天然記録 -86ページ目

 

↑より抜粋

 

出身の彦根ですら「チャカポン」とバカにされた

井伊直弼(いい なおすけ)がまさに「ヒョウタンから駒」

のような成り行きで絶対的権力者の大老になってしまった。

(跡継ぎではなかったので遊んでばかりで

あだ名は「茶歌ポン(チャカポン)」)

 

 

実は、こういう時はたいてい「良くないこと」が起こる。

なぜなら人間は感情の動物だからだ。

人間、バカにされれば誰だって口惜しい。

そういう人間は常に「今に見ていろ」と思っている。

だが、通常はその想いが満たされることはない。

なぜなら、その人間は不遇だからだ。

出世コースをはずされ、権力とは無縁の生涯を送るのが普通だ。

だから実害は出ない。

しかし、直弼の場合そうではない。

そういう場合でも、人間には理性というものがある。

たとえば「権力は公のもので私物化してはならない」

ということだ。

こういう理性が働けば、権力を行使して気に食わない連中を大弾圧する

などということは起こらない。

 

しかし、直弼には「自分が正義を行なっている」という自覚があった。

しかも「絶対に正しい」と思い込んでいた。

宗教戦争のことを思い出して頂きたい。

たとえば、カトリック勢力は反対派のプロテスタントを

赤ん坊に至るまで虐殺した。

なぜ、そんな惨虐なことが出来るかと言えば

「自分が絶対に(すべての面において)正しい」

と思っているということは、逆に言えば

「相手は絶対悪である」と見なすことになる。

だから「皆殺しにしてもかまわん。いや、それこそ正義の実行だ」

ということになってしまう。

大老井伊直弼というのは、日本史上極めて珍しい、そういう存在だったのだ。

 

直弼の「正義」は二つある。

一つは、徳川家の粗法を守り

「国難の時期なのだから血は薄くても優秀な人物を将軍に!」

などという賢(さか)しらな主張をしりぞけること。

二つは、天皇がいくら反対しようと

日本と外国の戦争を避けるために開国すること、である。

この時点で、前者はもう時代遅れの考えと言ってよく

これに関する直弼の信念は客観的な正義とは言い難い。

だが、厄介なことには、二つ目の信念はまさに今の時点で評価しても正義であり

これを断行したことは歴史的に見て妥当だったと言わざるを得ないということだ。

 

もっとも最初のうちは、反対派である一橋派も

一橋派になったものの元は中立派の

老中首座堀田正睦(ほったまさよし)も

大老井伊直弼を甘く見ていた。

彼等の目に映っていたのは「元チャカポン」でありながら

異数の出世を遂げた幸運児であり

前当主(実兄)に比べたら腰が低くおだやかな大名の一人であったからだ。

 

直弼にとって重大だったのは

将軍には血の濃い紀州慶福(よしとみ)をという「正義」の方である。

 

将軍家定(いえさだ)は既に慶福しかいないという「内意」を持っていた。

それは病弱な本人の意思というより、実母本寿院をはじめとする

大奥勢力の

「あの女癖の悪い水戸斉昭(なりあき)の息子である

一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)なんか絶対に嫌だわ」

という「世論」が将軍に強い影響を与えていたのだと考えられる。

一般に、将軍が病弱であればあるほど

大奥は将軍の意思決定に強い影響力を持つ。

だからこそ、英明な島津斉彬(なりあきら)は自分の養女という形で

篤姫を「エージェント」として大奥へ送り込んだのだ。

しかし、御台所という妻の座も

将軍家生母(本寿院)にはかなわなかった。

 

南紀派の直弼が大老になったのも、本寿院を中心とする大奥の

「息子よ、あの一橋が将軍になるのを進めるようなバカな事だけはやめてね」

という意向が強く働いていたのだろう。

こうした「大奥の力」というものを

特に男性の研究者は軽視しているように私は感じている。

それでは「人間の歴史」はわからないと思う。

逆に言えば、直弼は大奥の支持を受けていたということだ。

これなら、かなり強引なこともやれる。

 

