天然記録 -76ページ目

 

↑より抜粋

 

この章の目的はいわゆる「戦前の日本」つまり

大日本帝国が欧米列強と戦える国家になるために

思想・教育の分野でいかなる「改革」をしたかを

分析検討することであり、すでに仏教については分析した。

しかし、それだけでは不十分だ。

鴻雪爪(おおとりせっそう)の言う

「内教(ないきょう)」は仏教と神道(しんとう)だからだ。

 

そして、大日本帝国は

神道を国家神道に改変したというのが

常識となっている。

 

「国家神道」という言葉が一般的になったのは

何といっても歴史学者村上重良(しげよし)が

同名タイトルの「国家神道」という本を世に問うてからだろう。

その定義は村上重良自身が

百科事典の項目執筆者として書いているとおり

「近代天皇制国家が政策的につくりだした事実上の国家宗教。

神社神道を一元的に再編成し

皇室神道と結び付けた祭祀(さいし)中心の宗教」で

「非宗教、超宗教の国家祭祀とされた」ものである。

 

しかし、とくに最近の若いヒトは知らないようだが

戦前つまり明治維新から昭和20年(1945)の敗戦まで

大日本帝国にあった「国家の宗教体制」は

じつは国家神道と呼ばれていなかったし

そもそも「国家神道」という言葉自体

一般的な日本語として存在すらしていなかった。

ではいつから存在するようになったかと言えば

まさに昭和20年、アメリカ(正式には連合国)

の占領下に入ってからなのである。

 

注意すべきは

日本いや戦前の大日本帝国と大戦争し原爆使用によって

ようやく勝利を収めたアメリカ合衆国の研究者らによって

この言葉は造られたということだ。

もちろんアメリカ人だから

日本の歴史に詳しくないなどと言うつもりはない。

優れた研究者も大勢いるし、それは偏見というものだろう。

しかし近代の戦争というものは軍事面にとどまらず

宣伝戦でもあり、イデオロギーの戦いでもある。

そうした国家戦略の観点から歴史が歪められることは珍しくない。

現代の日本でも中国あるいは韓国との関係にそれがある

と私は考えている。

ましてや戦争、つまり直前まで殺し合いをした相手の「定義」なのである。

ちなみに、今では当たり前のように使われており

「天皇制」という言葉も明治には存在せず

その体制を表現しようとすれば「国体」を使うしかなかった。

その状態から「天皇制」という言葉が生まれたのは、もちろん理由がある。

 

天皇制:天皇が君主として国家を統治する体制。

明治以降から第二次世界大戦の終戦に至る明治憲法下での体制。

広義には、象徴天皇制を含めていることもある。

大正末期に、日本共産党がはじめて用いたといわれる。

 

おわかりだろう。

戦前「天皇制」という言葉を口にすることは、それ自体「批判」だったのだ。

だから、昭和20年夏に連合国のポツダム宣言を受諾するか否か揉めた中で

軍部が最後まで主張したのは

「天皇制の存続」などでは無く「国体の護持」であった。

 

いつだったか時代劇の職人のセリフに

「権利」という言葉が出てきて目をまわしたが

もちろん江戸時代にそんな言葉は存在しない。

職人(町人)は士農工商の中で

「工」という分(分際)を守らねばならず

「お上」に逆らうことなど絶対に許されない。

それとは異なり

国家は王侯貴族の独占物では無く国民全体のものだ

という思想が生まれてこそ国家は国民の

「権利」を守らねばならないという発想が出てくる。

だから幕末まで日本語に「権利」は存在しなかった。

そこで先人は「right」という英語を

苦心惨憺(さんたん)して「権利」と訳したのである。

正確な用語を用いるのは正確な歴史認識のためにはぜひとも必要なことだ。

 

確かに「天皇制」という言葉が現代では「悪口」で無く

用語として定着したように

そうした言葉を用いた方が便利な場合も少なからずあるが

何度も言うように

「当時の人々の気分になって考える」ためには

このセンスは欠かせないものなのである。

では、そもそもアメリカ側の視点で見た

「国家神道」とは、さらに詳しく言えばどういうものなのか?

