↑より抜粋
出身の彦根ですら「チャカポン」とバカにされた
井伊直弼(いい なおすけ)がまさに「ヒョウタンから駒」
のような成り行きで絶対的権力者の大老になってしまった。
(跡継ぎではなかったので遊んでばかりで
あだ名は「茶歌ポン(チャカポン)」)
実は、こういう時はたいてい「良くないこと」が起こる。
なぜなら人間は感情の動物だからだ。
人間、バカにされれば誰だって口惜しい。
そういう人間は常に「今に見ていろ」と思っている。
だが、通常はその想いが満たされることはない。
なぜなら、その人間は不遇だからだ。
出世コースをはずされ、権力とは無縁の生涯を送るのが普通だ。
だから実害は出ない。
しかし、直弼の場合そうではない。
そういう場合でも、人間には理性というものがある。
たとえば「権力は公のもので私物化してはならない」
ということだ。
こういう理性が働けば、権力を行使して気に食わない連中を大弾圧する
などということは起こらない。
しかし、直弼には「自分が正義を行なっている」という自覚があった。
しかも「絶対に正しい」と思い込んでいた。
宗教戦争のことを思い出して頂きたい。
たとえば、カトリック勢力は反対派のプロテスタントを
赤ん坊に至るまで虐殺した。
なぜ、そんな惨虐なことが出来るかと言えば
「自分が絶対に(すべての面において)正しい」
と思っているということは、逆に言えば
「相手は絶対悪である」と見なすことになる。
だから「皆殺しにしてもかまわん。いや、それこそ正義の実行だ」
ということになってしまう。
大老井伊直弼というのは、日本史上極めて珍しい、そういう存在だったのだ。
直弼の「正義」は二つある。
一つは、徳川家の粗法を守り
「国難の時期なのだから血は薄くても優秀な人物を将軍に!」
などという賢(さか)しらな主張をしりぞけること。
二つは、天皇がいくら反対しようと
日本と外国の戦争を避けるために開国すること、である。
この時点で、前者はもう時代遅れの考えと言ってよく
これに関する直弼の信念は客観的な正義とは言い難い。
だが、厄介なことには、二つ目の信念はまさに今の時点で評価しても正義であり
これを断行したことは歴史的に見て妥当だったと言わざるを得ないということだ。
もっとも最初のうちは、反対派である一橋派も
一橋派になったものの元は中立派の
老中首座堀田正睦(ほったまさよし)も
大老井伊直弼を甘く見ていた。
彼等の目に映っていたのは「元チャカポン」でありながら
異数の出世を遂げた幸運児であり
前当主(実兄)に比べたら腰が低くおだやかな大名の一人であったからだ。
直弼にとって重大だったのは
将軍には血の濃い紀州慶福(よしとみ)をという「正義」の方である。
将軍家定(いえさだ)は既に慶福しかいないという「内意」を持っていた。
それは病弱な本人の意思というより、実母本寿院をはじめとする
大奥勢力の
「あの女癖の悪い水戸斉昭(なりあき)の息子である
一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)なんか絶対に嫌だわ」
という「世論」が将軍に強い影響を与えていたのだと考えられる。
一般に、将軍が病弱であればあるほど
大奥は将軍の意思決定に強い影響力を持つ。
だからこそ、英明な島津斉彬(なりあきら)は自分の養女という形で
篤姫を「エージェント」として大奥へ送り込んだのだ。
しかし、御台所という妻の座も
将軍家生母(本寿院)にはかなわなかった。
南紀派の直弼が大老になったのも、本寿院を中心とする大奥の
「息子よ、あの一橋が将軍になるのを進めるようなバカな事だけはやめてね」
という意向が強く働いていたのだろう。
こうした「大奥の力」というものを
特に男性の研究者は軽視しているように私は感じている。
それでは「人間の歴史」はわからないと思う。
逆に言えば、直弼は大奥の支持を受けていたということだ。
これなら、かなり強引なこともやれる。
一方、一橋派はあせっていた。
それには大老井伊直弼を失脚させ、井伊政権を崩壊させる必要がある。
そのためには何か井伊政権の失態を鋭く追及すればよい。
そこで一橋派が選んだのが「違勅(いちょく)問題」であった。
「井伊大老、あなたは孝明天皇の「調印してはならぬ」
という御言葉に反して勝手に調印した。
これは重大な罪であり、ただちに大老を辞任すべきだ」というものだ。
直弼は堀田らに責任を押しつけてクビにした。
つまり「トカゲの尻尾切り」で逃れようとした。
しかし、調印時に直弼は大老に就任していたのだから
幕閣の最高責任者は直弼である。
当然、最終的な責任は直弼にある。ということになる。
一橋派の攻撃が始まった。
直弼から見れば、一橋派というのは許し難き連中であった。
というのは、斉昭はともかく、一橋派の連中は
「この国のためには条約調印に賛成すべきだ」
という主張だったはずである。
そして、直弼が「調印も止むを得ぬ」という言質を与えたら
ただちに朝廷など無視して条約に調印したのは誰か?
