら

なんとかシナリオ通りにもみ消すという手もあったかもしれない。

しかし、事件は公然と、大衆の面前で行われたのだ。

 

どの時代の、どんな政府であれ

国民は政府が自分たちを守ってくれると思うからこそ

信頼するのだ。

そのために、求められるのは

外に対しても内に対しても毅然とした強さ

別の言葉で言えば「頼もしさ」なのである。

特にこの時代は、外敵が日本を屈服させようと迫って来ていた時代だ。

そして、庶民は、いや武士も幕府の

「軟柔(なんじゆう)外交」に不満をつのらせている。

 

もっとも、この点は、井伊だけの責任ではなく

軍事政権であるにもかかわらず

日本を守るということについて

怠慢であった歴代政権の責任であり

井伊はそのツケを一度に払わされた形なのだが

その軍事政権の司令官代理(大老)が

少人数の数に呆気なく首を取られたことは

「幕府って頼りないな」と多くの人々に思わせた。

しかも幕府は、その収拾にあたっても

乱を恐れる余りウソをついて逃げようとした。

つまり、「大ウソつきの腰抜け」と

国民に思われる結果を招いてしまったのだ。

そんな政権に付いて行くバカはいない。

 

桜田門外の変

つまり大老井伊直弼暗殺事件について、その後の経過を述べよう。

 

現場で指揮を執っていた関鉄之助と岡部三十郎は

見届け役とし斬り合いには参加せず

後に追われる身となって捕吏(ほり)に捕らえられ斬罪に処された。

首謀者の一人である関にとって、おそらく無念だったことは

関を捕らえて江戸へ送ったのが

幕府ではなく水戸藩だったということだ。

関は様々な地を逃亡した挙句

故郷の水戸藩領へ戻っていたのである。

 

だが、そこも藩庁の知るところとなり

山一つ越えた越後国(新潟県)で

水戸藩の追手に捕まったのだ。

身内に裏切られた思いがしただろう。

水戸藩領を出たのだから

見逃してくれてもいいだろうとも思っただろう。

しかし、水戸藩は容赦なかった。

その理由は、関が「忠節を尽くした」

と確信していた水戸斉昭が、事件後すぐに関らを

「天下の大罪人」と断定し

一人残らず捕らえろと命じたからである。

 

しかし、この時点(捕まったのは事件の1年後)には

既に水戸斉昭はこの世の人ではなかった。

 

安政7年から万延元年となった

1860年の8月15日、和暦だからまさに

中秋の名月の日に月見をしていた斉昭は突然倒れ急死したのだ。

心筋梗塞だったという。

 

それにしても、斉昭が死んだことで

「捕らえよ」という命令は「先君の御遺命」になってしまった。

こうなると幕藩体制が続く限り誰も取り消せない。

そこで、関も捕らえられてしまったのだろう。

藩内には同情論もあったはずである。

その辺が儒教体制の愚かしさというべきか。

 

 

井伊大老がいなくなったことにより

一橋派として追放されていた人々の復帰が徐々に始まった。

しかし、前にも述べたように

最大の大物水戸斉昭は病死してしまったし

復帰を最も期待された岩瀬忠震(ただなり)

は身体を壊してしまっていた(翌年死亡)

 

一方、大老が死亡したことにより

幕府の最高権力は老中安藤信正(のぶまさ)に移った。

だが、安藤は「井伊大老は生きている」というような

あくまで波風を立てまいとする政治姿勢を取っていた人物である。

結果的に見れば、幕府はこの時

事態をごまかさずに果断な処置をしておいた方がよかったということは

前にも指摘した通りだが、安藤はいかにも「穏健派」らしく

この国難を収拾するにあたって

これまでとは別の方向へ政策の転換をはかった。

それが公武合体である。

 

公武合体とは

公(朝廷)と武(幕府)が一つになるということで

具体的には

若き将軍徳川家茂(いえもち)の御台所に

皇女を迎えるというものである。

これは徳川家康が幕府を創設した頃には

まったく考えられない態度であり政策であった。

 

家康は天皇家を圧迫し

その権力と権威を事実上封殺しようとした。

それは秀忠の娘和子を中宮として

「押しつけられた」後水尾(ごみずのお)天皇が

譲位に際し憤激のあまり

「とても道ある世とは思へず」と詠じたことでもわかる。

 

徳川家から天皇家に「嫁を出す」のはかまわない。

それは徳川家の方が「上位」ということになるからだ。

しかし逆は問題だ。

そんなことをすれば

「天皇が義父、将軍が婿」ということになり

天皇が「上位」ということになってしまう。

これは徳川家康の企画にまったく反することになる。

 

こうした流れの中で、条約勅許(ちょっきょ)問題も生まれた。

そもそも幕府は「鎖国」をするにあたって

勅許(天皇の許可)など取っていないのである。

だから新たに「開国」するにあたっても本来は

勅許など必要ないはずだ。

「大政」は「委任」されているのだから

幕府は勝手にやっていいはずなのである。

それなのに大老井伊直弼ですら朝廷への根回しをして

勅許を取らなければならないと考えていた。

幕末にはそれが常識となっていたのである。

 

井伊暗殺の原因の一つも

勅許を得ずして条約締結に踏み切ったことがあった。

少なくともそれが多くの人々が納得する理由であったことは事実だ。

戊午の密勅問題も、結局は天皇という存在が

「オールマイティの切り札」となっていたから起こったと言える。

そこで老中安藤信正はこの「切り札」との連携を強化するために

公武合体を実行に移すことに決めたのだ。

 

そこで、天皇には女の子がいない状態だったが

天皇の妹で既に有栖川宮熾仁

(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約していた

和宮(かずのみや)にお鉢が回ってきたのである。

いや「回ってきた」というより「回した」のが

その頃には妹の縁で侍従(じじゅう)という

天皇側近の地位を獲得していた岩倉具視(ともみ)であった。

 

記録にはないが

ひょっとしたら策士の岩倉は自分の妹の産んだ女子を

降嫁(こうか)させることを考えて、運動していたのかもしれない。

そうなれば岩倉は「将軍の義兄」ということになって

ますます地位が向上するからだ。

しかし、その子の死で計画は挫折した。

そこで和宮に白羽の矢を立てたのではないか。

自分が「将軍の義兄」になれなくても

孝明天皇はなれるからだ。

岩倉の方が発案したと思うのは

孝明天皇は当初はこの計画に大反対だったからだ。

既に和宮は婚約者がいる身だったからである。

しかし、そこであきらめる岩倉ではない。

 

 