村上重良は次のように説明している。

 

明治維新にはじまる天皇絶対化は、帝国憲法の制定によって

ついに神聖不可侵な神としての天皇に到達した。

天皇の新たな属性として設定された神観念は

日本人の宗教を貫くシャマニズムに発する人神

生き神の観念とはかけはなれた、一神教的な神観念であり

ほとんどキリスト教の神観念に近いものであった。

天皇を絶対化して神とするという、近代天皇制国家の指導層の発想は

つよくキリスト教の影響を受けており

現人神となった天皇は、人間から隔絶した

絶対の真理と至高の道徳の体現者に仕立て上げられた。

 

つまり

「近代天皇制国家が政策的につくりだした事実上の国家宗教」は

天皇という「現人神(あらひとがみ)」を

キリスト教のように絶対的な信仰の対象としたと言うのである。

ちなみに、この宗教の特徴について村上は

 

「国家神道」において

「そのファナティック(狂信的)な復古の絶対化と排他性は

あきらかに神道の伝統とは異質であった」

 

と述べている。

この点についてはまったく賛成で、さらに私見を述べれば

その「熱狂的な復古主義」と「排他性」は

紛れも無く朱子学がもたらしたもので

従来の儒教を変質させたと同様に

日本の神道も変質させたということだろう。

 

本当にこの朱子という人物は後世に膨大な害毒を流した人物である。

昔「歴史if」の問題として

「朱子さえ歴史からいなくなれば東アジア世界はどんなに幸福だったか」

などと考えたこともあるが

よくよく考えてみれば本当に悪いのは

芸術や遊芸にうつつを抜かし国(北宋:ほくそう)を滅亡させた

「世紀のバカ殿」徽宗(きそう)皇帝であろう。

たとえ朱子が歴史からいなくなっても

徽宗が招いた靖康(せいこう)の変(1126年)以後の南宋は

必ず朱子のような哲学者を生んだに違いないからだ。

あくまで原因は徽宗で朱子は結果に過ぎないのである。

 

現代史を少しでもかじった人間なら

いやそれ以前に国民の常識として

「天皇は戦前現人神(あらひとがみ)であったが

戦後「人間宣言」をしてその信仰に終止符を打った」

という知識があるだろう。

つまり、その事実は逆に確かに戦前には

「現人神を信仰の対象とする国家神道」

なるものが存在した証拠だと多くの人は考えている。

 

ところが、ここ数年の間に、国家神道という用語は

戦前の状況を正確に表現したものでは無いし

現人神に対する絶対的な信仰など存在しなかった

などと主張する論者が現れた。

その主張はこの分野の第一人者である

新田均(にったひとし)皇學館(こうがっかん)大学教授の著した

『「現人神」「国家神道」という幻想』に詳しい。

 

世の中には新田の「皇學館大学教授」という肩書き

あるいは「神社新報社」という出版社名を見ただけで

「どうせ右翼だろう。天皇を擁護しようとする立場から

いい加減なことをデッチ上げているに違いない」

などと頭から偏見の目で見る人々がまだまだいるからである。

私の一方的偏見によれば、こういう見方をする人はいわゆる

「昭和一ケタ」生まれか、その世代に父母を持つ人

あるいは「昭和一ケタ」世代が書いた著作あるいは

主導した報道機関や教育機関に洗脳されてしまった人々である。

いや、じつは偏見というのは謙遜であって

これが真実だと私は確信している。

その証拠に国民作家司馬遼太郎も次のように言っている。

とくに「昭和一ケタ」の方にはぜひ読んで貰いたいので

少し長めに引用する。

 