一方、一橋派はあせっていた。

それには大老井伊直弼を失脚させ、井伊政権を崩壊させる必要がある。

そのためには何か井伊政権の失態を鋭く追及すればよい。

そこで一橋派が選んだのが「違勅(いちょく)問題」であった。

「井伊大老、あなたは孝明天皇の「調印してはならぬ」

という御言葉に反して勝手に調印した。

これは重大な罪であり、ただちに大老を辞任すべきだ」というものだ。

直弼は堀田らに責任を押しつけてクビにした。

つまり「トカゲの尻尾切り」で逃れようとした。

しかし、調印時に直弼は大老に就任していたのだから

幕閣の最高責任者は直弼である。

当然、最終的な責任は直弼にある。ということになる。

一橋派の攻撃が始まった。

 

直弼から見れば、一橋派というのは許し難き連中であった。

というのは、斉昭はともかく、一橋派の連中は

「この国のためには条約調印に賛成すべきだ」

という主張だったはずである。

そして、直弼が「調印も止むを得ぬ」という言質を与えたら

ただちに朝廷など無視して条約に調印したのは誰か?

一橋派の岩瀬ではないか。

そうしておきながら、連中は今度は

「天皇の意思に反して調印をしたのは許せぬ」

と責めてくる。

直弼から見れば、とんでもない言いがかりである。

 

さて

ここから少し問題だが、

では、彼等一橋派は彼等の主張に沿う条約調印を認めたワシを

「なぜ調印したのだ、ケシカラン」と責めるのか?

と直弼は自問自答したはずだ。

答えは一つ。

それは自分を失脚させ一橋慶喜を将軍にしたいからだろう。

しかし、それは直弼の目で見れば

「血統論を無視して、それ以外の条件で将軍を決める」

という「粗法破り」である。

(この点では「鎖国という粗法を守れ」と主張している斉昭も

一方で「血統重視」という粗法を無視しているわけだから

「二枚舌」ということになる)

つまり、直弼から見れば一橋派というのは

「一橋慶喜将軍擁立(ようりつ)という

「粗法破り」の目的のために、自分たちの信念であるはずの

「条約調印」を政治利用し、二枚舌を恥じることなくワシを責めてくる極悪人ども」

ということになる。

「敵が極悪人」ということは「自分は絶対の正義」ということになり

こう思い込んだ絶対的権力者はどうふるまうか?

もちろん、反対派の徹底的粛清である。

 

 

御三家の当主らがそれほど厳しい処分を

受けなければならない理由は何なのかと言えば

それはまったく名言されていない。

それは「上様の思し召し」なのである。

では、これは本当に13代将軍徳川家定の意向であったのか?

「押しかけ登城」自体は「ルール違反」であるが

別に将軍家に反乱を企てたわけではないのである。

私は、直弼が勝手に将軍の意思だと偽ってやったことだと思う。

もちろん、普通そんなことは不可能だ。

しかし、この時は可能だった。

なぜなら、この前代未聞の処分が実行された

その翌日に家定は病死したからだ。

死因は脚気衝心(かっけしょうしん)

つまりビタミンB1不足により全身が衰弱し心臓が停止した

ということだ。享年35であった。

 

想像をたくましくすれば、既に死亡している家定を

さも生きているように見せかけて「処分」を実行したのかもしれない。

決して、根拠が無い想像を述べているわけではない。

こういうことは、大奥と「医師団」つまり奥医師の支持がなければできないが

大奥については何度も触れたように直弼を強く支持していたし

「井伊殿が伺候(しこう)した時、上様は既に亡くなっておられました」

などと証言をするわけがない。

また、「一橋派」の家定夫人の篤姫は、なぜか見舞いもままならない

(させてもらえない)状態であったことは、記録にある。

奥医師については興味深い話がある。

この後、なんと家定の死は毒殺であるという噂が流れ

「一橋派」の奥医師櫟仙院( れきせんいん)が疑われている。

しかし、別に処刑されるわけでもなく、いつの間にかうやむやになった。

私は、これも直弼が奥医師たちに「余計なことはしゃべるでないぞ」

と脅しをかけるために、わざとそういう噂を流して場合によっては

処罰もあるのだぞと匂わせたのだと思っている。

 