岩倉は孝明帝にこう進言した。

「和宮様を御降嫁させる見返りとして

幕府に攘夷の実行を確約させればよいのです」と。

具体的には条約を破棄させ

夷人(いじん)を日本の国土から1人残らず叩き出すことである。

 

孝明帝は悩んだ。

岩倉がこのように進言したのは

安政から万延に元号が代わった6月のことだったが

そうした情勢の変化を敏感に察したのか、和宮は

「帝のおそばを離れたくはありません(関東には行きたくない)」

という手紙を出した。

しかし孝明帝は岩倉の進言を受け入れ

「幕府が攘夷の実行を確約するなら和宮降嫁も止む得ない」

という断を下した。

攘夷実行のためには、妹を犠牲にしても止むを得ないと考えたのだ。

 

幕府はもちろん攘夷を実行するつもりはない。

そんなことは実行不可能だからだ。

しかし、和宮降嫁は何としても実現させたい。

そこで、幕府は口からデマカセを言った。

酒井所司代(しょしだい)をして

「10年以内に必ず攘夷を実行します」と約束したのである。

実は、この約束、文書で残っているわけではない。

酒井は口約束をしたのである。

 

万延元年10月18日

孝明帝は和宮降嫁に対し勅許を与えた。

和宮はしぶしぶながら、この話を受けざるを得なかった。

ところが、幕府は

「攘夷を必ず実行します」という言葉の舌の根も乾かぬうちに

プロシア(北東ヨーロッパ)や

ポルトガルとの通商条約を交わしてしまった。

しかも、それを事後報告の形で酒井に伝達させた。

 

孝明帝は怒って、和宮降嫁を破談にしようとすら考えたが

辛うじて思いとどまった。

記録には無いがこの間、朝廷では岩倉が

幕府からは酒井が必死になって説得していたのだろう。

なお、このプロシアとの通商条約締結の直前

アメリカは公使ハリスの通訳だった

ヒュースケンが攘夷勢力に暗殺されている。

 

ここで、桜田門外の変以降の

水戸藩の情勢について少し触れておこう。

井伊大老暗殺は幕府の権威を大きく失墜させた。

しかし、肝心の水戸斉昭が暗殺を評価せずに

むしろ犯罪として追及する姿勢を見せたことも

水戸藩内の激派(過激派、急進改革勢力)は

藩内の主導権を鎮派(穏健派、幕府恭順勢力)に奪われた。

そこで、劇派は藩外の勢力と盟約を結んで

日本を改革するという方向を選択した。

しかし、これまで連携していた薩摩藩は名君島津斉彬の死後

保守派の島津久光が実権を握り

水戸は裏切られる形となったので頼りにならない。

そこで、彼等が目をつけたのが長州藩だった。

 

 

西丸帯刀(さいまるたてわき)、岩間金平は

幕府に対して積極的に批判し改革して行こうという

激派の一員だったが

水戸藩だけで改革を成し遂げようとする多数派に対し

他の雄藩(ゆうはん)とも力を合わせるべきだ、という論者であった。

しかし、この時点では

西丸のような考え方の人間は水戸藩では勢力が弱まっていた。

理由は一つ、薩摩藩の裏切りである。

 

薩摩が共に立つと信じて

水戸激派は桜田門外に井伊大老を急襲した。

そして、薩摩藩からも有村次左衛門

( じざえもん)がこれに参加した。

ところが、薩摩藩は

「国父(藩主の父)」島津久光の方針で

現場が勧めていた水戸藩との連携を絶ってしまった。

それどころか水戸に協力した有村雄助(ゆうすけ)

(次左衛門の兄)まで切腹させた。

当然、水戸藩に起こったのは

「他藩の者は頼りにならん」という怒りの声であった。

しかし、西丸らはそれでも他藩との連携が絶対に必要だと考えていた。

日本全体の改革である、同志は多ければ多いほどいい。

 

そこで、同盟相手として浮かび上がったのが長州藩であった。

 

 

ところで、この「成破の盟約」

藩と藩との正式な同盟ではないこともそうだが

もう一つ注意すべきは倒幕を目指したものでもないということである。

あくまで、その目的は

幕府改革を通して日本を立て直すことなのである。

そういう意味では

彼等が絶対に許せないと考えていた

公武合体派と基本的には変わらない。

 

だが、この「腐っても鯛」

の幕府を何とか生かそう、という考え方は

これからの数年間で急速に時代遅れとなり

「腐った鯛はやはりゴミ箱に捨てるべきだ」

つまり倒幕という路線に変わっていく。

 

この巻おわり

 

 

 

 

 

↑より抜粋

 

話を京都に戻そう。

安政5年の12月30日まさに大晦日に

孝明天皇は上洛していた老中間部詮勝(まなべあきかつ)に

「止むを得ず条約を結んだことへの疑義は氷解」

という勅書を与え、幕府の条約締結を追認した。

天皇はおそらく腹わたの煮えくり返る思いであったろうが

年明けて安政6年、調子に乗った江戸の井伊大老は

京の間部老中に

「天皇が水戸藩へ下した攘夷(じょうい)をせよとの

勅(戊午の密勅:ぼごのみっちょく)を返納する命令を

勅として天皇に出してもらえ」

という命令を送った。

 

間部はそれは無理だと思ったに違いないが

大老の命令だから仕方がない。

関白九条尚忠(くじょうひさただ)に頼んで天皇に願った。

たぶん九条関白も激怒した天皇に一喝されると思い込んでいただろう。

それでも恐る恐る上奏した。

ところが、あにはからんや、その勅許があっさりおりたのである。

間部は大喜びで、その勅書を江戸に送った。

ところがそれを見た井伊は蒼白となって、その勅書をにぎりつぶした。

それには次のように書かれてあったのだ。

 

(大意)

下総守(間部詮勝)が上京し説明してくれたので

幕府の真意はよくわかった。

今後は大樹(将軍)大老、老中も心を合わせ

いずれ鎖国の旧法を復活(つまり攘夷実行)すると申すのだな

神州(日本)にとってまことに目出たいことである。

これまでの幕府の行為は、いずれ夷狄:いてき(外国人)どもを

追い払うための深謀によるものと了解した。

この上は、特に水戸にだけ攘夷を命ずる必要もないから

早々に返納させてよいぞ。

 

これはまさに「毒まんじゅう」である。

おそらく間部は孝明天皇を説得するために

ペラペラと無責任なことをぶちまくっていたのだろう。

なにしろ、すべてを水戸斉昭(なりあき)の大陰謀だという

ウソ八百を並べ立てていた男である。

そうした中、記録にはないが

「いや条約締結などは一時しのぎ、これで時間稼ぎをして

いずれは昔の鎖国に戻します」

と口からデマカセを言ったに違いない。

それを言わなければ、この天皇の勅書が

「おまえたちの真意は鎖国にあるのだな」

という表現になるはずがない。

 

