大老暗殺の経緯5/5 | 天然記録

 

↑より抜粋

 

前にも言ったかと思うが

歴史は一部の先覚者だけがいかに目覚めても前には進まない。

国民の大多数を占める庶民が「これではダメだ」とか

「新しい政府にするしかない」と思い定めなければ

いくら先覚者が声を大にして叫んでも、付いては来ない。

庶民は安定を求めるからだ。

黒船が来ようと外国人が日本に大勢入って来ようと

それで何も変わらなければいい。

 

「イギリスは軍事力で清を散々脅して屈伏させた」

のは事実だったが

海の向こうの話であり、直接自分の目で見たわけではない。

だから庶民にとっては

いや社会の支配階級である武士にとっても

それは対岸の火事なのである。

では、彼等が目覚める時はどんな時か?

 

それは、その「安定」が何らかの形で崩れた時だ。

「安定」とは何かといえば、まず経済的安定だろう。

平たく言えば「食える」ということだ。

逆に言えば、フランス革命もそうだが

おとなしい庶民も餓死によって大反乱を起こす。

今も昔も、為政者の責任とは民を飢えさせないことにある。

それさえ出来ていれば社会は安定する。

今年と同じ暮らしが来年も出来ると思えば

人々は黙って働き反乱など起こさない。

 

この年(安政6年)、日本は本格的に開国した。

それで何も変わらない。

逆に日本が豊かにでもなれば

倒幕運動など起こりようもなかっただろう。

先覚者がいかに黒船の危機を訴えても

それは幕府がきちんと対応するから問題ない

ということになったはずだからだ。

しかし、日本、いや幕府は対応を誤った。

 

これまで述べたように様々な失敗はあったが

当時はマスコミもなく「不平等条約の締結」

ということすら外には漏れない。

ところが「為替ルート」設定の失敗だけは隠せなかった。

これは日本経済に直接影響を与えたからだ。

 

まず、金銀交換ルートが国際価格と合っていなかったため

大量の金が日本から流出した。

これも平たく言えば国が貧乏になったのだ。

そして、その対策として、ただでさえ金の保有量が減っているのに

残り少ない金の品位を減らした万延小判を発行した。

国際相場との調整をするためとはいえ

通貨供給量を3倍にしたということは

物価も3倍になったということだ。

しかも極めて短い期間で。

 

商人はインフレ分を値上げして物価に組み込むことが出来るし

職人などの労働者も手間賃を上げてもらうなどの処置で少しは対処できるが

もっとも困惑したのが幕府開幕以来

給料を「〇〇石」という形で米でもらっている武士階級だ。

 

真面目に日々の勤めをこなしている下級武士がいる。

その俸禄(ほうろく)は江戸時代初期からまったく変わりないが

最近どうやっても暮らしが立ち行かなくなった。

本来、武士の俸禄というものは主君に対し軍役をつとめるものだから

足りないということは有り得ないはずだ。

しかし、実際に足りない。

その原因をつきつめて行くと

物価がすべて2倍以上に上がったことが原因だとわかった。

 

江戸時代の幕府の経済政策といえば

老中田沼意次(おきつぐ)の「改革」は別にして

すべて米増産で財政を立て直そうというものだった。

また、しばしば行われた貨幣改鋳(かいちゅう)も

基本的には金貨の品位を落とすものであった。

つまり、2つとも「インフレ政策」なのである。

その上で、幕府は物価を最終的には3倍に押し上げるような政策を実行した。

 

これでどうやって暮らして行けというのか。

武士にとって「商売」とは賤(いや)しいことであった。

「アルバイド」も出来ないし、もしやるとしたら

それは極めて屈辱を伴う作業になる。

それもこれも、彼等に見える「原因」は開国したことである。

そして、その認識自体は間違っているとは言えない。

では、どうなるか?