「毒殺計画」が本当にあったとしたら

直弼にとっては絶対に許し難いことであったはずだし

何よりも一橋派を徹底的に潰す絶好の機会ではないか。

それが、直弼によってほとんど見逃しの状態になったのは

直弼自身がそれは本当ではないことを最初から知っていたからだろう。

ところで、10代将軍家治(いえはる)の時代

瀕死の将軍を囲い込んで、老中田沼意次を失脚させたのは

黒幕一橋治済(はるさだ)であった。

つまり皮肉なことに「一橋派」だったので、この頃は一橋派こそ

保守の権化ともいうべき存在であった。

一橋治済は「怪物」である。

10代将軍家治の息子家基(いえもと)が

鷹狩りの最中に急病にかかり、後に死去したのも

私は治済が手の者を放って暗殺(たぶん毒殺)したのだと考えている。

 

家基が死んだことで

一橋治済の子、豊千代は11代将軍家斉(いえなり)になれた。

そして、この親子は2人して徳川を

いや日本中を「一橋の血」で埋め尽くそうとした。

家斉は正式な記録に残っているだけでも26男27女をもうけ

それを片っ端から大名家に押しつけたのである。

 

尾張徳川家も、紀伊徳川家も

一橋家や将軍家斉の血を引いた子を養子とした。

つまり、尾張は10代徳川斉朝(なりとも)から

紀伊は11代徳川斉順(なりゆき)から「一橋の血」なのである。

(尾張家は押し付け養子への反発が強く14代は支藩高須藩から迎えられた)

ところが、この「乗っ取り」に徹底的に抵抗したのが水戸徳川家なのだ。

水戸家にも将軍家斉の21男・斉彊(なりかつ)が養子に行くという話があり

重臣の一部がこれに同調した。

将軍家の実子が当主になれば大名として何かと優遇されるからだ。

しかし、前代斉修(なりのぶ)の弟である斉昭がいるのに

いかに将軍家実子とはいえ、他から養子を迎えるのは許せない

「それは粗法に反する」と、水戸藩士の多くが反発したため

斉昭は藩主の座に就くことが出来た。

 

そして、斉昭は将軍家斉に負けじと37人もの子を作った。

その7男が慶喜なのである。

そして、何と皮肉なことだろう。

慶喜が成長した頃に、一橋家の後継者がいなくなってしまった。

多くの大名を「血」で乗っ取った一橋家が、である。

その「乗っ取り」に御三家の中で唯一屈しなかった水戸家の息子が

結局一橋慶喜になった。

一方、そのライバルとなり将軍を争った紀伊家の徳川慶福(のち家茂)は

将軍家斉の直系の孫なのだ。

つまり、ルーツは一橋派なのである。

つまり、この争いは「一橋グループ」のサラブレッドである紀州慶福が

一橋の血をひいていない一橋慶喜と争った、ということなのだ。

 

さらに言えば、家康が水戸家を勤皇(きんのう)の家にしたのは

天皇家と将軍家が万一争った場合

天皇家が勝っても、水戸徳川家は残るからだ。

だから、水戸家の出身者は断じて将軍にしてはいけないのである。

それが尾張・紀伊(大納言)に比べて水戸を一段低い

中納言にとどめた、家康の配慮だったと私は考えている。

ところが、この配慮を無駄にしてしまった「バカ殿」がいる。

8代将軍吉宗(よしむね)だ。

吉宗はライバルの「尾張潰し」のために

御三卿(ごさんきょう)というシステムを考えた。

自分の血筋で御三家と同格のものを作れば、尾張をしめ出せるからだ。

ところが作られたシステムは独自にダイナミズムで動き出す。

 

この時代、後継者のいなくなった一橋家は「潰されまい」として

水戸家から慶喜を迎えた。

慶喜は一橋家を継いだことによって

「水戸出身」という経歴がリセットされてしまった。

そして将軍になった。

しかし、水戸家生まれの慶喜は小さい頃から父や母に

「天皇家に逆らうことは絶対に許しませんよ」と教え込まれている。

特に母は皇族(有栖川宮吉子:ありすがわのみやよしこ女王)なのだから

まさに「三つ子の魂百まで」ということになる。

そういう人物が将軍になることは

御三家を創設した家康の想定外であったはずだ。

少なくともその原因を作ったのは8代将軍吉宗であろう。

だから「バカ殿」なのだ。

 

 

そして、本来なら将軍御台所になれるはずが無い

外様大名薩摩島津家出身の篤姫(広大院)が

そうなったのも元をたどれば徳川家基の急死(暗殺)があったからだ。

その前例があったからこそ、この時代最も優れた大名であり

最も先見の明があった日本人の一人である薩摩藩主島津斉彬は

自分の養女を篤姫(天璋院:てんしょういん)と改名させ

大奥へ送り込んだのである。

歴史はこのようにつながっているのだ。

 