そして、これは「直球」しか投げられない孝明天皇に

誰か軍師がいて「指導」したからこそ

安政初期にはまったく見られなかった

「変化球」の勅書になったと考えるのが妥当だ。

その軍師役は、反幕主義者ではあるが

今回の密勅騒ぎには加担しておらず

それゆえに幕府側の検挙を免れた人物であり

同時に天皇に意見を上申できる何らかのパイプを持っている人物だ。

そして、こうした策略の才を持つ人物ということだから

やはりキーマンの一人

岩倉具視(ともみ)以外は考えにくいのである。

 

しかし、間部はともかく井伊大老は

こんな策略にのせられるほどの愚か者ではない。

この先、井伊は使者を水戸家に送り勅の実物は一切見せることなく

ただ「先の勅を返納せよ、という天皇の命令が下された。

臣下である以上、まさか勅に逆らったりはしまいな」

という論法で、水戸家をネチネチと責め立てるのである。

そこで、ついにキレてしまった水戸家の過激派は

いや、これはまだ先の話だ。

つまり井伊は、これだけの成果を得ても

まったく弾圧の手をゆるめなかったのである。

腹心長野主膳(しゅぜん)を使って、朝廷に圧力をかけ続けた。

 

 

幕府の追及の手は容赦なかった。

そのうち逮捕された志士梅田雲浜(うんぴん)が、拷問にかけられて

「長州藩の吉田寅次郎(松陰)という男も「仲間」だ」と自白したのである。

そのため、幕府から長州藩に吉田を江戸へ送れ、という命令が下された。

しかし、この時点では長州藩は事態を深刻なものとは見ていなかった。

確かに、松陰は「老中間部を討つ」と公言したが実行はできなかったし

そのことを知っているのは藩内の人間だけだ。

すなわち、その件は本人が黙っていればわからない。

それに、幕府が松陰を召喚したのは、梅田雲浜とのかかわりだが

確かに松陰は雲浜と交際はあるものの

戊午の密勅についてはまるで関与していないのである。

 

「余計なことはしゃべるなよ」という注意が与えられ

松陰は唐丸駕籠:とうまるかご(罪人護送用の駕籠)

に入れられて江戸へ護送された。

大勢の人間が見送りに出たという。

これも他の藩なら有り得ないことだ。

多くの人々は松陰が無事に帰ってくることを信じていた。

詳しい情勢は知らなくても、松陰が今中央で問題にされている

「水戸斉昭の大陰謀」にかかわりがないことは明らかだからだ。

しかし、松陰と親しく、その性格をよく知っている人々は一抹の不安を感じていた。

言わなくてもいいことを言って、幕府の役人を刺激しないか、ということだ。

その不安は的中する。

 

ところで、大老井伊直弼という男は、まさに粘着質ともいうべき性格で

この際、一橋派を徹底的に追及し

「水戸斉昭の大陰謀(そんなものは実体として存在しないのだが)

に、関わった連中はすべて粛清するという決意を固めていた。

つまり「正義」のためなら手段は選ばない。

法律など無視してもかまわないということだ。

 

幕府の中にも、もちろん良識派はいる。

そういう法律を無視した不公正な裁判に異を唱える人間もいた。

この「安政の大獄」と後に呼ばれた一連の弾圧において

その被害者の裁判は五手掛(ごてがかり)という形で行われた。

これは、幕府評定所において

寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、および目付より

1名が5人がかりで審理にあたるというもので

いわば幕府の「最高裁判所」であった。

 

ところが、この5手掛のメンバーの中に

井伊の強引なやり方に不満を持っている人間がいるとわかった。

寺社奉行板倉勝静(かつきよ)と

勘定奉行佐々木顕発(あきのぶ)がそれだが

井伊はそうと知ると、ただちに2人を罷免(ひめん)して

「イエスマン」の本荘宗秀(むねひで)池田頼方(よりかた)を後任にした。

問題はなぜ2人が井伊に批判的とわかったか、ということだが

長野主膳のような「エージェント」が幕閣の中にいたかもしれない。

あるいは井伊の権勢を恐れた人々が積極的に

「御注進」つまり密告したのかもしれない。

残念ながらこういうことはよくあることだ。

 

人間、自分の身が大切だから、こういう時に同僚を告発して

身の安全をはかろうという連中が必ず出る。

そういう連中の対極にいる人間、それが吉田松陰だ。

国家のためなら自分の命はどうなってもいいと覚悟している松陰が

井伊に対する「イエスマン」で固められた五手掛による

「審理の場」に引き出されたのだ。

安政6年(1859)7月のことだった。

 

五手掛のメンバーは、当初の予定通りの梅田雲浜との関係を問題にした。

戊午の密勅事件に松陰は何らかの関与があるのではないのか

ということだ。

しかし、この点では松陰はまったくの無罪である。

裁く側もそれはわかった。

もともと証拠不十分であり、罪に問えるような状況にはない。

もっとも「とにかく罰せよ」というのが井伊の方針だったから

もしこのまま審理が終わったとしても

この程度の容疑でも罪とされた可能性はないとはいえない。

しかし、死罪は有り得なかっただろう。

 

ところが、審理を打ち切ろうとした五手掛に対して

なんと松陰は自ら

「間部老中討伐計画」を告白したのである。

なぜそんな「バカ」なことをしたのか、と多くの人は問うだろう。

それはこういうことだ。

「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」

孟子の一節で、松陰が最も愛した言葉の一つであった。

 

前にも言ったが

松陰は決して話し合い拒否の武力一辺倒の人間ではない。

「心を込めて説得すれば、心を動かさない者はいない」

というのが座右の銘だからだ。

日本は変わらなければならない。

そのためには幕府は倒されるべきだ。

これが松陰の信念であった。

そして、もちろんそれが正しいことだと確信している。

ならば、他の人間も、たとえそれが幕府の高官であっても

必ず正しいと納得させることが出来るはずだ。

もちろん、それには命の危険が伴う。

高官たちが耳を貸さずに

自分をやみくもに死罪にするという可能性も

考えられるからだ。

 

だが

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

である。

「正しい」ということは、それを認めるだけではダメで

積極的に実行しなければならない。

そのために命を落とすこともいとわない。

むしろ、そうしなければ

本当にその「正しいこと」は定着しない。

松陰は熱意を込めて、自分がなぜ間部老中を討とうとしたか

なぜ幕府は滅びるべきなのか、当の幕府の高官に向かって説き続けた。

 

