↑より抜粋

 

孝明天皇は幕府に腹を立てていた。

それは激怒という言葉を使ってもいいほどのものであった。

その天皇に開国を納得させるため

幕府の代表である大老井伊直弼は後に

「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を始めた。

そして、その大弾圧に屈した形で

天皇は一度はクビにしようとした

関白の九条尚忠(ひさただ)を復帰させた。

当然、幕府の威を借りた九条関白に誰も逆らえない。

 

そういう状況の中で、安政5年の最後の日で大晦日の12月30日

(和暦なので31日は無い。1859年2月2日にあたる)

孝明天皇の「幕府の開国に対する疑問は氷解した」

という「お墨付き」が出たのである。

散々じらされたが(と間部は思ったろう)ようやく出た

「天皇の了解」に狂喜し、間部はこれで大きなヤマを越えたと思った。

ところが、実はこの辺りから岩倉具視が孝明天皇の

「軍師役」として動いていたのではないかという見方がある。

 

まず第一に、この「氷解」の勅諚(ちょくじょう)は

内容がまったくおかしいのである。

それまで孝明天皇は幕府の態度に激怒していた。

その説明のために上洛した間部老中の無礼を怒り

その言い訳の拙劣(せつれつ)さに呆れ果てていた。

にもかかわらず、この勅諚の内容は一言で言えば

「事情は了解した。幕府の言い分はその通り認める」

なのである。なぜ「氷解」なのか?

あれだけの怒りはどこへ行ってしまったのか?

 

この勅諚のキーポイントはよく読むと

「幕府はいずれ攘夷をやるという。

今条約を結んだのはあくまで仮のことなのだな

わかった、わかった」なのだ。

つまり幕府が熱望していた「開国への勅許」を与えることで

(しかも散々じらした挙句に)幕府側を喜ばせているが

実は真の狙いは「将来における攘夷の決行」を

幕府に確約させた、という点にあるのではないか、ということだ。

 

もちろん、そんな高等戦術は孝明天皇の

直情径行(ちょくじょうけいこう)な性格から見ても

天皇自身が行なったとは考えられない。

しかし、九条関白の復帰でほとんどの公家が

その鼻息をうかがっているような状況の中で

天皇にこれだけの策を授けることの出来るのは

「実の妹が内侍(ないし)」という

天皇との太いパイプを持っている岩倉以外に考えにくい。

ともあれ、京からの急使で孝明天皇の

「了解」を得たと知った井伊大老も喜んだ。

 

そして井伊は調子に乗ったのか

老中間部詮勝(まなべあきかつ)に対し

「水戸家に対して戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を

返納するよう命じる勅諚を天皇に出してもらえ」という指令を発した。

間部はこの指令には頭を抱えたようだ。

機嫌の悪い天皇を、どうやって納得させるか。

開国の「了解」は得られたとはいえ、そこまで踏み込んでいいものか。

しかし、間部には九条関白という「切り札」があった。

この「切り札」をもう一度使って

とにかく孝明天皇に幕府の意向を申し入れたのである。

 

その結果は、どうなったか。

それを語る前に、長州藩の動向を見てみよう。

吉田松陰は「間部を討つ」という爆弾発言を危険視した藩庁によって

身柄を野山獄(のやまごく)に移された。

しかし、獄舎と言っても面会も手紙を出すのも自由

書籍も取り寄せ可能で、何を書いても罰せられなかった。

この辺が他藩では有り得ない、長州藩独特の風土である。

まず才能ある若者をとことん大事にすること

そして過激な発言も「若い者はそれぐらいでなくてはいかん」

と許すところだ。

他藩では「間部老中を討つ」などと口にしたら

それだけで切腹ものだ。

幕府の耳に入らぬよう、闇から闇へ処分されることも充分に考えられる。

 

この時、松陰は藩士としての籍を削られ

身分としては百姓と同じだった。

しかし、それはアメリカへの密航を企てるという

幕府最盛期には死罪に処せられる罪を犯し

しかもそれが幕府の知るところとなったためで

もし幕府に知られていなかったら

そもそも士籍を剥奪されることすら無かったかもしれない。

 