「ガイジンなど皆叩き斬って日本から追い出してしまえばいい」

ということになる。すなわち攘夷だ。

 

前にも紹介したが、アメリカのハリスと組んで日本に誤った経済政策

(品位を落とした万延小判の鋳造:ちゅうぞう)を勧めた

イギリスのオールコック総領事も、後にこの過ちに気が付いたが

回想録では全部ハリスの責任にしている。

 

「被害者は全国民」なのである。

長屋の住民だって苦しんでいた。

実感としては、稼いでも稼いでも暮らしが楽にならない

ということになる。

「こん畜生、こんな馬鹿な世の中があってたまるけえ」

ということになり、たとえば浪人がガイジンを叩き斬れば

快哉(かいさい) を叫び

「もっとおやりなさい。役人には口が裂けても言いませんぜ」

ということにもなる。

 

天皇や公家も

「コレラのような疫病が流行し

庶民の暮らしが立ち行かなくなったのは

すべて“ケガレに満ちたガイジン”を日本に入れたためだ」

と思っている。

すなわち彼等も「ガイジンを叩き出せ」に大賛成なのである。

 

ところが幕府は攘夷実行など不可能なことを知っている。

徹底的に突っ張った清国がイギリスにどのような目に遭わされたか

情報はきちんと把握しているのである。

しかし

「攘夷は不可能ですから、開国路線で行くしかありません」

ということを、幕府は主張できないのだ。

その理由は、幕府が軍事政権であり

その長である征夷大将軍はまさに

「ガイジンどもを叩き出す大将軍」であるからだ。

「攘夷実行不可能」と言った途端に

「ならば幕府も将軍もこの国には無用のものではないか」

ということになってしまうのだ。

 

ならば、どうするか?

表向きは「いずれ鎖国に戻します」

というウソで時間稼ぎをして、その間に英仏などと戦えるように

軍制を改革し、科学技術なども取り入れることだ。

しかし

「日本にとって本当にいいのは、開国し広く貿易を行なって

国を豊かにし軍を改革していくことだ」

という正論をうっかり唱えると

「貿易が国を豊かにするだと

開国以来我が国の経済は滅茶苦茶になったではないか」

という攘夷派に切り殺されてしまう。

現に、この論者の勝海舟は何度も命を狙われたし

「海舟」という号を彼に与えた佐久間象山(しょうざん)は

後に本当に斬殺されてしまう。

この時代の奇妙さがわかって頂けただろうか?

 

客観的に見て、日本という国を

欧米列強の植民地にさせず独立を保って行くには

結局、明治維新政府が採用した、開国近代化の道しかない。

しかし、この時点で、その正論をもって人々を説得しようとすれば

実行不可能な攘夷を唱える人々に斬り殺された、ということなのである。

だから、この時点で、本当の意味で日本の将来に貢献出来ていた人間は

まさに海軍術を学んでいた勝海舟のように

日本の近代化に少しでもかかわっていた人間だ。

島津斉彬(なりあきら)はその代表であった。

しかし、藩内保守派の総反撃にあって暗殺されてしまった。

斉彬の暗殺は日本にとって

人々が考えている以上にはるかに大きな損失なのである。

 

水戸も長州も薩摩も

「このままではいけない」という点では一致していた。

そして、その三者の共通するのは皮肉なことに

「幕府は攘夷を実行すべき」であった。

皮肉といったのはこれが実行不可能だからだ。

大老井伊直弼が自分の行動を「正義」と確信していたのは

反対者が攘夷を唱えていたからだろう。

「馬鹿めが、そんなことをしたら日本が滅びるではないか」

ということで、確かにこの点においては井伊の方が正しいのである。

だから井伊は水戸藩を徹底的に追い詰め

ついに藩主の徳川慶篤:よしあつ(一橋慶喜の実兄)から

「戊午の密勅をお返しします」という言質を取った。

安政6年12月20日(和暦)のことだ。

井伊はこれで完全に勝ったと思った。

 

 

安政7年(1860)3月3日。

その日は朝から季節はずれの大雪であった。

大老井伊直弼(なおすけ)の登城を護衛する供廻り徒士(かち)

上士で15名、他に足軽、馬夫など軽輩の者と合わせ総勢60名は

刀が雪溶けの水に侵されることを防ぐため

柄袋(つかぶくろ)をつけていた。

日本刀は鉄で出来ているから水気を嫌うのである。

しかし柄袋をつけているということは

とっさに刀を抜けないということなのだ。

「カバー」をはずす手間がいる。

 