井伊大老によって一橋派は敗れた。

井伊大老は、そもそも外様大名が

幕政に口を出すことすら許せんという超保守派である。

その大老が中央政界を圧している。

これは日本の危機だ。

ここに至って島津斉彬はついに決断を下した。

幕府に先んじて、近代化した工場で生産した

ライフル銃で武装した精兵三千を自ら大将となって率いて上洛し

幕政いや日本を改革するために立ち上がる決意だ。

斉彬は、最も信頼する部下、西郷隆盛を京都へ先行させ準備を整えさせた。

そして、夏の炎天下、兵に猛訓練を施し、出発直前となった7月8日

にわかに病いを発し16日に急死した。

斉彬はなぜ急死したのか?

 

斉彬は毒を盛るという手段で暗殺されたのだと、私は確信している。

 

腹心の西郷隆盛は言うまでもなく期待に胸を押さえ切れないほどだっただろう。

その西郷が使者となって斉彬と連絡を取り合っていた

松平慶永(よしなが)をはじめとする一橋派の人々も

斉彬の上洛を待ち望んでいたに違いない。

しかし、このシリーズの愛読者に思い出して頂きたいのだ。

この江戸時代最大の名君だと慶永や勝海舟が認めていた斉彬のことを

「大浪費家のとんでもない愚か者」だと堅く信じ込んでいた人々が

同じ薩摩藩内に多数いたことを。

その筆頭は、これこそ最大の皮肉だが、斉彬の実父斉興(なりおき)だ。

 

 

常識と論理から見て斉興は

「斉彬め、兵を率いて上洛などすれば

藩が取り潰されてしまうではないか、このバカ者め」

と思ったに違いない、ということだ。

だが「押込」は出来ない。

斉彬には藩の軍事権が握られている。

しかし、このままでは御家が滅ぶ。

となれば、やるべきことは一つしかない。

別の手段で何が何でも斉彬の行動を止めることだ。

そして、その命令を下せる者は一人しかいない。

島津斉興である。

 

 

それに、斉興は息子斉彬を嫌っていたのは歴史的事実だ。

 

薩摩藩主島津斉彬は暗殺された。

私はそう確信している。

 

斉興は、単純に先祖からの財産を受け継いだ「お坊ちゃま」ではない。

祖父の遺産を血と涙で見事に返した苦労人だ。

こういう人は自分の建て直したもの

この場合は薩摩藩島津家に強い執着を持っている。

しかし、「バカ息子」の斉彬は、また家を潰しかねない。

それでも、斉彬が一人息子なら、家の存続のためガマンしたかもしれない。

だが、斉興は斉彬の異母弟の久光の方を愛していたし

久光を盛り立てようとする「お由羅騒動」は支持したか、少なくとも黙認した。

平たく言えば、斉彬は死んでもかまわない。

いや、死んでくれた方がいい、それなら久光かその子の忠義があとを継げる。

そう思っていたことは確実だ。

 

 

そして、もう一つ忘れてはならないのは、大老井伊直弼の存在である。

直弼は、御三家のうち尾張家と水戸家の当主と

もう隠居していた水戸斉昭まで厳罰に処した。

 

「御三家ですら、一橋派であれば

ささいなルール違反を追及されこんな目にあう。

ましてや外様大名である薩摩藩が

それも憲法違反をしたら一体どういうことになるか」

と斉興は考えたと私は思う。

そして、もう一つ重大なことは

こういう処分が行われた場合、斉興も無事に済むはずはない

ということだ。

「前藩主、藩主の父」として

薩摩藩改易の場合は切腹だって考えられないことではない。

たとえ命は助かっても「終身禁固刑」は免れない。

これを斉興の視点で見ると

「あのバカ息子のために、オレは一生押し込められるかもしれない」

ということだ。

 