だが、彼等はしょせん「イエスマン」である。

「しめしめ、また一人、厳罰に処することが出来るぞ。

これで大老もお喜びだろう」

という感覚しかない。

それでも彼等の判決は「遠島」つまり今の言葉で言えば

「無期懲役」であって「死刑」ではなかった。

犯行は未遂だし、自ら告白している。

江戸時代だと言っても、これでは死刑は無理なのだ。

ところが、井伊直弼はそれに異を唱えた。

 

通常、五手掛の判決が

老中首座か、大老に届けられた時は

罪一等を減じて差し戻すという慣例があった。

たとえば、死罪なら遠島に変更するという具合にである。

ところが、大老井伊直弼はその逆をやったというのだ。

五手掛が流罪でいいと言うのに

井伊はそれを死罪にして押し返したと言うのである。

吉田松陰は結局この大獄の最後の刑死者となったが

先に処刑された橋本左内(さない)ら

日本にとって極めて有為な人材も

本来なら死なないで済むところであったのを

「井伊の赤鬼」が殺してしまった、ということである。

 

とにかく、井伊直弼という「検察」は

最初から「ストーリー」を描いている。

「戊午の密勅事件は、自分の息子を将軍にしようとした

水戸斉昭の大陰謀である」

というのが検察側の「ストーリー」

いや「デッチ上げのデタラメ」である。

つまり事実ではない。

 

密勅は攘夷を進めようとした人々が

朝廷に工作して出してもらったもので

水戸斉昭はこれにかかわっていない。

すなわち無罪である。

それにもかかわらず

長野主膳という「一検察」のデッチ上げを

井伊直弼という「検事長」が信じてしまった。

そこで、すべてこの「ストーリー」に

関与したとされる人々が一斉に検挙された。

取り調べや拷問で彼等に求められたのが

「水戸斉昭が主犯なんだな、さっさと吐け」

ということだ。

もちろん、志士たる者、ウソの自白など出来ない。

たび重なる拷問にもついに

「自白」に及ばなかった者は獄死した。

 

そして、最後の刑死者が吉田松陰であった。

松陰は、はじめ自分が死罪になるとは夢にも思っておらず

獄中からそういう見通しを述べた手紙を盟友に送っている。

この時、江戸には弟子の高杉晋作がいたが

桂小五郎も松陰の身を案じて上京し

差し入れを届けるなど世話をしていた。

 

それは10月16日のことだった。

その日、松陰自身に読み聞かされた「吉田松陰口書」

つまり供述書に身に覚えのない罪状が書き連ねてあった。

しかも、その中にはあれだけ否定した

梅田雲浜との「共謀」まで入っていた。

「検察のストーリー」はあくまで

「水戸斉昭が主犯の大陰謀」であり

死罪に値するのは老中暗殺未遂などではなく

戊午の密勅事件への関与なのである。

 

この悪人どもは、私を陥れて死罪に処するつもりだと直感した松陰は

遺言の書ともいうべき「留魂録(りゅうこんろく)」を書き始めた。

明日処刑される、という情報が入った時

松陰はこれを一夜で書き上げたのだ。

これは没収を恐れて二部作成されたが

最終的には二部とも長州にたどりつき、写本が作られ広く回読された。

しかし、松陰は10月27日

夜明けに「留魂録」を書き上げたその日に

刑場へ引き出され斬首された。

武士の礼に基づく切腹ではない。

火付や強盗などと同じ扱いで、死刑執行人に首をはねられたのだ。

 

その遺骸は身ぐるみ剝がされて刑場の小塚原(こづかはら)に

捨てられることになっていた。

もっとも腐敗すると見苦しいという理由で

土の下に埋められることは許されていたが

墓標などは立てられない。

埋葬ではなく「遺棄」ということだ。

新刀試し斬りの材料にされることもあった。

 

江戸在勤の長州藩士飯田正伯(しょうはく)は松陰の門人であり

この日を予想して牢役人に金を贈るなどしてコネをつけていた。

その努力が実り、正伯は「留魂録」を入手したばかりか

松陰の遺体が試し斬りのために下げ渡されたという情報もつかんだ。

そこで江戸に来ていた桂小五郎と共に師の遺骸を手に入れ無宗派で

刑死者の面倒も見る両国の回向院(えこういん)へ取りあえず埋葬した。

変わり果てた師の遺骸を見て、桂小五郎は心に誓った。

「必ず幕府を倒す」と。

 

刑死者8人、獄死者6人、もっともこの数に入らない犠牲者もいる。

西郷隆盛と共に錦江湾に入水し死んだ月照も

つかまっていれば獄死者の中に入っていただろう。

そもそも月照の身体が弱く取り調べに耐えられないだろうというのが

逃亡の理由だったのだから。

そして西郷も、この入水事件の後に「死んだこと」にされず

中央へ送られていたら、おそらく橋本左内と同じ罪状で斬罪に処されていただろう。

また、配流(はいる)の途中に病死した者もおり

これは通常「獄死」には数えられないのだが

これも大獄の犠牲者である。

それでも、死者は50人は越えないと思われるので

「少ない」とする論者もいる。

東アジアの常識ではそうだ。

 

東アジアの常識では一族皆殺しなのである。

しかし、そうしなかった。

日本には怨霊信仰があり、無実の者を処刑したりすれば危険だからだ。

結果的に、菅原道真(すがわらのみちざね)はそれでも怨霊になったが。

大老井伊直弼は当時の幕閣で最も外交官として優秀だった

川路聖謨(かわじとしあきら)、岩瀬忠震(ただなり)

永井尚志(なおゆき)らをも一度閑職に追いやった後

岩瀬、永井は斉昭と同じ終身禁固にした。

 

一体、何を考えているのか?

当時の幕府、いや日本にとって最も必要な人材は有能な外交官である。

諸外国から強硬に開国を迫られている国難の時期において

幕府はドロ縄式ではあったが、なんとか有能な外交官僚を育てつつあった。

その川路、岩瀬、永井らをすべて追放してしまったのである。

そして、その理由は、彼等が一橋派であるから、ただそれだけなのである。

 

京都でも、前関白、左大臣、右大臣ら

一橋派の人間をすべて出家に追い込み

イエスマンの関白九条尚忠のみを残した。

「水戸斉昭の大陰謀」を封じ

その推進者である一橋派を処刑し収監すれば

すべては治まると、井伊は考えたのだろうか?