そしてもう一つ、今まであまり指摘されないことを言えば

護衛の彦根藩士の手は寒さによって

相当かじかんでいただろうということだ。

昔は手袋をしないし、武士たるもの

いかに寒くても手は外気に触れさせたまま堂々と歩かねばならない。

一方の襲撃部隊は、茶屋で大名行列の見物客を装っていたから

手はいくらでも暖められる。

火鉢にかざしてもいいし、懐に手を入れるだけでも全然違う。

このハンデは意外に大きい。

 

水戸脱藩浪士を中心としたグループが

大老暗殺という非常手段に出た直接のきっかけは

井伊大老の圧力に屈した水戸藩上層部が

戊午の密勅の返納を決定したからだった。

前にも述べたように

井伊は戊午の密勅のことを

水戸斉昭(なりあき)の大陰謀による

「帝の御意志に反するもの」と誤解していたが

実はそうでなはい。

それは本物

つまり孝明天皇の叡慮(えいりょ)を反映したものだ。

だから、これを返納することは

水戸藩が天皇の御意志を踏みにじったことになる。

 

忠臣として、天地が引っくり返ろうとやってはいけないことだ。

それを、井伊大老はやれという。

しかも、孝明天皇もそれを望んで勅書を出したと主張するのだ。

その主張自体は事実だった。

確かに帝は井伊の要請に基づき「返納命令」を出した。

だが、今度は逆に水戸藩士の一部は

「そんなことはウソに決まっている」と思った。

なぜなら本当にそんなものがあるなら、見せればいいからだ。

しかし、井伊は「勅書は出た」とは言うが現物は見せようとしない。

一言で言えば、井伊は

「朝廷(おそらく岩倉具視(ともみ)の策」にはまったのである。

しかし、井伊がその現物を見せなかったにもかかわらず

幕庁はその圧力に屈した。

井伊は腹心長野主膳(しゅぜん)に命じて工作させ

水戸藩に対して天皇から「水戸は先の勅(密勅)を返還せよ」

という命令を再度出させることに成功したからだ。

 

そして勝ち誇った井伊は

水戸藩主徳川慶篤:よしあつ(斉昭の子)に対して

「返さねば天皇の御命令に反することになるぞ」

と返納を強く求めた。

これには藩庁も「返納やむなし」と断を下した。

しかし、藩内の過激派はこれに絶対反対だった。

激派は

「先の戊午の密勅こそ帝の本当の御意志であり

後から出された命令は大獄で忠臣をすべて奪われ

御自分の意志を通せなくなった帝が止むを得ず出したものだ。

偽の命令に従って本当の御意志の籠っている密勅を返納することは

忠臣たるもの絶対にすべきではない」

と考えたのだ。

それゆえに、藩に迷惑をかけないために脱藩し

浪士となって井伊を討つことを決めた関鉄之助ら18名は

自分たちが正義を実行しているという確信があった。

 

大名行列とは、今で言えば連隊、あるいは大隊の行進にあたる。

たとえ、その部隊長の命を狙うからといって

行軍中の軍隊を襲撃するバカはいないだろう。

自爆テロでもやるというならともかく、部隊長の命だけが目的なら

行軍時以外の警戒の手薄な時を狙うのが常識というものである。

テレビ時代劇などでよく見る、大名行列が襲撃されるという事件は

実は江戸時代ただの一件もなかったのだ。

おそらく井伊の頭の中にも、この常識はあった。

常識とは先例によって形成されるものだからだ。

 

井伊は「狙われている」という情報を摑みながら

行列を守る部下には「警戒せよ」と言った形跡がない。

もし、彼等がそう言われていたら

少なくとも柄袋は外しただろう。

少々の雨なら雨具などつけないはずが

この日は全員が雨合羽をつけねばならぬほどの大雪だった。

これも襲撃側に有利である。

雨合羽を着ていると動きが鈍くなるからだ。

井伊側にこうした悪条件が重なっていた。

言うまでもなく井伊側の不運は襲撃側の幸運である。

 

襲撃側は武鑑:ぶかん(大名図鑑)を手にして

行列の見物客を装っていた。

そこへ井伊家の行列がやってきた。

打合せ通り、まず森五六郎が偽の訴状を持って行列の先頭をふさいだ。

「お願いの儀がござる」と直訴を装ったのである。

当然、行列は一旦停止し

供侍(ともざむらい)の一人が森を排除するために出てきた。

それを森は訴状を捨てると抜き打ちに斬り捨てた。

あっと驚いた供侍が行列前方へ走り

井伊の駕籠(かご)の周囲が手薄になったところへ

黒澤忠三郎が側面から駕籠へ向かってピストルを一発放った。

この一弾が駕籠の戸を貫いて見事に井伊に命中した。

 