一橋派の岩瀬ではないか。
そうしておきながら、連中は今度は
「天皇の意思に反して調印をしたのは許せぬ」
と責めてくる。
直弼から見れば、とんでもない言いがかりである。
さて
ここから少し問題だが、
では、彼等一橋派は彼等の主張に沿う条約調印を認めたワシを
「なぜ調印したのだ、ケシカラン」と責めるのか?
と直弼は自問自答したはずだ。
答えは一つ。
それは自分を失脚させ一橋慶喜を将軍にしたいからだろう。
しかし、それは直弼の目で見れば
「血統論を無視して、それ以外の条件で将軍を決める」
という「粗法破り」である。
(この点では「鎖国という粗法を守れ」と主張している斉昭も
一方で「血統重視」という粗法を無視しているわけだから
「二枚舌」ということになる)
つまり、直弼から見れば一橋派というのは
「一橋慶喜将軍擁立(ようりつ)という
「粗法破り」の目的のために、自分たちの信念であるはずの
「条約調印」を政治利用し、二枚舌を恥じることなくワシを責めてくる極悪人ども」
ということになる。
「敵が極悪人」ということは「自分は絶対の正義」ということになり
こう思い込んだ絶対的権力者はどうふるまうか?
もちろん、反対派の徹底的粛清である。
略
御三家の当主らがそれほど厳しい処分を
受けなければならない理由は何なのかと言えば
それはまったく名言されていない。
それは「上様の思し召し」なのである。
では、これは本当に13代将軍徳川家定の意向であったのか?
「押しかけ登城」自体は「ルール違反」であるが
別に将軍家に反乱を企てたわけではないのである。
私は、直弼が勝手に将軍の意思だと偽ってやったことだと思う。
もちろん、普通そんなことは不可能だ。
しかし、この時は可能だった。
なぜなら、この前代未聞の処分が実行された
その翌日に家定は病死したからだ。
死因は脚気衝心(かっけしょうしん)
つまりビタミンB1不足により全身が衰弱し心臓が停止した
ということだ。享年35であった。
想像をたくましくすれば、既に死亡している家定を
さも生きているように見せかけて「処分」を実行したのかもしれない。
決して、根拠が無い想像を述べているわけではない。
こういうことは、大奥と「医師団」つまり奥医師の支持がなければできないが
大奥については何度も触れたように直弼を強く支持していたし
「井伊殿が伺候(しこう)した時、上様は既に亡くなっておられました」
などと証言をするわけがない。
また、「一橋派」の家定夫人の篤姫は、なぜか見舞いもままならない
(させてもらえない)状態であったことは、記録にある。
奥医師については興味深い話がある。
この後、なんと家定の死は毒殺であるという噂が流れ
「一橋派」の奥医師櫟仙院( れきせんいん)が疑われている。
しかし、別に処刑されるわけでもなく、いつの間にかうやむやになった。
私は、これも直弼が奥医師たちに「余計なことはしゃべるでないぞ」
と脅しをかけるために、わざとそういう噂を流して場合によっては
処罰もあるのだぞと匂わせたのだと思っている。
「毒殺計画」が本当にあったとしたら
直弼にとっては絶対に許し難いことであったはずだし
何よりも一橋派を徹底的に潰す絶好の機会ではないか。
それが、直弼によってほとんど見逃しの状態になったのは
直弼自身がそれは本当ではないことを最初から知っていたからだろう。
ところで、10代将軍家治(いえはる)の時代
瀕死の将軍を囲い込んで、老中田沼意次を失脚させたのは
黒幕一橋治済(はるさだ)であった。
つまり皮肉なことに「一橋派」だったので、この頃は一橋派こそ
保守の権化ともいうべき存在であった。
一橋治済は「怪物」である。
10代将軍家治の息子家基(いえもと)が
鷹狩りの最中に急病にかかり、後に死去したのも
私は治済が手の者を放って暗殺(たぶん毒殺)したのだと考えている。
家基が死んだことで
一橋治済の子、豊千代は11代将軍家斉(いえなり)になれた。
そして、この親子は2人して徳川を
いや日本中を「一橋の血」で埋め尽くそうとした。
家斉は正式な記録に残っているだけでも26男27女をもうけ