この後、「幕府こそ大事」の井伊直弼は大老という

絶対的権力の座を利用して、反対派の徹底的弾圧に乗り出す。

それが、「安政の大獄」と呼ばれるものだ。

ポイントは一つ、大獄で処分された人間は、何を罪とされたか、だ。

「開国か鎖国か」は実は関係ない。

幕府、それも井伊直弼の主導する

最も保守的な幕府に逆らおうとしたかどうか

ここが問題にされているのである。

しかし、大獄の起きた原因は、直弼の側にはなかった。

いや、正確に言えば反対派がおとなしくしていれば

直弼もあそこまで弾圧はしなかっただろう。

反対派の行動が、直弼の

「幕府(そして粗法)を守らねば」

という危機意識に火をつけたのである。

 

何か大きな事件が起こると国民を縛る法律が通りやすくなるけど

そんな事しなくても元々国民の反対の声は無視で

裏で勝手に可決してるから、今回の茶番の裏で何かやってたのか?

 

そもそも弾が見えないけど本当に耳に当たっているのかが疑問

 

グレートリセットのその先は世界統一政府

目指すはデジタル管理、信用スコアの世界

聖書の黙示録のように刻印がないと物が買えないとか

そんなデジタルで提供される食べ物は

変な物が入ってる加工食品しかないような気もするけど…

テクノロジーで自然伐採、水も空気も土も汚染されていて

このデジタル化を反対しないで誘導するなら

皆が応援しているヒーローは聖書の偽救世主確定

彼らの目指す新時代は恐怖しかない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑より抜粋

 

ハリスは老中首座(ろうじゅうしゅざ)の

堀田正睦(ほったまさよし)の公邸も訪問した。

将軍との会見の打ち合わせであったが

ここで大きくハリスの印象に残ったことがある。

 

ハリスは、あらかじめ用意しておいて

「大君(タイクーン、ここではハリスはエンペラーという言葉を使っていない)」

つまり将軍徳川家定(いえさだ)に口頭で述べる挨拶の原稿を差出した。

本来儀礼的なものだし、あらかじめ翻訳しておいてもらった方が

当日話がスムーズに進むと思ったのだろう。

ところが、堀田は翻訳するのでしばらく待って欲しいとハリスに言い

半時間ほど(ハリスの表現)で戻ってくると

なんと将軍の答礼の言葉をハリスに渡したのである。

 

もちろん、堀田が早飛脚(?)を出して将軍の意向を聞いたのではない。

翻訳もやったのだから30分ではとても不可能だ。

つまり、ハリスは将軍が閣老たちのパペット

(操り人形)であるということに気付いた、ということだ。

 

それともう一つ指摘しておかねばならないのは

あらかじめ文書を交換したのは、日本の事情だった。

これもハリスの言葉を借りれば

「宰相(さいしょう)は私に通詞(つうじ)は

拝謁(はいえつ)を許されることができないので

あらかじめ私にその答辞の写しをあたえ

それを翻訳させることによって

通詞の出席を必要とせぬようにしたいと告げた」

ということなのだ。

つまり身分制度の壁があって

通詞(通訳)のような低い身分の人間は

将軍の言葉を直接訳せない。

だから事前に文書でやりとりする、というのである。

世界には他にも国王とか君主がいるが

こんなバカなことをやっているのは

朱子学の毒に侵された清、朝鮮、日本ぐらいのものだろう。

国益を考えれば、練達した通訳を

その場に立ち会わせるのが当然なのにそれが出来ない。

 

そういえば「ジョン万次郎はどうしたの?」と

想起する読者も少なくないだろう。

簡単にいえば、この交渉から外されていた。

万次郎はこの時点で日本で唯一きちんとした米語が話せる貴重な存在である。

しかし、旗本とか奉行とかいった身分で役職を得たが

何も出来ない連中は、万次郎をねたんで

「あいつはアメリカのスパイだ」などとデタラメを言って足を引っ張った。

相当なイジメもあったらしい。

万次郎はこの前後「自ら望んで」箱館勤務になっていたのだが

そうでもしない限り、身の危険があったとする論者もいる。

これも今にたとえれば、極めて優秀で最適任のノンキャリアの役人がいるのに

それをねたんだキャリアの役人がよってたかって足を引っ張り

本人に「手柄」を立てさせまいとした、ということだ。

国益などどうでもいいのである。

まあ、今の外務省はそうではないだろうが。

 