ピストルが射ち込まれた時

駕籠かきや荷物持ちはクモの子を散らすように逃げてしまった。

桜田門はすぐそこだから、井伊が重傷を負っていたとはいえ

彼等が逃げずに駕籠をかついだまま門内へ逃げ込んだら

城内には番士もいるし医者もいる。

何とかなったかもしれない。

しかし、駕籠はその場に置き去りにされる形となった。

ピストルが射たれたのを合図に同志が一斉に斬り込んだ。

ここで井伊にとっての、さらなる不幸、襲撃側の幸運が起こった。

 

フリーランスの駕籠かきなどが逃げたのは仕方がない

代々禄(ろく)をもらっている藩士のうち

7人がそのまま何も抵抗もせずに逃げたのである。

この7人は後に士道不覚悟のゆえをもって

切腹ではなく斬罪に処させている。

もっとも、彼等にも言い分はあっただろう。

屋敷が目と鼻の先なのだから

応援を求めに行ったということも充分に有り得る。

それは駕籠脇に残った者の命令だったかもしれない。

しかし、それを確かめる術はなかった。

駕籠脇に残った者はすべて闘死したからだ。

見事にはねられた井伊の首は

ころころと雪の上をころがったという。

 

 

幕府の面目丸潰れである。

繰り返すが、これが殿中(江戸城内)で

井伊が刺殺されたという「密室」内の事件であったら

なんとかシナリオ通りにもみ消すという手もあったかもしれない。

しかし、事件は公然と、大衆の面前で行われたのだ。

 

どの時代の、どんな政府であれ

国民は政府が自分たちを守ってくれると思うからこそ

信頼するのだ。

そのために、求められるのは

外に対しても内に対しても毅然とした強さ

別の言葉で言えば「頼もしさ」なのである。

特にこの時代は、外敵が日本を屈服させようと迫って来ていた時代だ。

そして、庶民は、いや武士も幕府の

「軟柔(なんじゆう)外交」に不満をつのらせている。

 

もっとも、この点は、井伊だけの責任ではなく

軍事政権であるにもかかわらず

日本を守るということについて

怠慢であった歴代政権の責任であり

井伊はそのツケを一度に払わされた形なのだが

その軍事政権の司令官代理(大老)が

少人数の数に呆気なく首を取られたことは

「幕府って頼りないな」と多くの人々に思わせた。

しかも幕府は、その収拾にあたっても

乱を恐れる余りウソをついて逃げようとした。

つまり、「大ウソつきの腰抜け」と

国民に思われる結果を招いてしまったのだ。

そんな政権に付いて行くバカはいない。

 

桜田門外の変

つまり大老井伊直弼暗殺事件について、その後の経過を述べよう。

 

現場で指揮を執っていた関鉄之助と岡部三十郎は

見届け役とし斬り合いには参加せず

後に追われる身となって捕吏(ほり)に捕らえられ斬罪に処された。

首謀者の一人である関にとって、おそらく無念だったことは

関を捕らえて江戸へ送ったのが

幕府ではなく水戸藩だったということだ。

関は様々な地を逃亡した挙句

故郷の水戸藩領へ戻っていたのである。

 

だが、そこも藩庁の知るところとなり

山一つ越えた越後国(新潟県)で

水戸藩の追手に捕まったのだ。

身内に裏切られた思いがしただろう。

水戸藩領を出たのだから

見逃してくれてもいいだろうとも思っただろう。

しかし、水戸藩は容赦なかった。

その理由は、関が「忠節を尽くした」

と確信していた水戸斉昭が、事件後すぐに関らを

「天下の大罪人」と断定し

一人残らず捕らえろと命じたからである。

 

しかし、この時点(捕まったのは事件の1年後)には

既に水戸斉昭はこの世の人ではなかった。

 

安政7年から万延元年となった

1860年の8月15日、和暦だからまさに

中秋の名月の日に月見をしていた斉昭は突然倒れ急死したのだ。

心筋梗塞だったという。

 