それを片っ端から大名家に押しつけたのである。
尾張徳川家も、紀伊徳川家も
一橋家や将軍家斉の血を引いた子を養子とした。
つまり、尾張は10代徳川斉朝(なりとも)から
紀伊は11代徳川斉順(なりゆき)から「一橋の血」なのである。
(尾張家は押し付け養子への反発が強く14代は支藩高須藩から迎えられた)
ところが、この「乗っ取り」に徹底的に抵抗したのが水戸徳川家なのだ。
水戸家にも将軍家斉の21男・斉彊(なりかつ)が養子に行くという話があり
重臣の一部がこれに同調した。
将軍家の実子が当主になれば大名として何かと優遇されるからだ。
しかし、前代斉修(なりのぶ)の弟である斉昭がいるのに
いかに将軍家実子とはいえ、他から養子を迎えるのは許せない
「それは粗法に反する」と、水戸藩士の多くが反発したため
斉昭は藩主の座に就くことが出来た。
そして、斉昭は将軍家斉に負けじと37人もの子を作った。
その7男が慶喜なのである。
そして、何と皮肉なことだろう。
慶喜が成長した頃に、一橋家の後継者がいなくなってしまった。
多くの大名を「血」で乗っ取った一橋家が、である。
その「乗っ取り」に御三家の中で唯一屈しなかった水戸家の息子が
結局一橋慶喜になった。
一方、そのライバルとなり将軍を争った紀伊家の徳川慶福(のち家茂)は
将軍家斉の直系の孫なのだ。
つまり、ルーツは一橋派なのである。
つまり、この争いは「一橋グループ」のサラブレッドである紀州慶福が
一橋の血をひいていない一橋慶喜と争った、ということなのだ。
さらに言えば、家康が水戸家を勤皇(きんのう)の家にしたのは
天皇家と将軍家が万一争った場合
天皇家が勝っても、水戸徳川家は残るからだ。
だから、水戸家の出身者は断じて将軍にしてはいけないのである。
それが尾張・紀伊(大納言)に比べて水戸を一段低い
中納言にとどめた、家康の配慮だったと私は考えている。
ところが、この配慮を無駄にしてしまった「バカ殿」がいる。
8代将軍吉宗(よしむね)だ。
吉宗はライバルの「尾張潰し」のために
御三卿(ごさんきょう)というシステムを考えた。
自分の血筋で御三家と同格のものを作れば、尾張をしめ出せるからだ。
ところが作られたシステムは独自にダイナミズムで動き出す。
この時代、後継者のいなくなった一橋家は「潰されまい」として
水戸家から慶喜を迎えた。
慶喜は一橋家を継いだことによって
「水戸出身」という経歴がリセットされてしまった。
そして将軍になった。
しかし、水戸家生まれの慶喜は小さい頃から父や母に
「天皇家に逆らうことは絶対に許しませんよ」と教え込まれている。
特に母は皇族(有栖川宮吉子:ありすがわのみやよしこ女王)なのだから
まさに「三つ子の魂百まで」ということになる。
そういう人物が将軍になることは
御三家を創設した家康の想定外であったはずだ。
少なくともその原因を作ったのは8代将軍吉宗であろう。
だから「バカ殿」なのだ。
そして、本来なら将軍御台所になれるはずが無い
外様大名薩摩島津家出身の篤姫(広大院)が
そうなったのも元をたどれば徳川家基の急死(暗殺)があったからだ。
その前例があったからこそ、この時代最も優れた大名であり
最も先見の明があった日本人の一人である薩摩藩主島津斉彬は
自分の養女を篤姫(天璋院:てんしょういん)と改名させ
大奥へ送り込んだのである。
歴史はこのようにつながっているのだ。
井伊大老によって一橋派は敗れた。
井伊大老は、そもそも外様大名が
幕政に口を出すことすら許せんという超保守派である。
その大老が中央政界を圧している。
これは日本の危機だ。
ここに至って島津斉彬はついに決断を下した。
幕府に先んじて、近代化した工場で生産した
ライフル銃で武装した精兵三千を自ら大将となって率いて上洛し
幕政いや日本を改革するために立ち上がる決意だ。
斉彬は、最も信頼する部下、西郷隆盛を京都へ先行させ準備を整えさせた。
そして、夏の炎天下、兵に猛訓練を施し、出発直前となった7月8日
にわかに病いを発し16日に急死した。
斉彬はなぜ急死したのか?