治まるはずが無い。

 

まず、そのほころびは外交面にあらわれた。

 

 

 

↑より抜粋

 

孝明天皇は幕府に腹を立てていた。

それは激怒という言葉を使ってもいいほどのものであった。

その天皇に開国を納得させるため

幕府の代表である大老井伊直弼は後に

「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を始めた。

そして、その大弾圧に屈した形で

天皇は一度はクビにしようとした

関白の九条尚忠(ひさただ)を復帰させた。

当然、幕府の威を借りた九条関白に誰も逆らえない。

 

そういう状況の中で、安政5年の最後の日で大晦日の12月30日

(和暦なので31日は無い。1859年2月2日にあたる)

孝明天皇の「幕府の開国に対する疑問は氷解した」

という「お墨付き」が出たのである。

散々じらされたが(と間部は思ったろう)ようやく出た

「天皇の了解」に狂喜し、間部はこれで大きなヤマを越えたと思った。

ところが、実はこの辺りから岩倉具視が孝明天皇の

「軍師役」として動いていたのではないかという見方がある。

 

まず第一に、この「氷解」の勅諚(ちょくじょう)は

内容がまったくおかしいのである。

それまで孝明天皇は幕府の態度に激怒していた。

その説明のために上洛した間部老中の無礼を怒り

その言い訳の拙劣(せつれつ)さに呆れ果てていた。

にもかかわらず、この勅諚の内容は一言で言えば

「事情は了解した。幕府の言い分はその通り認める」

なのである。なぜ「氷解」なのか?

あれだけの怒りはどこへ行ってしまったのか?

 

この勅諚のキーポイントはよく読むと

「幕府はいずれ攘夷をやるという。

今条約を結んだのはあくまで仮のことなのだな

わかった、わかった」なのだ。

つまり幕府が熱望していた「開国への勅許」を与えることで

(しかも散々じらした挙句に)幕府側を喜ばせているが

実は真の狙いは「将来における攘夷の決行」を

幕府に確約させた、という点にあるのではないか、ということだ。

 

もちろん、そんな高等戦術は孝明天皇の

直情径行(ちょくじょうけいこう)な性格から見ても

天皇自身が行なったとは考えられない。

しかし、九条関白の復帰でほとんどの公家が

その鼻息をうかがっているような状況の中で

天皇にこれだけの策を授けることの出来るのは

「実の妹が内侍(ないし)」という

天皇との太いパイプを持っている岩倉以外に考えにくい。

ともあれ、京からの急使で孝明天皇の

「了解」を得たと知った井伊大老も喜んだ。

 

そして井伊は調子に乗ったのか

老中間部詮勝(まなべあきかつ)に対し

「水戸家に対して戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を

返納するよう命じる勅諚を天皇に出してもらえ」という指令を発した。

間部はこの指令には頭を抱えたようだ。

機嫌の悪い天皇を、どうやって納得させるか。

開国の「了解」は得られたとはいえ、そこまで踏み込んでいいものか。

しかし、間部には九条関白という「切り札」があった。

この「切り札」をもう一度使って

とにかく孝明天皇に幕府の意向を申し入れたのである。

 

その結果は、どうなったか。

それを語る前に、長州藩の動向を見てみよう。

吉田松陰は「間部を討つ」という爆弾発言を危険視した藩庁によって

身柄を野山獄(のやまごく)に移された。

しかし、獄舎と言っても面会も手紙を出すのも自由

書籍も取り寄せ可能で、何を書いても罰せられなかった。

この辺が他藩では有り得ない、長州藩独特の風土である。

まず才能ある若者をとことん大事にすること

そして過激な発言も「若い者はそれぐらいでなくてはいかん」

と許すところだ。

他藩では「間部老中を討つ」などと口にしたら

それだけで切腹ものだ。

幕府の耳に入らぬよう、闇から闇へ処分されることも充分に考えられる。

 

この時、松陰は藩士としての籍を削られ

身分としては百姓と同じだった。

しかし、それはアメリカへの密航を企てるという

幕府最盛期には死罪に処せられる罪を犯し

しかもそれが幕府の知るところとなったためで

もし幕府に知られていなかったら

そもそも士籍を剥奪されることすら無かったかもしれない。

 

しかし長州はまるで違う。

だから、相変わらず松陰はその過激な主張を引っ込めはしなかった。

それどころか江戸にいる愛弟子の高杉晋作には

今こそ決起せよ、という手紙を書いた。

しかし、これに対する高杉や桂小五郎の反応は

「先生、まだ時期尚早です。

いま決起しても必ず失敗します。どうか自重して下さい」

というものだった。

 

高杉の判断は戦略的には正しい。

たとえば藩庁が大砲を松陰の要求通りに本当に貸し出してくれたとしても

その大砲をごろごろと引きずって街道を行けば

たちまち幕府の知るところとなり幕府の指令を受けた大名たちに

街道の通行を妨げられ、討伐隊を差し向けられるだろう。

 

しかし、その反応を知った松陰は激怒し

高杉らを手紙の中で猛烈に批判した。

 

松陰の座右の銘は

「至誠(しせい)にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」

つまり「誠意を込めて説得すれば何事もうまく行く」

ということであり、後に江戸に連行された松陰はこの姿勢で

幕府の高官たちを説得しようと試みるのである。

 

死を恐れぬ松陰であったが

むやみに命を投げ出すことを認めていたわけでは決して無い。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

これは高杉晋作の

「先生、人間の死ぬべき時はどんな時ですか」

という質問に対し、即答できなかった松陰が

後に獄中で大悟して高杉に伝えた言葉だと伝えられている。

 

私なりに訳せば

「自分が死ぬことによって

社会に不朽の貢献を出来ると考えるなら

その時こそ死すべき時だ。

また、ここは生きてこそ社会に貢献できると考えるなら

(歯を食いしばっても)生きるべきだ」

ということだ。

 

後に高杉はこの言葉を実行することになるが

この時は「先生は過激すぎる」と考えていたようだ。

いずれにせよ、松陰が松下(しょうか)村塾で教えたかったことは

知識でも武術でもなく

いざとなったら大義のために命を投げ出す覚悟、であった。

それが草莽崛起(そうもうくっき)という思想につながる。

草莽とは「草むらに潜む隠者」のことだったが

転じて一般大衆のことを指す。

つまり、この国家の大事、非常時に

庶民といえども決起しなければならないということだ。

 

 

では、単なる「勤皇」が「倒幕」という

過激な方向に進むためには一体何が必要なの?