それにしても、斉昭が死んだことで

「捕らえよ」という命令は「先君の御遺命」になってしまった。

こうなると幕藩体制が続く限り誰も取り消せない。

そこで、関も捕らえられてしまったのだろう。

藩内には同情論もあったはずである。

その辺が儒教体制の愚かしさというべきか。

 

 

井伊大老がいなくなったことにより

一橋派として追放されていた人々の復帰が徐々に始まった。

しかし、前にも述べたように

最大の大物水戸斉昭は病死してしまったし

復帰を最も期待された岩瀬忠震(ただなり)

は身体を壊してしまっていた(翌年死亡)

 

一方、大老が死亡したことにより

幕府の最高権力は老中安藤信正(のぶまさ)に移った。

だが、安藤は「井伊大老は生きている」というような

あくまで波風を立てまいとする政治姿勢を取っていた人物である。

結果的に見れば、幕府はこの時

事態をごまかさずに果断な処置をしておいた方がよかったということは

前にも指摘した通りだが、安藤はいかにも「穏健派」らしく

この国難を収拾するにあたって

これまでとは別の方向へ政策の転換をはかった。

それが公武合体である。

 

公武合体とは

公(朝廷)と武(幕府)が一つになるということで

具体的には

若き将軍徳川家茂(いえもち)の御台所に

皇女を迎えるというものである。

これは徳川家康が幕府を創設した頃には

まったく考えられない態度であり政策であった。

 

家康は天皇家を圧迫し

その権力と権威を事実上封殺しようとした。

それは秀忠の娘和子を中宮として

「押しつけられた」後水尾(ごみずのお)天皇が

譲位に際し憤激のあまり

「とても道ある世とは思へず」と詠じたことでもわかる。

 

徳川家から天皇家に「嫁を出す」のはかまわない。

それは徳川家の方が「上位」ということになるからだ。

しかし逆は問題だ。

そんなことをすれば

「天皇が義父、将軍が婿」ということになり

天皇が「上位」ということになってしまう。

これは徳川家康の企画にまったく反することになる。

 

こうした流れの中で、条約勅許(ちょっきょ)問題も生まれた。

そもそも幕府は「鎖国」をするにあたって

勅許(天皇の許可)など取っていないのである。

だから新たに「開国」するにあたっても本来は

勅許など必要ないはずだ。

「大政」は「委任」されているのだから

幕府は勝手にやっていいはずなのである。

それなのに大老井伊直弼ですら朝廷への根回しをして

勅許を取らなければならないと考えていた。

幕末にはそれが常識となっていたのである。

 

井伊暗殺の原因の一つも

勅許を得ずして条約締結に踏み切ったことがあった。

少なくともそれが多くの人々が納得する理由であったことは事実だ。

戊午の密勅問題も、結局は天皇という存在が

「オールマイティの切り札」となっていたから起こったと言える。

そこで老中安藤信正はこの「切り札」との連携を強化するために

公武合体を実行に移すことに決めたのだ。

 

そこで、天皇には女の子がいない状態だったが

天皇の妹で既に有栖川宮熾仁

(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約していた

和宮(かずのみや)にお鉢が回ってきたのである。

いや「回ってきた」というより「回した」のが

その頃には妹の縁で侍従(じじゅう)という

天皇側近の地位を獲得していた岩倉具視(ともみ)であった。

 

記録にはないが

ひょっとしたら策士の岩倉は自分の妹の産んだ女子を

降嫁(こうか)させることを考えて、運動していたのかもしれない。

そうなれば岩倉は「将軍の義兄」ということになって

ますます地位が向上するからだ。

しかし、その子の死で計画は挫折した。

そこで和宮に白羽の矢を立てたのではないか。

自分が「将軍の義兄」になれなくても

孝明天皇はなれるからだ。

岩倉の方が発案したと思うのは

孝明天皇は当初はこの計画に大反対だったからだ。

既に和宮は婚約者がいる身だったからである。

しかし、そこであきらめる岩倉ではない。

 

 

岩倉は孝明帝にこう進言した。

「和宮様を御降嫁させる見返りとして

幕府に攘夷の実行を確約させればよいのです」と。

具体的には条約を破棄させ

夷人(いじん)を日本の国土から1人残らず叩き出すことである。

 