ここで、しばらくぶりにもう一度言っておこう。

「幕府外交は愚劣そのものである」と。

話をハリスに戻すと、将軍との謁見(えっけん)の日は

安政4年10月21日(1857年12月7日)と決まった。

ハリスはアメリカ国務省の規定による礼装に身を固め

ヒュースケンと共に午前10時、駕籠(かご)で

宿舎の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を出発した。

途中、城内で駕籠を降りて徒歩で進み

江戸城大広間で将軍の謁見を受けた。

御三家をはじめ諸大名も多く臨席していた。

当初ハリスは幕府側から将軍の面前では土下座するよう求められていたが

ハリスは「私はアメリカ政府を代表する者として断固拒否する」

という態度を貫いたため、立ったまま頭を下げるという形で将軍と対面した。

そして、自分の目に写った将軍家定をハリスは次のように描写している。

 

大君は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいっと反らしはじめた。

同時に右足をふみ鳴らした。これが3、4回くりかえされた。

 

将軍家定は、ふざけたのでもなければ

何らかの儀礼としてのポーズを示したのでもない。

もちろん、そういう説もないではないが、有力なのは

「徳川将軍家15代のカルテ」の著書で医師である

篠田達明氏の唱える「脳性麻痺」説だろう。

今となっては、その説を完全に証明することは不可能だが

確実に言えるのは本人は極めて病弱だった、ということだ。

結果としては、この翌年安政5年(1858)に

家定は35歳の若さで病死する。

この家定の御台所(正夫人)が、大河ドラマにもなった

島津斉彬(なりあきら)の養女の篤姫(あつひめ)である。

篤姫は、このハリス謁見の前年の安政3年(1856)に

継室(後妻)として家定のもとに輿入(こしい)れしているわけだが

薩摩藩主島津斉彬の命令を受けて

この婚姻を成功させたのが西郷隆盛であった。

かつては、この婚姻についてはこう言われていた。

 

開明派の老中首座阿部正弘と親しく

日本の将来を憂えていた島津斉彬は

いずれは英明な一橋慶喜(水戸斉昭:なりあきの子)

を将軍として立てることが

日本を立て直すために必要であるとして

そのためには大奥に慶喜(よしのぶ)支持派を作る必要があると感じ

阿部老中などとも相談の上、一族の中から年齢の合う姫を養女として

(最終的には公家の近衛家(このえけ)の養女という形で)

将軍御台所として送り込んだ。

しかし、最近はこういう見方にはむしろ否定的な見解が有力だ。

彼女を望んだのは将軍家の方だ、というのである。

それはこういう事情だ。

 

家定は病弱だったが「正妻運」はさらに問題で

最初の鷹司任子:たかつかさあつこ(天親院:てんしんいん)も

次の一条秀子(澄心院:ちょうしんいん)も

子を儲けることもなく早死してしまった。

将軍に男子がいないというのは一大事である。

そこで、大奥が思い出したのが子沢山で有名な

11代将軍家斉(いえなり)の御台所「篤姫」のことだった。

この篤姫(広大院:こうだいいん)は外様の薩摩蕃出身であるから

本来将軍の御台所になることは有り得ない。

しかし、嫁いだ相手の一橋豊千代(ひとつばしとよちよ)が

10代将軍家治(いえはる)の嫡子(ちゃくし)

家基(いえもと)が急死したこともあり

思いもかけず11代将軍家斉(いえなり)になったことで

外様大名家出身の将軍御台所が突然出現した形になった。

だが、逆に言えばそれは「薩摩からの嫁は縁起がいい」

ということでもある。

また彼女は男子も産んだ。

この男子は元服前に亡くなってしまったが

実は将軍の側室ではなく御台所が男子を産んだというのは

2代将軍秀忠夫人だった崇源院(すうげんいん/そうげんいん)

つまり平成23年の大河ドラマの主人公でもあった

江(ごう)以来のことなのだ。

これも縁起がいい、ということになる。

そこで、生まれた時は「一姫」だった彼女が

「先輩」の広大院にあやかって同じ「篤姫」と改名し

なおかつ同じように近衛家の養女となって

将軍家へ輿入れしたということなのだ。

確かに、直接の理由というか、将軍家が彼女を望んだ動機はそれであろう。

しかし、日本の将来を憂いていた斉彬が

単にそれだけの理由で部下の中で一番優秀な西郷まで動かして

この婚姻を実現させるだろうか?