 

そのことが明白にわかるのが

吉田松陰と長州藩きっての儒学者

山県太華(やまがたたいか)の論争である。

 

松「天下の大地も、天下の人民もすべて一人の天皇のものである。

漢土(中国)の古典の「詩経(しきょう)」の一節

「普天(ふてん)の下王土に非ざるはなく

率土(そっと)の浜(ひん)王臣に非ざるはなし」

とはこのことを言っているのだ」

 

太「それは違う。天下は一人の天下ではなく

天下の天下だと考えるべきだ。

古代中国において堯(ぎょう)や舜(しゅん)は

人でありながら人々が最高の賢人と認めたから王となった。

我が国でも神武天皇がそうであった。

しかし、保元の乱以降、皇室の徳が衰えて

(崇徳天皇の出生の事情など第4巻参照)

土地人民を治めることができなくなったから

源頼朝が出現し、以後は武家政治でうまく行っている。

これが天下は天下のものだという何よりの証拠だ」

 

松「いや、そもそも幕府(徳川将軍家)は

武力で天下を取ったのだから朱子学で言うところの

覇者(はしゃ)であり不正義の存在だ。

一方、天皇家は古来から日本を徳で治めて来たのだから真の王者であり

「覇を排斥し王を尊ぶという朱子学の本来の立場(いわゆる尊王斥覇)」

から言えば、幕府は真の主権者ではない。

天皇家が唯一の主権者なのだから

やはり「天下は一人(天皇)の天下である」

 

太「では聞くが、天皇家が古来からこの国を治める資格のある

有徳の王だと主張する証拠はどこにあるのか」

 

松「それは答える必要がない。大体、論ずるのも不可である

それは、われわれ日本人が信じるべきことなのだ」

 

最後の言葉は「回答」にはなっていない。

論争の答えではなく「私はそう信じる」と述べているだけだからだ。

つまり、宗教なのである。

儒教も「天」という人間を超越した存在を認めている点で

明らかに宗教なのだが、それでもその働きについては合理的な説明をしている。

悪政を行なえば天は怒って不作、疫病などを起こし

権力者の家系がその任に堪えないと天が判断したら

「取りかえ」る、ということである。

つまり「神学」はある。

 

ところが、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(あつたね)

に言及した項でもおわかりのように神道には「神学」が無い。

少なくとも整備はされていない。

しかし、宗教だから合理性を飛び越えた確信、つまり信仰はある。

それが

「日本は神の子孫である万世一系の天皇が統治する国だから神国であり

ゆえに天皇は有徳の存在であって絶対的主君である。

天皇家の血を引いていないものがこの座を奪うことは許されない」

ということになる。

 

 

そして、松陰はそれをさらに継承発展させた。

天皇が絶対君主であり、その座は不可侵

(臣下は絶対に天皇になれない)とすると

一体どういうことになるか?

天皇の前では、臣下はすべて平等ということになる。

将軍であろうが、浪士であろうが農民であろうが

一臣下としてすべてが平等だ。

だからもし将軍や大老が天皇の意思に背く行為をしたのなら

討ってもいい、いや討つべきだ、ということになる。

 

この松陰の理論によって、いわゆる倒幕が論理的に正当化された。

この影響は甚大である。

 

松陰が、幕府に逆らっても

己の主張を貫いた大石らに共感して詠んだ歌がある。

 

かくすれば、かくなるものと知りながら

やむにやまれぬ 大和魂

 

松陰の大和魂を詠んだ歌としては辞世の

 

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 

留めおかまし 大和魂

 

の方が有名だが、私は松陰らしさということで見るならば

この歌が最もふさわしいと思う。

 

意味は訳すまでもないが

「こうすれば、どんな結果が待っているか知らない私ではない。

しかし、国のためにやるべきなのだ、それが大和魂というものだ」

であろうか。

 

 

「松陰神学」の問題点とは何か?

むしろ「絶対神としての天皇教の神学」

と言い換えた方がいいかもしれないが

その最大の問題は、本来は歴史書として作られた

「古事記」「日本書紀」が、キリスト教の聖書などと同じく

絶対的な「聖典」になってしまったことなのである。

 

「古事記」は、もともと神話の書であり歴史書というよりも

「神道の聖典」の要素が強い書物で

体裁としては歴史書の形をとっているに過ぎない。

一方「日本書紀」という書物は

壬申(じんしん)の乱の勝者となった天武天皇が

自分の行為を歴史的に正当化するために書かれた

いわば政治的プロパガンダの要素が強い本だ。

もちろん、書かれているのは壬申の乱の歴史だけではないから

天皇という存在の絶対化も行なっている。

 

たとえば「万世一系」つまり天皇は

アマテラスの孫であるニニギノミコトの直系の子孫であり

この系譜は一度も途切れていない

ということを歴史上の事実として書いている。

 

この点特に疑問があるのは

第14代の仲哀(ちゅうあい)天皇から

第15代の応神(おうじん)天皇に「つながる」ところだ。

仲哀天皇が変死し、その皇后(こうごう)であり

皇后の中で唯一「神」の字を追号に持つ

神功(じんぐう)皇后が、通常より長い妊娠期間を経て

これも天皇の中でも3人しかいない「神」の字を

諡(おくりな)に持つ応神天皇へと天皇の位は受け継がれる。

 

ここにおいて、どのような事情があったのかということは

この第1巻で既に述べたところだか、要点だけ繰り返せば

ここで皇統は初代の神武以来のものとは別系統のものに

交替しているのではないか、ということだ。

だからこそ、その「初代」である女性の追号に

天皇ですら3人しか持っていない「神」の字を与えたのだろうし

その子が「応神」なのも納得できるということである。

 

しかし「日本書記」においては万世一系という

「事実」は、一度も崩されていないことになっている。

そこで、皇統譜の作者たちは「初代」の女性が初代であることを隠し

隠しながらもその特別な地位を何らかの形で顕彰する必要を感じ

そのために彼女が

「女性の身でありながら軍勢を率いて朝鮮半島に攻め入り

新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)を服属させた」

という、いわゆる「三韓(さんかん)征伐」

のエピソードを創作したのだろうということだ。

これなら「神功(神のような功績をあげた)」

と呼んでも何の問題もなくなるからである。

 

日本が朝鮮半島へ兵を送り何度も戦っていたことは

高句麗の広開土王碑(こうかいどおうひ)という証拠もあるし

何よりも663年の白村江(はくそんこう)の戦い

という伝説ではない事実がある。

しかし、その白村江の戦いにおいて

日本は唐と新羅の連合軍に敗れたのである。

 

そして、これ以後長く、日本は朝鮮半島へ兵を送ることはなかった。

逆に言えば、新羅によって日本の勢力は

朝鮮半島から完全に駆逐(くちく)された。

それが歴史上の事実だ。

しかし、「日本書紀」では

逆に新羅王が神功皇后に土下座して

命乞いをして日本への服属を誓った、ということになっている。

 

日本もかつては中国の皇帝に朝貢して

「倭(わ)国王」などという称号をもらって喜んでいた。

国王とは中国皇帝の臣下を示す称号である。

しかし、天皇という称号を名乗ることによって独立した。

もし中国が

「おまえの国は昔、われわれの皇帝に朝貢していたではないか。

だから日本は中国の属国だ」

などと言ったとしたら

それは不当ないいがかりである。

 