斉彬は毒を盛るという手段で暗殺されたのだと、私は確信している。
腹心の西郷隆盛は言うまでもなく期待に胸を押さえ切れないほどだっただろう。
その西郷が使者となって斉彬と連絡を取り合っていた
松平慶永(よしなが)をはじめとする一橋派の人々も
斉彬の上洛を待ち望んでいたに違いない。
しかし、このシリーズの愛読者に思い出して頂きたいのだ。
この江戸時代最大の名君だと慶永や勝海舟が認めていた斉彬のことを
「大浪費家のとんでもない愚か者」だと堅く信じ込んでいた人々が
同じ薩摩藩内に多数いたことを。
その筆頭は、これこそ最大の皮肉だが、斉彬の実父斉興(なりおき)だ。
略
常識と論理から見て斉興は
「斉彬め、兵を率いて上洛などすれば
藩が取り潰されてしまうではないか、このバカ者め」
と思ったに違いない、ということだ。
だが「押込」は出来ない。
斉彬には藩の軍事権が握られている。
しかし、このままでは御家が滅ぶ。
となれば、やるべきことは一つしかない。
別の手段で何が何でも斉彬の行動を止めることだ。
そして、その命令を下せる者は一人しかいない。
島津斉興である。
略
それに、斉興は息子斉彬を嫌っていたのは歴史的事実だ。
薩摩藩主島津斉彬は暗殺された。
私はそう確信している。
斉興は、単純に先祖からの財産を受け継いだ「お坊ちゃま」ではない。
祖父の遺産を血と涙で見事に返した苦労人だ。
こういう人は自分の建て直したもの
この場合は薩摩藩島津家に強い執着を持っている。
しかし、「バカ息子」の斉彬は、また家を潰しかねない。
それでも、斉彬が一人息子なら、家の存続のためガマンしたかもしれない。
だが、斉興は斉彬の異母弟の久光の方を愛していたし
久光を盛り立てようとする「お由羅騒動」は支持したか、少なくとも黙認した。
平たく言えば、斉彬は死んでもかまわない。
いや、死んでくれた方がいい、それなら久光かその子の忠義があとを継げる。
そう思っていたことは確実だ。
そして、もう一つ忘れてはならないのは、大老井伊直弼の存在である。
直弼は、御三家のうち尾張家と水戸家の当主と
もう隠居していた水戸斉昭まで厳罰に処した。
「御三家ですら、一橋派であれば
ささいなルール違反を追及されこんな目にあう。
ましてや外様大名である薩摩藩が
それも憲法違反をしたら一体どういうことになるか」
と斉興は考えたと私は思う。
そして、もう一つ重大なことは
こういう処分が行われた場合、斉興も無事に済むはずはない
ということだ。
「前藩主、藩主の父」として
薩摩藩改易の場合は切腹だって考えられないことではない。
たとえ命は助かっても「終身禁固刑」は免れない。
これを斉興の視点で見ると
「あのバカ息子のために、オレは一生押し込められるかもしれない」
ということだ。
この後、「幕府こそ大事」の井伊直弼は大老という
絶対的権力の座を利用して、反対派の徹底的弾圧に乗り出す。
それが、「安政の大獄」と呼ばれるものだ。
ポイントは一つ、大獄で処分された人間は、何を罪とされたか、だ。
「開国か鎖国か」は実は関係ない。
幕府、それも井伊直弼の主導する
最も保守的な幕府に逆らおうとしたかどうか
ここが問題にされているのである。
しかし、大獄の起きた原因は、直弼の側にはなかった。
いや、正確に言えば反対派がおとなしくしていれば
直弼もあそこまで弾圧はしなかっただろう。
反対派の行動が、直弼の
「幕府(そして粗法)を守らねば」
という危機意識に火をつけたのである。











