たとえば、私は大正12年(1923)にうまれた。

「ボクの青少年期は、天皇ということはあまりいわれませんでしたよ」

と、昭和初年うまれの人に言っても

説明するのに大変な言語量が要る。

とくに、7、8歳あるいは10歳以下の昭和一ケタうまれの人たちに

そんなことを言うと、奇異な目でみられる。

齢の差はどれほどもないじゃないか、ということもあり

それにいまはともにジジイなのである。

ジジイ同士がたがいの小差を言いあうのも滑稽だが

じつは大差があるようで、昭和一ケタあたりにうまれた人達は

太平洋戦争が絶望的段階に入った昭和18年には

すでに中学生や女学生になっていただけに

精神の上で、最大の戦争被害者だったといっていい。

なにしろ、鋭敏な少年の感受性をもっている。

そういう少年たちが、天皇陛下のために

爆雷を抱いて敵の戦車にとびこめとか

竹ヤリでアメリカ兵を突き殺せなどといわれれば

それが絶対価値になってしまう。

それだけに、ゆりかえしもつよかったようだった。

私は、戦後、京都大学の担当記者になって

はじめてこの年齢層の人たちに大量にであったのだが

たとえば戦前史については“天皇制”というただ一点でとらえ

それをめぐっての賛否の論がはげしく、私などは見守るほかなかった。

ただ論者たちにとっての旧日本とは、明治以後でなく

少年期をすごした昭和18年ごろから敗戦までの

たった2、3年の陰惨な時代に代表されていた。

その時代の中学生にとって、「天皇」とは

畏敬(いけい)以上に恐怖の名称だったろう。

それは少年をして竹ヤリで敵兵を殺させ

少年もまた死ぬという存在だったのである。

 

ちなみに、「国家神道」の著者村上重良も

昭和一ケタ(昭和3年)の生まれである。

 

いわゆる戦後のマスコミ界、教育界、学界は

まさに司馬遼太郎が指摘しているように

「ゆりかえし」に毒された人々の天下であった。

若い人はご存じないかもしれないが

つい最近まで「岩波書店(あるいは朝日新聞)は

良心的な出版物や新聞を出しているが

皇學館とか神社新報社などは右翼の巣窟で悪である」

などという偏見を持つ人々が大勢いた。

私は著者が「昭和一ケタ」生まれで

刊行が朝日社か岩波書店だったらもうそれだけで

「この本はまたデタラメを書いているんだな」と思ってしまう。

もちろん偏見だ。

しかしそこで読むことを止めたら彼らと「同類」になってしまう。

中身はちゃんと読む。

ほとんどの場合失望するが「嘘のつき方」の勉強にはなるし(笑)

まれに「昭和一ケタにもちゃんとした人はいるんだな」と思うこともある。

しかし、歴史を執筆することが仕事でなかったら

おそらくそうした本は読まなかっただろう。

 

この文章を読んで「それは言い過ぎではないか」と思ったあなた。

第一章「近現代史を歪める人々」を読んで思い出してください。

日本の「良心的歴史学者」が書いた岩波新書の「昭和史」には

「朝鮮戦争は韓国の奇襲によって始まった」などという

デタラメの極致が書かれていたことを。

そして、その歴史学者は元軍人だから

常識的に考えたら到底犯すはずの無い「ミス」であったことを。

つまり、これはミスでは無くあきらかに捏造であったにもかかわらず

この人物はいまだに歴史学界で糾弾もされず

それどころか権威として認められていることを

どうか思い出していただきたい。

 

ちなみに韓国では、古文書のデータという客観的証拠から

「日本の植民地時代、韓国人はこれまで言われたほど

収奪(しゅうだつ)されていたわけでは無い」

という新説を出した専門学者が、その結論が

「親日的」であるという理由で徹底的にマスコミに批判された。

そんな批判をするくせに彼らは肝心のデータを見さえしなかった。

それが韓国の現状である。

日本も朝日新聞社、岩波書店が「良心的言論機関」として

昔のように力を持ち続けていたら、韓国のようになっていただろう。

いわゆる「従軍慰安婦問題」の発端となった「強制連行」について

デタラメの報道を何十年もタレ流していたのは

朝日新聞社であったことを考えるべきだろう。

 

アドルフ・ヒトラーにせよ、毛沢東にせよ

北朝鮮の金日成(キムイルソン)

正日(ジョンイル)、正恩(ジョンウン)らの

独裁ファミリーにせよ、一つの思想を強制し

人民をコントロールしようとする人間あるいは組織は

必ず「子供の教科書」から洗脳工作を始める。

幼いころから始めれば始めるほど、洗脳は効果があるからだ。

この見方に異論のある人間はいないだろう。

 

それゆえ、もし大日本帝国が

「現人神崇拝」を国民に強制することを意図していたのなら

当然歴史教科書や道徳の教科書に、天皇は現人神である

という記述が早くから登場するはずである。

考えてみれば、この教科書の分析および

各時代における比較検討は「国家神道」の著者である

村上重良あたりがすでに行なっているべきものなのだが

不思議なことに村上も村上説の継承者である学者たちも誰もやっていない。

平成になって新田均皇學館大学教授が初めて行なった。

盲点になっていたのである。

そして、読者も予想されるとおり、その結論は驚くべきものだった。

なんと現人神(現御神)という単語が

初めて初等教科書に登場するのは明治でも無く大正でも無く

昭和それも昭和16年になってからなのだ。

大正生まれの司馬遼太郎が

「ボクの青少年期は、天皇ということはあまりいわれませんでしたよ」

と言うはずである。

 