孝明帝は悩んだ。

岩倉がこのように進言したのは

安政から万延に元号が代わった6月のことだったが

そうした情勢の変化を敏感に察したのか、和宮は

「帝のおそばを離れたくはありません(関東には行きたくない)」

という手紙を出した。

しかし孝明帝は岩倉の進言を受け入れ

「幕府が攘夷の実行を確約するなら和宮降嫁も止む得ない」

という断を下した。

攘夷実行のためには、妹を犠牲にしても止むを得ないと考えたのだ。

 

幕府はもちろん攘夷を実行するつもりはない。

そんなことは実行不可能だからだ。

しかし、和宮降嫁は何としても実現させたい。

そこで、幕府は口からデマカセを言った。

酒井所司代(しょしだい)をして

「10年以内に必ず攘夷を実行します」と約束したのである。

実は、この約束、文書で残っているわけではない。

酒井は口約束をしたのである。

 

万延元年10月18日

孝明帝は和宮降嫁に対し勅許を与えた。

和宮はしぶしぶながら、この話を受けざるを得なかった。

ところが、幕府は

「攘夷を必ず実行します」という言葉の舌の根も乾かぬうちに

プロシア(北東ヨーロッパ)や

ポルトガルとの通商条約を交わしてしまった。

しかも、それを事後報告の形で酒井に伝達させた。

 

孝明帝は怒って、和宮降嫁を破談にしようとすら考えたが

辛うじて思いとどまった。

記録には無いがこの間、朝廷では岩倉が

幕府からは酒井が必死になって説得していたのだろう。

なお、このプロシアとの通商条約締結の直前

アメリカは公使ハリスの通訳だった

ヒュースケンが攘夷勢力に暗殺されている。

 

ここで、桜田門外の変以降の

水戸藩の情勢について少し触れておこう。

井伊大老暗殺は幕府の権威を大きく失墜させた。

しかし、肝心の水戸斉昭が暗殺を評価せずに

むしろ犯罪として追及する姿勢を見せたことも

水戸藩内の激派(過激派、急進改革勢力)は

藩内の主導権を鎮派(穏健派、幕府恭順勢力)に奪われた。

そこで、劇派は藩外の勢力と盟約を結んで

日本を改革するという方向を選択した。

しかし、これまで連携していた薩摩藩は名君島津斉彬の死後

保守派の島津久光が実権を握り

水戸は裏切られる形となったので頼りにならない。

そこで、彼等が目をつけたのが長州藩だった。

 

 

西丸帯刀(さいまるたてわき)、岩間金平は

幕府に対して積極的に批判し改革して行こうという

激派の一員だったが

水戸藩だけで改革を成し遂げようとする多数派に対し

他の雄藩(ゆうはん)とも力を合わせるべきだ、という論者であった。

しかし、この時点では

西丸のような考え方の人間は水戸藩では勢力が弱まっていた。

理由は一つ、薩摩藩の裏切りである。

 

薩摩が共に立つと信じて

水戸激派は桜田門外に井伊大老を急襲した。

そして、薩摩藩からも有村次左衛門

( じざえもん)がこれに参加した。

ところが、薩摩藩は

「国父(藩主の父)」島津久光の方針で

現場が勧めていた水戸藩との連携を絶ってしまった。

それどころか水戸に協力した有村雄助(ゆうすけ)

(次左衛門の兄)まで切腹させた。

当然、水戸藩に起こったのは

「他藩の者は頼りにならん」という怒りの声であった。

しかし、西丸らはそれでも他藩との連携が絶対に必要だと考えていた。

日本全体の改革である、同志は多ければ多いほどいい。

 

そこで、同盟相手として浮かび上がったのが長州藩であった。

 

 

ところで、この「成破の盟約」

藩と藩との正式な同盟ではないこともそうだが

もう一つ注意すべきは倒幕を目指したものでもないということである。

あくまで、その目的は

幕府改革を通して日本を立て直すことなのである。

そういう意味では

彼等が絶対に許せないと考えていた

公武合体派と基本的には変わらない。

 

だが、この「腐っても鯛」

の幕府を何とか生かそう、という考え方は

これからの数年間で急速に時代遅れとなり

「腐った鯛はやはりゴミ箱に捨てるべきだ」

つまり倒幕という路線に変わっていく。

 

この巻おわり