大奥の支持を得ること。これが日本を動かす秘訣なのである。

 

 

そして、これから先の話だが

自分の実子(七男)で一橋家に養子に行った

慶喜を将軍にしようと画策したこと、である。

「画策」というと少し語弊があるかもしれない。

この時代、篤姫の夫である13代将軍家定は

明らかに将軍としては不適切であった。

しかし実子はいない。

すると、最も血筋が近いのは御三家の紀州徳川家の慶福:よしとみ

(のちに家茂:いえもちと改名)であった。

しかし、慶福はこの時点(1857年)で12歳(数え年)に過ぎない。

一方、斉昭の子の一橋慶喜は、養子とはいえ水戸家ではなく

将軍家を継げる御三卿一橋家の当主であり

年齢も21歳で英明の評判があった。

ただ、血筋をみれば慶福が13代将軍家定のイトコであるのに対し

慶喜はいったん徳川家康まで逆のぼらないと現将軍につながらない

という問題があった。

後に、慶福を将軍に推す人々が南紀派(なんきは)と呼ばれ

慶喜を将軍に推す人々が一橋派と呼ばれることになるが

一橋派の主張とは

「国家が危急存亡の時期に幼少の慶福君では

将軍職をつとめられるわけがない。

ここは年長で英明な一橋公が将軍になるべきだ」というものだ。

 

現代人の耳にはこれが当然の主張と聞こえるだろう。

しかし、ちょっと待って頂きたい。

ここで、一度はテレビなどで御覧になったことがあるはずの

時代劇を思い出してもらいたいのだ。

テーマは「お家騒動」である。

大体こんなストーリーだったはずだ。

 

とある大名家、当主は重病で後継ぎの若君はまだ幼い。

それをいいことに「悪家老:あくかろう」が

遠縁で年長の青年を後継ぎに立てようとする。

当然、「忠臣」たちは反抗するが

それに対して「悪家老」はこう言う。

「幼君では御家が保てませぬ」

 

お気付きだろうか?

こういう時代劇を見ている間は

当然皆さんは「幼君」を応援し「悪家老」と「遠縁の青年」は

とんでもない連中と思っているだろう。

しかし、一橋派の主張はそれと同じなのである。

「正義」はむしろ南紀派にある。

これが祖法というものだ。

そもそも徳川家康は後継者として次男結城秀康より

「年長」でもなく、6男松平忠輝のように「英明」でもない

3男秀忠を選んだ。

有事の時はともかく、平和な時代になれば優秀な老中に補佐された

「イエスマン」の方が、問題を起こさないからである。

そして、この方針を徹底させるために

息子秀忠夫婦(夫人は江)が

優秀な次男忠長を後継者にしようとしたのに

強引に介入して長男家光に後を継がせたのだ。

鎖国自体は家康がしたというより家光がやったことだが

それでも当時は祖法として意識されていた。

 

ところが、この「バカでもいいから必ず長男

(血筋の濃い者)が後を継ぐ」というのは

まさに家康の定めた祖法の中の祖法なのである。

「なぜ、家康がそんな不合理なことを」と思う向きもあるかもしれないが

では「優秀な子が後を継ぐ」というルールだったら

代替わりのたびに相続争いが起こる。

室町時代、多くの大名家はそういう形で衰えた。

だから家康はそう定めたのだ。

「英明」という条件で選ばれたかに見える8代将軍吉宗(よしむね)も

ライバル尾張家に勝った最後の決め手は「血筋が近い」からだった。

そして、その吉宗が将軍職を継がせたのも

「英明」な次男や三男ではなく問題のある長男であった。

 

現代人から見れば

「この国難の時期に12歳(就任時は13歳)の将軍なんて

どうかしている」と思うかもしれないが

昔の考え方では

「現将軍に血筋が近い者が将軍となるべきで能力は関係ない。

そもそも老中や若年寄(わかどしより)は

そのために存在するのだから

彼等が強力に補佐すれば何の問題もない」

ということなのである。

「保守」ということがどういうことか、如実にわかる例といえる。

 

そういう意味で言えば水戸斉昭の行動は

開国問題では「祖法を守るべきだ」という態度なのに

将軍後継者問題では「祖法など変えるべきだ」と主張していることになる。

これは矛盾である。

矛盾のある主張を展開している政治家を、人は尊敬するかどうか。

これは言うまでもないことだろう。

そして、斉昭が一方では「神」のように尊敬されながら

まるで蛇蝎(だかつ)の如く嫌われている場所があった。

それが江戸城大奥であった。

その理由は次のようなものだ。

 