 

昭和16年、日本はアメリカとの大戦争に踏み切った。

一方で中国と大戦争しているのに、この上アメリカ

(正確には英米仏などの連合国)と大戦争したら勝てるわけがない。

しかし「アメリカと戦争したら負ける」とは誰も言えなかった。

「言えばそうなる」からである。

だからすでに述べたとおり

それに近いことを言った海軍大将山本五十六は命を狙われた。

一方で軍部もマスコミも冷静な判断は伝えずに

勝てる勝てると大合唱した。

その結果どうなったかはご存じのとおりである。

そして、これだけ痛い目に遭ったにもかかわらず

言霊信仰が日本人の深層心理にずっと残存しており

歴史的事象を動かしているという教育はまったくなされていない。

口幅ったい言い方で恐縮だが

そういうことを初めて日本史上本格的に指摘したのは私である。

 

言霊という信仰を、歴史教育の中できちんと学ばせない限り

こうしたミスは永遠に繰り返されるだろう。

 

 

江戸時代になると、とくに庶民の罪人の首を斬るのは

れっきとした武士のやるべきことでは無いという

「ケガレ忌避信仰」の公家文化に武士たちも染まってしまったのだ。

そして僧兵の武蔵坊弁慶の存在を見てもわかるように

自分たちを守るためには兵器で人を殺傷した仏教界も

こうした流れの中で公家化した。

家康が僧侶に本来の戒律を守らせたこと

5代将軍綱吉が出した生類憐みの令が

それに拍車をかけたのは言うまでも無い。

 

この法令は日本人に人命および

生命を尊重する感覚を植え付けたという効もあったが

それ以上に本来は朝廷側の文化であった「ケガレ忌避信仰」を

日本中に広めるという効果もあった。

そこで幕末だ。

外国人が大挙してやってきた。

とくにイギリスは容赦の無いやり方でアジア諸国を植民地化していく。

中国もやられた。次は日本の番だ。

この江戸時代の平和ボケで徹底的に緩んでしまった日本を

また軍事的に立て直す必要があると

明治のリーダーたちは考えたのである。

 

さて、「サムライの国」であるはずの日本だが

じつは同時に「平安貴族の国」でもあることが

おわかりいただけたと思う。

この文化的体質は遡れば「縄文文化(動物を殺す文化)」と

「弥生文化(植物で生きる、動物を殺さない文化)」

の対立まで行き着く。

世界に類を見ない、幕府と朝廷の

約700年にわたる併存も根底にはこれがある。

だから、明治は大変だった。

 

様々ないきさつで「弥生王」である天皇が

新生国家(大日本帝国)の中心となったからだ。

「動物を殺さず、軍事力をケガレとして蔑視する弥生王」が

国のリーダーとなって、戦争で国権を拡張している

欧米列強と戦わなくてはならなくなったからである。

そこで軍隊そのものの改革だけではダメで

リーダーも含めた精神の改革が必要となった。

武器がいかにリニューアルされても

それを使う人間に「戦う心」が無ければどうしようもない。

しかし、日本は江戸時代、恒久平和を目指した徳川家康と

その子孫が戦国の気風を一掃し

平和国家を建設することに成功していたので

それを「戦う国家」に変えることはますます困難であった。

 

幕末から明治にかけて国民の「戦う心」を

喚起し団結させたのは皮肉なことに朱子学であった。

皮肉と言うのは、これまで散々述べたとおり

朱子学は「亡国の哲学」であり、さらに独善的の権化であり

異民族や異文化に対してきわめて強い排他性を持っていたがゆえに

攘夷という「異国と戦う心」を日本民族に植え付ける効果はあった。

この点は朝鮮国、清国も同じだったのだが

科挙(朱子学試験)で官僚を選んでいた両国は

朱子学の独善性に支配され、近代化

(欧米列強に学ぶこと)ができずに亡国への道を歩むことになった。

 

日本もこのあたりで完全に朱子学と訣別すればよかったのだが

日本においては天皇の権威を保つためには

欠くことのできない神道と朱子学が

江戸時代に合体していたので捨てることもままならず

そのうちその「毒」が日本全体に回ってしまい

昭和20年(1945)の大破綻を招いたということだ。

だから司馬遼太郎が紹介しているように

敗戦のおり練達の中国学者が

「朱子学が国を滅ぼした」と言ったのである。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

↑より抜粋

 