それゆえに朝鮮半島の国家に対し

「おまえの国は、新羅の時に

わが神功皇后に対し降伏し服属を誓ったではないか。

だからおまえの国は日本の属国に過ぎない」

などと言うのは、中国が日本に対して言うよりも

はるかに不当な言いがかりである。

 

白村江の戦い、その敗戦を忘れてはいけない。

皮肉なことに新羅はその後、新羅王ではなく新羅国王つまり

中国皇帝の臣下である道を選んだのだが

そのことも含めて考えれば、日本は新羅に対して何の権利も持っていない。

もちろん朝鮮半島全体に対しても同じことだ。

たとえ「三韓征伐」が事実であったとしても、これは変わらない。

 

ところが、「朝鮮半島は本来日本の領土である」という主張が

明治以降の日本では歴史上の真実として語られ

今回私が述べたような異論は語ることも許されなかった。

理由は簡単で、天皇の絶対的神格化によって

本来は政治プロパガンダ的な歴史書であったものが

「聖典」になってしまったからだ。

 

「聖典」とは一字一句が神の言葉であり、神の業績を記したものだ。

つまり「絶対に正しい」ものなのである。

その「聖典」によれば

「神功皇后(じんぐうこうごう)に対し新羅王は

土下座して服属を誓い、百済、高句麗の王もこれにならった」

つまり、この時から

「朝鮮半島は日本の固有の領土だ」ということになる。

 

幕末の人々も明治の人々も「朝鮮半島は日本のものだ」

という「神話」を事実として軍事や外交を進めて行った。

教育もこの路線で行われた。

冷静なリアリストである勝海舟のように

朝鮮の独立をきちんと認めて中国、朝鮮、日本の三国で

西洋列強の脅威に対抗していこうという路線を唱える者もいたが

むしろ朝鮮は日本の領土に組み込むべきだという多数派の主張に押し切られた。

「聖典」というものは、それぐらい恐ろしいものなのである。

 

 

西洋社会においてユダヤ人は

「キリスト殺しの極悪人」とされた。

何百年たっても

「その血の責任(イエスを処刑することの責任)は我々と子孫に(も)ある」

と「聖典」に書いてあるのだから、子供に至るまで差別の対象となった。

イギリス、フランス、ドイツ、ロシア

そしてヨーロッパのすべての国では国民の大部分がキリスト教徒だ。

だからユダヤ人は徹底的に差別された。

アメリカでも同じことが起こった。

 

そして、私見を述べるならば

私はユダヤ人はこんなことは言わなかったと思う。

彼等がイエスを「悪人」として憎んでいたことは事実かもしれない。

しかし「その責任は子孫にも及ぶ」などということを

人の親が口にするわけがないではないか。

子供や孫を巻き込むことはない。

 

おそらくこの文言は

聖書が作成された当時の編集者の偏見によるものだろう。

しかし、500年前のヨーロッパでは

そんなことは口にすることさえできなかった。

「聖典の言葉はすべて正しい」からである。

そして21世紀になっても、カトリック教会は

明らかにこの部分がユダヤ人差別の根源であることを

認識しているが「第25節削除」はしていない。

「聖典の言葉はすべて正しい」からである。

 

「恐ろしい」という意味がおわかり頂けただろうか。

しかし、それほどの「絶対力」を持つ信仰でなければ

万人平等そして民主主義を生み出すことができないのも

冷厳な事実なのである。

 

 

 

 

 

 

 

↑より抜粋

 

関白というのは前にも述べた通り

基本的には幕府の味方であった。

そもそも天皇の権力を押さえるために藤原氏が設けた「地位」であり

幕府にとってみれば天皇をコントロールするのに重宝な存在であったからだ。

ゆえに、関白と天皇が親しい関係にあると

朝廷は一致団結して幕府に対抗できることになる。

光格天皇の時代にはそうだったことは既に述べた通りである。

 

しかし、幕末には孝明天皇と関白九条尚忠は

これ以上ないというほど仲が悪かった。

巷では、天皇が笏(しゃく)で関白を

打擲(ちょうちゃく)したなどという噂が流れたほどだ。

それも、あくまで攘夷:じょうい(外敵を撃ち払って入国させないこと)

を完遂すべきという天皇に対し、九条関白は幕府の意を体して

開国やむなしという態度を取ったからだ。

しかし、その幕府の無礼極まる態度に怒り心頭に発した

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を出すということで

天皇の怒りをなんとか収めた。

もっとも九条関白はそんなことを認めるはずがないし

もし関白がそれを知ったら、必ず井伊大老側に情報が漏れる。

そこで、太閤(たいこう)や左大臣は関白を抜きにして話を進めた。

今度はそれを知った関白が怒り

幕府より先に水戸藩へ密勅が下されたという情報を大老側に流した。

関白の権限で江戸に送られる勅書にその旨をわざわざ書き足させたのだ。

そのために大老は先手を打って水戸藩を封じ込めることができた。

 

当然、そのことは孝明天皇をまたしても激怒させた。

天皇はついに権大納言二条斉敬(なりゆき)を使者に立て

「関白を辞せ、内覧の権限も近衛左大臣に譲れ」と九条尚忠に迫った。

これが安政5年の9月4日(和暦)のことだ。

もちろん、こんなことは異例中の異例のことだ。

というのは、江戸時代関白がその地位をしりぞく場合は

必ず江戸の幕府に報告し、その承認を得ることが慣例になっていたからだ。

しかしこれからこの「ルール」は崩れていくことになる。

とにかく、天皇が秘密裡に関白を処分しようと思っても

このシステムでは必ずその前に幕府の知るところになるということだ。

 

関白の力の源泉は内覧という権限(=地位)にある。

つまり天皇が決裁する前の公文書をチェックし手に入れられるからこそ

天皇を幕府が都合の良いようにコントロールできるわけだ。

ところが攘夷派は、その内覧の権限を左大臣

近衛忠熈(このえただひろ)に握らせようとしているというのだ。

この時代、もう一人内覧がいた。

それが太閤鷹司政通(たかつかさまさみち)だが

政通の妻は水戸斉昭の姉(一橋慶喜にとっては伯母)だし

その息子右大臣鷹司兼煕(たかつかさかねひろ)は

近衛の同志でバリバリの攘夷派だ。

すなわち大老側から見れば、朝廷は攘夷派に完全に固められ

幕府のコントロールが一切効かない状態になる可能性があったということだ。

 

長野主膳(しゅぜん)は先に、己の失敗をごまかすために

「密勅は天皇の真意ではない。君側の奸(くんそくのかん)