11代将軍家斉の娘峯姫に、唐橋(からはし)という

上臈年寄(じょうろうとしより)が仕えていた。

上臈年寄は大奥の女中の最高位で

ほとんどは京都の公家の娘だった。

上臈年寄は生涯に渡って姫君に仕え

一生を独身で終えるのが定めである。

唐橋は絶世の美女だった。

好色な家斉は唐橋を見て食指を動かし

ひそかに奥女中に命じて自分の寝所に招こうとした。

唐橋はきっぱりと拒絶した。

「あたくしは峯姫さまにお仕えする身でございます」

さしもの家斉も、自分の娘に仕える上臈年寄だけに

諦めるしかなかった。

峯姫は水戸藩の8代藩主徳川斉修(なりのぶ)

との婚儀がまとまり小石川の水戸藩邸に嫁いだ。

 

 

斉昭は唐橋に目を付け、藩邸内の一室に引っ張り込むと

強引に手籠めにした。

その結果、唐橋は妊娠した。

兄で藩主の正室付きの女中を強姦したことになり

その行為は無軌道で醜悪といえよう。

「江戸の性の不祥事 永井義男著」

 

この話は「燈前一睡夢(とうぜんいつすいむ)」という

旗本の大谷木醇堂(おおやぎじゅんどう)が書いた随筆集にある。

この話は江戸の考証家として有名な

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)が

その著書で紹介して知られるようになったが

元ネタはこの本である。

大谷木は明治まで生きた「ひねくれ者」として有名な人物であった。

だから、この話は本当なのかと一応疑うべきかもしれないが

彼が斉昭をおとしめる積極的な理由はない。

斉昭がいわゆる「絶倫」であったのは事実だ。

生涯に公式記録に残っているだけで22男12女をもうけている。

 

また、斉昭の長男慶篤(よしあつ)の嫁である

線姫(有栖川宮家出身)が

安政3年(1856)に自害するという事件が起こったのだが

この原因も斉昭が手を出したからだと巷の噂になった。

この件については無実だったかもしれない。

だが、そういう噂が立ったこと、そして将軍家定も含めて

大奥の女性たちがそれを信じたことは事実である。

こうしたことから、斉昭の大奥の評判は最低であった。

前節で述べたように、薩摩出身の篤姫が

13代将軍家定の御台所となったのも

その点では必ずしも慶喜を将軍に押し上げるためではなく

島津斉彬が大奥の世論というものを重視した結果であろう。

つまり、大奥に「薩摩派」をつくるという目的だ。

 

しかし、後になって「イケメン」であるがゆえに大奥に支持されていた

老中阿部正弘と日本の将来を語り合ううちに

やはり慶喜を擁立(ようりつ)した方がいいと思い定めたのだろう。

しかし、そう言われても篤姫は困ったに違いない。

「あの斉昭の子を将軍になどとんでもない」

という線で大奥は固まっていたからだ。

この1857年、日本では安政4年の12月から

九段下の蕃書調所で幕府はハリスとの日米通商条約の交渉に入った。

アロー号事件もあり、開国通商やむなしと判断した幕府は

川路聖謨(かわじとしあきら)らを斉昭の下におくり

説得を試みるが、斉昭は「ダメなものはダメ」の一点ばりである。

そこで老中堀田正睦(ほったまさよし)は

逆に京の天皇の許可つまり勅許(ちょっきょ)を取ろうと考えた。

なぜなら「天皇がお許しになった」となれば

斉昭を頂点とした攘夷(じょうい)派

(外敵を撃ち払って入国させない)

もおとなしくなるに違いない。

と考えたからだ。

これこそ幕府史上最大の大誤算であった。

 

この巻おわり

 

 

目ーソンなんだよね
 
 
これを聞いても、まだ自ら人体実験しているのが不思議
 

 
なんでそんなに儲かるのかも不思議
 

 

 
 
医者は日々の食事で病気は治ると思っていないと思う件
 
 
 
 
 
何にハマるか分からない件
 
ホクトの件は1巻くらいしか読んだ事ないけど
そんな世界になりつつある今、ならない世界線へ行きたい