現代日本の仏教界とくに現場では

妻帯問題の研究をいまだにタブー視する傾向がある。

私自身も、もう10数年前のことだが

ある仏教宗派の勉強会に呼ばれた時に

研究課題としてこの僧侶の妻帯問題を持ち出したところ

露骨に嫌な顔をされ宗門に対する嫌がらせのように受け取られた経験がある。

その時感じたのは現代の(当然、浄土真宗以外の)僧侶は

僧侶妻帯問題を明治以降の政府の政策による

なし崩し的な戒律破壊による悪影響と見ていることだった。

簡単に言えば政府の「仏教潰し」に

まんまとしてやられたという認識を持っているのである。

ところがこの認識は歴史的事実とはまったく違う。

それどころか、現代のほぼすべての仏教宗派が

妻帯を認めているという事実は、明治以降

彼らにとって先輩にあたる多くの僧侶が苦悶の末にたどり着いた

宗教的努力によるものであり、断じて単なる堕落によるものでは無い。

 

まず日本人の多くが誤解している歴史的事実がある。

それは近代以前それも江戸時代以前

妻帯を公認されていた浄土真宗以外でも

半ば公然と僧侶に妻帯のみならず

寺院の世襲相続さえ認められていたという事実である。

 

ではなぜ平安末期に僧侶の妻帯および世襲が一般化していたのか?

それは日本仏教が最澄以来戒律軽視の傾向があることに加え

平安時代に天皇を引退して上皇となり出家して法皇となった人々が

出家後に次々と子供を作ったからだ。

当初は「他の天皇・上皇の子供という体裁をとっていた」のに

そのうちにまったくはばからなくなった。

このあたり藤原摂関政治が終わり、法皇が権力の頂点に立つ院政の時代で

絶対的な権力を持っていた法皇たちは戒律を無視し

興福寺や延暦寺など朝廷と縁の深い寺院がそれにならった、ということだろう。

 

この傾向に歯止めをかけたのが

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康であった。

信長を中心とする武家勢力が

僧侶でありながら殺生戒(せっしょうかい)を犯す

仏教勢力つまり僧兵集団に強い反感を持っていたことは紛れも無い事実であり

そのことも含めて、平安時代以来ずっと蔑(ないがし)ろにされていた

仏教の戒律を復活させたのは僧侶では無く

政治家である彼らだったからである。

なぜ、そんなことをしたのかということはこの論文

「日本仏教における肉食妻帯問題について

  : その実態の歴史的変化と思想的特徴」

であまり深く探求されていないのだが

やはりそれは戦闘集団であった彼らを

本来の宗教団体に戻すためであっただろう。

そして、そうした傾向を大きく変換したのが明治新政府なのだが

それをアドバイスしたのは禅僧、鴻雪爪(おおとりせっそう)だと

この論文は指摘している。

 

雪爪によれば、政府が国是(こくぜ)を改革し

知識を広く求めて、欧米と交流しようとするなら

キリスト教を解禁するしかない。

文明開化の時代、欧米と交流する以上

彼らの宗教、文化も認めなければならないという。

一方、キリスト教の教えに頼って

民衆の心を掴もうとすると他国に侵略される。

キリスト教を解禁し、統制できなくなれば人心が動揺し

そこから内乱が始まる。そのため決して急いで解禁してはいけない。

時代の要求で日本は前と同じようにキリスト教を禁止するわけにはいかない。

「外教」とされるキリスト教を禁止するよりも

寧(むし)ろ「内教(ないきょう)」を盛んにするほうが急務である。

 

日本が伝統的にイメージするキリスト教とは

16世紀に日本にやって来たスペインやポルトガルを中心にする

戦闘的なキリスト教で、南米ではインカ帝国が彼らによって滅ぼされ

無理矢理キリスト教国に変えられてしまったことは歴史的事実である。

それから300年、キリスト教も大きく変わったが

それは情報としても実態としても鎖国体制の日本には伝えられていなかった。

しかもこの時代は欧米列強つまり白人キリスト教国による

世界植民地化が進められていた時代である。

そのことを考えれば雪爪の危惧は決して杞憂では無いことがわかるはずだ。

 