しかし長州はまるで違う。

だから、相変わらず松陰はその過激な主張を引っ込めはしなかった。

それどころか江戸にいる愛弟子の高杉晋作には

今こそ決起せよ、という手紙を書いた。

しかし、これに対する高杉や桂小五郎の反応は

「先生、まだ時期尚早です。

いま決起しても必ず失敗します。どうか自重して下さい」

というものだった。

 

高杉の判断は戦略的には正しい。

たとえば藩庁が大砲を松陰の要求通りに本当に貸し出してくれたとしても

その大砲をごろごろと引きずって街道を行けば

たちまち幕府の知るところとなり幕府の指令を受けた大名たちに

街道の通行を妨げられ、討伐隊を差し向けられるだろう。

 

しかし、その反応を知った松陰は激怒し

高杉らを手紙の中で猛烈に批判した。

 

松陰の座右の銘は

「至誠(しせい)にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」

つまり「誠意を込めて説得すれば何事もうまく行く」

ということであり、後に江戸に連行された松陰はこの姿勢で

幕府の高官たちを説得しようと試みるのである。

 

死を恐れぬ松陰であったが

むやみに命を投げ出すことを認めていたわけでは決して無い。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

これは高杉晋作の

「先生、人間の死ぬべき時はどんな時ですか」

という質問に対し、即答できなかった松陰が

後に獄中で大悟して高杉に伝えた言葉だと伝えられている。

 

私なりに訳せば

「自分が死ぬことによって

社会に不朽の貢献を出来ると考えるなら

その時こそ死すべき時だ。

また、ここは生きてこそ社会に貢献できると考えるなら

(歯を食いしばっても)生きるべきだ」

ということだ。

 

後に高杉はこの言葉を実行することになるが

この時は「先生は過激すぎる」と考えていたようだ。

いずれにせよ、松陰が松下(しょうか)村塾で教えたかったことは

知識でも武術でもなく

いざとなったら大義のために命を投げ出す覚悟、であった。

それが草莽崛起(そうもうくっき)という思想につながる。

草莽とは「草むらに潜む隠者」のことだったが

転じて一般大衆のことを指す。

つまり、この国家の大事、非常時に

庶民といえども決起しなければならないということだ。

 

 

では、単なる「勤皇」が「倒幕」という

過激な方向に進むためには一体何が必要なの?

 

そのことが明白にわかるのが

吉田松陰と長州藩きっての儒学者

山県太華(やまがたたいか)の論争である。

 

松「天下の大地も、天下の人民もすべて一人の天皇のものである。

漢土(中国)の古典の「詩経(しきょう)」の一節

「普天(ふてん)の下王土に非ざるはなく

率土(そっと)の浜(ひん)王臣に非ざるはなし」

とはこのことを言っているのだ」

 

太「それは違う。天下は一人の天下ではなく

天下の天下だと考えるべきだ。

古代中国において堯(ぎょう)や舜(しゅん)は

人でありながら人々が最高の賢人と認めたから王となった。

我が国でも神武天皇がそうであった。

しかし、保元の乱以降、皇室の徳が衰えて

(崇徳天皇の出生の事情など第4巻参照)

土地人民を治めることができなくなったから

源頼朝が出現し、以後は武家政治でうまく行っている。

これが天下は天下のものだという何よりの証拠だ」

 

松「いや、そもそも幕府(徳川将軍家)は

武力で天下を取ったのだから朱子学で言うところの

覇者(はしゃ)であり不正義の存在だ。

一方、天皇家は古来から日本を徳で治めて来たのだから真の王者であり

「覇を排斥し王を尊ぶという朱子学の本来の立場(いわゆる尊王斥覇)」

から言えば、幕府は真の主権者ではない。

天皇家が唯一の主権者なのだから

やはり「天下は一人(天皇)の天下である」

 

太「では聞くが、天皇家が古来からこの国を治める資格のある

有徳の王だと主張する証拠はどこにあるのか」

 

松「それは答える必要がない。大体、論ずるのも不可である

それは、われわれ日本人が信じるべきことなのだ」

 

最後の言葉は「回答」にはなっていない。

論争の答えではなく「私はそう信じる」と述べているだけだからだ。

つまり、宗教なのである。

儒教も「天」という人間を超越した存在を認めている点で

明らかに宗教なのだが、それでもその働きについては合理的な説明をしている。

悪政を行なえば天は怒って不作、疫病などを起こし

権力者の家系がその任に堪えないと天が判断したら

「取りかえ」る、ということである。

つまり「神学」はある。

 