(天皇の周りを固める悪臣)が勝手にデッチ上げたものだ」

という大嘘の報告をしていた。

そこへ類は友を呼ぶというか、九条関白の腹心であった

島田左近という男が自分の主人である九条関白をかばって

「関白を辞めさせられたのは(幕府へ密告したせいではなく)

君側の奸が、あることないことデッチ上げて関白様を陥れたからだ」

と長野主膳に伝え、主膳はこれを信じ込んでしまった。

(あるいは、信じ込んだフリをした)

真実は

「天皇は戊午の密勅の内容を支持しているし

九条関白は辞めさせたいと考えている」

だったのだが、それが直弼には

「君側の奸どもが、天皇の意志ではない密勅をデッチ上げたのみか

何の罪もない九条関白を陥れるつもりだ」

と伝わったのである。

当然、直弼は「天皇の御意思をねじ曲げる君側の奸ども許せぬ

何かとりのぞく方法は無いか?」と主膳に相談することになる。

主膳の答えは「一斉検挙すべし」であった。

 

 

戊午の密勅は水戸斉昭が背後で糸を引いている大陰謀だというのは

主膳のデッチ上げなのだが、おそらく主膳は

反対派を潰すために行動するうちに

それが真実だと自分でも思い込むようになっていたのかもしれない。

また今更「あれは思い過ごしでした」などと報告できるものではない。

 

 

安政5年(1858)11月11日(和暦)のこの日

長州萩において吉田松陰が発した「猛」は、人々の度肝を抜いた。

兵を発して幕府の最高幹部である老中を討つ、というのである。

なぜそこまでやるかといえば

「幕府は朝廷をないがしろにしている。

帝があれほどまで攘夷(外敵を撃ち払って入国させないこと)

をやれと仰せなのに無視したばかりか

実行しようとした水戸老公(斉昭)をはじめとする

憂国の士を罪に陥れ弾圧している。

これは天も恐れぬ罪である」ということだ。

 

では、幕府に罪があるとして、なぜ将軍家に臣従している

長州藩毛利家がそれを討つのか?

毛利家は、鎌倉幕府の骨格を作った大江広元(おおえのひろもと)

の子孫である。

(だから代々「元」をつけていた。毛利元就:もとなり、輝元など)

そして、大江氏というのは、さかのぼれば朝臣(あそん)

つまり朝廷の臣であったので

中興の祖(ちゅうこうのそ)である元就も

江戸幕府成立以前朝廷から

従四位上右馬頭(うまのかみ)に任じられている。

すなわち毛利家は天皇の直臣なのであり

だからこそ同じ天皇の臣下に過ぎない徳川家の無礼を

こらしめるのが忠臣としてのつとめである。

松陰が「挙兵」に踏み切ったのは、こういう論理であった。

 

取りあえずは老中間部詮勝(まなべあきかつ)を討つのが目的であったから

「倒幕」とまでは言えないのだが、その「寸前」であることは確かだ。

この時点で、公の場でそこまで立場を明確にしたのは、松陰しかいない。

 

確かに非公式の場においては、大老井伊直弼は彦根藩の赤備え

(武田信玄流を受け継いだ真っ赤な軍装)にちなんで

「赤鬼」と呼ばれ、その忠実な腹心である老中間部詮勝は

「青鬼」と呼ばれていて、「鬼退治(つまり老中暗殺)をすべきだ」

という声はあった。

実際、松陰が「赤鬼」ではなく「青鬼」の方を討つと言ったのは

江戸は遠く京は近いこともあるが、水戸あたりの「過激派」が

「赤鬼討つべし」と叫んでいたからでもある。

つまり、赤鬼は彼等に任せようということだ。

しかし、その水戸藩でも「大老を討つから藩の大砲を出してくれ」

などということをおおっぴらに言った人間はいない。

そんなことを言ったのは、天下広しといえども

この時点では松陰しかいない。

 

興味深いのは、この松陰の申し入れに対する藩庁の反応である。

他の藩なら、たとえ島津斉彬が生きていた時の薩摩藩でも

「世迷言(よまいごと)を申すでない。

たかだか十数人と大砲数門で何ができるか」

としりぞけられただろう。

斉彬が兵を率いて上洛しようとしたのも

その時点では倒幕を目指したわけではなく

あくまで朝廷を味方とし

一橋慶喜を将軍に擁立し、国家を改革することが目的だった。

しかし、松陰はそんな「穏やかな手段」ではなく

一足飛びに老中を殺す、というのである。

他藩なら、幕府をはばかる人間によって全員処刑されたかもしれない。

だが、長州藩では、さすがに大砲をただちに貸与することはなかったものの

この件の「対策会議」が城中で開かれたとき

その席でなんと「思い通りにやらせてみたらどうか」

という意見が出たのである。

 

これが長州藩と薩摩藩の大きな違いだろう。

他藩ならこんなことは絶対に有り得ない。

同じ関ケ原の「負け組」である薩摩藩も島津重豪(しげひで)以降は

むしろ幕府と協調して日本を変えて行こうという立場だ。

斉彬ですら老中阿部正弘と気脈を通じた「幕政改革派」だ。

もちろん、その先には「西洋型の国家」も見えていたようだが

それはまだまだ先のことという認識もあったようだ。

これから先日本は「倒幕」が国民的合意になっていくのだが

この時点でそこまで「過激」であったのは、長州藩だけだった。

さすが、江戸期を通して

「藩主と家老との秘密儀式」が行われていたという

「伝説」のある藩である。

 

 

キーマンの一人、岩倉具視(ともみ)は一体何をしていたのか?

この後、坂本龍馬と中岡慎太郎が京で暗殺される。

龍馬は即死だったが、中岡はしばらく生きていた。

その最期の言葉が

「(維新の成否は)岩倉卿にすべてはかかっている」というものだった。

ただし、これは岩倉側の記録にはあるが、土佐側の記録にはないので

後世に捏造されたという説もある。

だが、岩倉が幕末きっての「策士」であることは歴史学者の間でも

異論が無いと言っていいだろう。

しかし、戊午の密勅という「大陰謀」には岩倉の影はまったく無い。

だからこそ岩倉は安政の大獄においても検挙を免れた。

もっとも、岩倉自身は当初は倒幕論者ではなく

これ以後は和宮降嫁をはじめとする公武合体

つまり幕府との協調路線を進めていく。

だから、幕府の権威をまっ向から否定する戊午の密勅には

最初からかかわっていなかったのかもしれない。

しかし、明らかにこの辺りから岩倉が影の策士として歴史に登場する。

 

十字架のマークはドルイド教のケルト十字からか