そこで雪爪は彼自身が内教と呼んだ

古来日本で信仰されてきた神道や仏教を強化することによって

欧米列強の侵略から日本を守ろうとしたのである。

この時代の日本人、とくに明治維新を遂行した日本人の脳裏には

常にアヘン戦争によって清国が完膚無きまでにやられたことへの恐怖があり

また黒船(に象徴される列強の軍事的優位)

に対する恐怖があったことを忘れてはならない。

 

雪爪は当時の新政府に絶大な信用を持つ宗教人であった。

だからこそ雪爪の建言(けんげん)に従って

「妻帯勝手」の太政官布告(だじょうかんふこく)が出されたわけだが

これを悪意に満ちた仏教潰しととらえた人々が仏教側に少なからずいた。

そして、それは決して曲解(きょっかい)

とは言えないのはすでに述べたとおりだ。

 

 

まず注目すべきは、雪爪は太政官布告133号の時点では

曹洞宗の僧侶であったにもかかわらず、その直後に還俗 (げんぞく) 

つまり、仏教側から見れば「妻帯解禁」という

絶妙な「仏教潰し」の一手を放った上で

仏教から神道に転じた「裏切り者」とも見えないこともない。

では、雪爪の真意はどこにあったのか?

それがわかりにくいのは他にも理由がある。

雪爪の著作は少なく、政府関係者に送った建白書

(けんぱくしょ)も残っていない。つまり史料が無いのだ。

そこで建白を受けた側の記録を見ると、直接それを受け

太政官布告133号を実現させた江藤新平によれば

雪爪は僧侶に肉食妻帯を禁じることは

「行ふべからざる法(そもそも守ることのできないルール)」

であって

それを強制することは「陽守陰犯」を招き

僧侶の堕落につながると考えていたという。

 

江戸時代、仏僧は特権階級であった。

税金は納める必要は無く、寺院は幕府という行政機関の下部組織であり

信徒は改宗を禁じられていたから僧侶はそれ以前の時代と比べて

信徒獲得競争からも解放された。

いわば檀家制度という「ぬるま湯」に浸かっていればよかったのだ。

 

(檀家制度とは、特定の寺院に属して葬儀や供養を任せる代わりに

お布施などによってその寺院を経済的に支援する制度です。

 もともとの始まりは江戸時代にまでさかのぼり

幕府がキリスト教を排除する目的で制定した

「寺請制度(てらうけせいど)」が由来であると言われています)
 

もっとも、これは仏教界だけでは無く、すべての階層に

徳川家康そして江戸幕府が強制したことであった。

身分を固定して無競争社会にするのが一番いいからだ。

また、それゆえに幕府は仏教界に「ぬるま湯」という

アメと同時に、戒律重視というムチも加えた。

本来は教団内のルールである

「妻帯(女犯)禁止」を国法での罪にすることだ。

そして、もう一つ江戸幕府が戒律重視を徹底したのは

僧兵集団が女犯戒と並んで不殺生戒

(人を殺してはならない)を守らなかったからだろう。

不殺生戒(ふせっしょうかい)を守れば戦闘集団にはなれない。

仏教軍団を完全に武装解除するためには

政治的に弾圧して反発を招くより、もともと仏教の根幹にある

不殺生戒を徹底させることがもっとも効果的である。

 

僧侶の妻帯解禁問題の陰には、不殺生戒についても

戦国時代に戻そうという考え方があったのではないかということだ。

ものすごく突飛に聞こえるかもしれない。

しかし歴史を山の上から下の川の流れを確かめるように見れば

このことは納得していただけると思う。

多くの日本史の専門学者も、私の知る限り

この点を見逃していることが非常に不満である。

 

無競争であるがゆえに非常に安定した社会を戦国時代と同じ

実力主義の戦闘優先の社会に切り替えなければならなくなった。

倒幕から明治にかけてである。

明治維新とは、アヘン戦争で亡国の危機に瀕した清国の二の舞を演じないよう

日本を欧米列強と戦える国家にしようという運動であった。

最初は攘夷(じょうい)というのがそのスローガンになった。

 (攘夷:外敵を撃ち払って入国させないこと。 外国人を

追い払って通交しないこと。 特に、幕末の外国人排斥運動をいう)

 