ところが、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(あつたね)

に言及した項でもおわかりのように神道には「神学」が無い。

少なくとも整備はされていない。

しかし、宗教だから合理性を飛び越えた確信、つまり信仰はある。

それが

「日本は神の子孫である万世一系の天皇が統治する国だから神国であり

ゆえに天皇は有徳の存在であって絶対的主君である。

天皇家の血を引いていないものがこの座を奪うことは許されない」

ということになる。

 

 

そして、松陰はそれをさらに継承発展させた。

天皇が絶対君主であり、その座は不可侵

(臣下は絶対に天皇になれない)とすると

一体どういうことになるか?

天皇の前では、臣下はすべて平等ということになる。

将軍であろうが、浪士であろうが農民であろうが

一臣下としてすべてが平等だ。

だからもし将軍や大老が天皇の意思に背く行為をしたのなら

討ってもいい、いや討つべきだ、ということになる。

 

この松陰の理論によって、いわゆる倒幕が論理的に正当化された。

この影響は甚大である。

 

松陰が、幕府に逆らっても

己の主張を貫いた大石らに共感して詠んだ歌がある。

 

かくすれば、かくなるものと知りながら

やむにやまれぬ 大和魂

 

松陰の大和魂を詠んだ歌としては辞世の

 

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 

留めおかまし 大和魂

 

の方が有名だが、私は松陰らしさということで見るならば

この歌が最もふさわしいと思う。

 

意味は訳すまでもないが

「こうすれば、どんな結果が待っているか知らない私ではない。

しかし、国のためにやるべきなのだ、それが大和魂というものだ」

であろうか。

 

 

「松陰神学」の問題点とは何か?

むしろ「絶対神としての天皇教の神学」

と言い換えた方がいいかもしれないが

その最大の問題は、本来は歴史書として作られた

「古事記」「日本書紀」が、キリスト教の聖書などと同じく

絶対的な「聖典」になってしまったことなのである。

 

「古事記」は、もともと神話の書であり歴史書というよりも

「神道の聖典」の要素が強い書物で

体裁としては歴史書の形をとっているに過ぎない。

一方「日本書紀」という書物は

壬申(じんしん)の乱の勝者となった天武天皇が

自分の行為を歴史的に正当化するために書かれた

いわば政治的プロパガンダの要素が強い本だ。

もちろん、書かれているのは壬申の乱の歴史だけではないから

天皇という存在の絶対化も行なっている。

 

たとえば「万世一系」つまり天皇は

アマテラスの孫であるニニギノミコトの直系の子孫であり

この系譜は一度も途切れていない

ということを歴史上の事実として書いている。

 

この点特に疑問があるのは

第14代の仲哀(ちゅうあい)天皇から

第15代の応神(おうじん)天皇に「つながる」ところだ。

仲哀天皇が変死し、その皇后(こうごう)であり

皇后の中で唯一「神」の字を追号に持つ

神功(じんぐう)皇后が、通常より長い妊娠期間を経て

これも天皇の中でも3人しかいない「神」の字を

諡(おくりな)に持つ応神天皇へと天皇の位は受け継がれる。

 

ここにおいて、どのような事情があったのかということは

この第1巻で既に述べたところだか、要点だけ繰り返せば

ここで皇統は初代の神武以来のものとは別系統のものに

交替しているのではないか、ということだ。

だからこそ、その「初代」である女性の追号に

天皇ですら3人しか持っていない「神」の字を与えたのだろうし

その子が「応神」なのも納得できるということである。

 

しかし「日本書記」においては万世一系という

「事実」は、一度も崩されていないことになっている。

そこで、皇統譜の作者たちは「初代」の女性が初代であることを隠し

隠しながらもその特別な地位を何らかの形で顕彰する必要を感じ

そのために彼女が

「女性の身でありながら軍勢を率いて朝鮮半島に攻め入り

新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)を服属させた」

という、いわゆる「三韓(さんかん)征伐」

のエピソードを創作したのだろうということだ。

これなら「神功(神のような功績をあげた)」

と呼んでも何の問題もなくなるからである。

 

日本が朝鮮半島へ兵を送り何度も戦っていたことは

高句麗の広開土王碑(こうかいどおうひ)という証拠もあるし

何よりも663年の白村江(はくそんこう)の戦い

という伝説ではない事実がある。

しかし、その白村江の戦いにおいて

日本は唐と新羅の連合軍に敗れたのである。

 

そして、これ以後長く、日本は朝鮮半島へ兵を送ることはなかった。

逆に言えば、新羅によって日本の勢力は

朝鮮半島から完全に駆逐(くちく)された。

それが歴史上の事実だ。

しかし、「日本書紀」では

逆に新羅王が神功皇后に土下座して

命乞いをして日本への服属を誓った、ということになっている。

 

日本もかつては中国の皇帝に朝貢して

「倭(わ)国王」などという称号をもらって喜んでいた。

国王とは中国皇帝の臣下を示す称号である。

しかし、天皇という称号を名乗ることによって独立した。

もし中国が

「おまえの国は昔、われわれの皇帝に朝貢していたではないか。

だから日本は中国の属国だ」

などと言ったとしたら

それは不当ないいがかりである。

 

それゆえに朝鮮半島の国家に対し

「おまえの国は、新羅の時に

わが神功皇后に対し降伏し服属を誓ったではないか。

だからおまえの国は日本の属国に過ぎない」

などと言うのは、中国が日本に対して言うよりも

はるかに不当な言いがかりである。

 

白村江の戦い、その敗戦を忘れてはいけない。

皮肉なことに新羅はその後、新羅王ではなく新羅国王つまり

中国皇帝の臣下である道を選んだのだが

そのことも含めて考えれば、日本は新羅に対して何の権利も持っていない。

もちろん朝鮮半島全体に対しても同じことだ。

たとえ「三韓征伐」が事実であったとしても、これは変わらない。

 

ところが、「朝鮮半島は本来日本の領土である」という主張が

明治以降の日本では歴史上の真実として語られ

今回私が述べたような異論は語ることも許されなかった。

理由は簡単で、天皇の絶対的神格化によって

本来は政治プロパガンダ的な歴史書であったものが

「聖典」になってしまったからだ。

 

「聖典」とは一字一句が神の言葉であり、神の業績を記したものだ。

つまり「絶対に正しい」ものなのである。

その「聖典」によれば

「神功皇后(じんぐうこうごう)に対し新羅王は

土下座して服属を誓い、百済、高句麗の王もこれにならった」

つまり、この時から

「朝鮮半島は日本の固有の領土だ」ということになる。

 

幕末の人々も明治の人々も「朝鮮半島は日本のものだ」

という「神話」を事実として軍事や外交を進めて行った。

教育もこの路線で行われた。

冷静なリアリストである勝海舟のように

朝鮮の独立をきちんと認めて中国、朝鮮、日本の三国で

西洋列強の脅威に対抗していこうという路線を唱える者もいたが

むしろ朝鮮は日本の領土に組み込むべきだという多数派の主張に押し切られた。

「聖典」というものは、それぐらい恐ろしいものなのである。

 

 

西洋社会においてユダヤ人は

「キリスト殺しの極悪人」とされた。

何百年たっても

「その血の責任(イエスを処刑することの責任)は我々と子孫に(も)ある」

と「聖典」に書いてあるのだから、子供に至るまで差別の対象となった。

イギリス、フランス、ドイツ、ロシア

そしてヨーロッパのすべての国では国民の大部分がキリスト教徒だ。

だからユダヤ人は徹底的に差別された。

アメリカでも同じことが起こった。

 

そして、私見を述べるならば

私はユダヤ人はこんなことは言わなかったと思う。

彼等がイエスを「悪人」として憎んでいたことは事実かもしれない。

しかし「その責任は子孫にも及ぶ」などということを

人の親が口にするわけがないではないか。

子供や孫を巻き込むことはない。

 

おそらくこの文言は

聖書が作成された当時の編集者の偏見によるものだろう。

しかし、500年前のヨーロッパでは

そんなことは口にすることさえできなかった。

「聖典の言葉はすべて正しい」からである。

そして21世紀になっても、カトリック教会は

明らかにこの部分がユダヤ人差別の根源であることを

認識しているが「第25節削除」はしていない。

「聖典の言葉はすべて正しい」からである。

 

「恐ろしい」という意味がおわかり頂けただろうか。

しかし、それほどの「絶対力」を持つ信仰でなければ

万人平等そして民主主義を生み出すことができないのも

冷厳な事実なのである。