しかし、その攘夷の急先鋒(きゅうせんぽう)だった長州藩が

戦国時代の大砲で下関で欧米列強に戦いを挑み惨敗したことにより

そんなやり方では絶対勝てないことがわかった。

そう悟った人々が最後の勝者となり明治政府を作った。

その最大の目的は、日本を欧米列強の侵略に負けない強い国家とすることだ。

そのためには当然実力主義の競争社会にせねばならないし

また「士農工商」の別無く市民一人一人が国家のために戦う

まさに長州の奇兵隊のような軍隊優先の国にしなければならない。

江戸時代と正反対の国家を早急に作る必要があったのだ。

だから徳川家康と江戸幕府が行なってきた政策は

ことごとくひっくり返さなければならない。

家康のやったことは、日本を無競争社会にすることによって

平和を恒久化するというものだったからだ。

 

また江戸時代には一国平和主義が可能だったが

幕末にオランダ国王のウィレム2世が幕府に忠告してくれたように

蒸気船の発明以後それは過去のものとなった。

海に囲まれていたからこそ世界一安全な国だった日本だが

蒸気船(黒船)に帆船(はんせん)では絶対に搭載できない

巨大な砲で、国土をいなかる方向からも艦砲射撃で攻撃できる。

つまりここで日本は世界一危険な国に転落した。

そのことを日本人に思い知らせたのが

下関(馬関)戦争であり、薩英戦争だった。

雪爪はこの時代の人間だ。

松平春獄(しゅんがく)や木戸孝允(たかよし)や

江藤新平とも親しいから、もう小手先の攘夷では

どうしようもないことはわかっているし

彼自身も「外教であるキリスト教に対し内教

(神道・仏教)を強化しなければいけない」と言っている。

 

もう一度この時代の多くの日本人の脳裏に

どんな恐怖があったか思い出していただきたい。

そうすれば雪爪の行動とその意図が

史料など無くても手に取るようにわかるはずだ。

維新の志士が西洋の戦術や技術を研究したように

宗教家である雪爪はキリスト教のことを研究したはずだ。

キリスト教国家はなぜ強いのか?

その理由を知らなければ欧米列強には勝てないからである。

 

キリスト教という宗教もじつはもっとも基本的な戒律

「十戒(じっかい)」で「人を殺すこと」を禁じている。

しかし実際には欧米列強の国民たちはキリスト教徒でありながら

戦争の時は武器を取り母国のために戦っている。

「不殺生戒(ふせっしょうかい)」など無視していることになる。

もっとも完全な無視では無く、たとえばプロテスタントの国

アメリカには従軍牧師などがいて兵士の相談に乗ったり

葬祭を司ったり、いわば宗教の戦争協力体制が「見事に」整っている。

雪爪はそうした国家と戦うためには、日本の宗教も

不殺生戒を絶対に守るなどと言っていたら負けてしまう。

彼らに勝つため、少なくとも負けないためには

アメリカのような体制を整えなければならない

という思いがあったに違いない。

 

この段階で雪爪が仏教界に望んだのは

第一段階としての世俗化だったろう。

真宗化と言ってもいい。

浄土真宗のように公然と妻帯できるようになったほうが

欧米とくに英米型の市民社会に近づけると考えたのではないか。

とくに英米と言ったのは

アメリカは牧師が妻帯できるプロテスタント中心の国だし

イギリスもイギリス国教会(カトリックからの分派)が中心で

司祭の多くは妻帯できる体制だからだ。

一方、フランスはカトリックで神父が妻帯できない国がある。

「カトリック国よりプロテスタント国のほうが強い。

見習うべきは彼らの体制だ」だろう。

伊藤博文が大日本帝国憲法を作るにあたって

どこの国の憲法を参考にしたか

それはよく知られていることだから書くまでもあるまい。


(書いてほしい補足

草案作成の際、伊藤らは 君主の権力が強い ある外国の憲法を参考にしました。

 その国とは、ずばり ドイツ (プロイセン)ですね。

 ドイツの憲法は君主の力が強く保障されていたので

 天皇中心の国づくりを目指す日本にとって良いお手本 だったわけです)
 

欧米列強との不平等条約改正問題

欧米列強の代表とも言うべきイギリスが

不平等条約改正に応じたのは何がきっかけだったかご存じだろうか?

無論、悪名高き「鹿鳴館(ろくめいかん)外交」などでは無い。

イギリスが日本をきちんとした国家として認めたのは

大日本帝国憲法が制定された時でも無く

日本が日露戦争に勝った時だった。

イギリスは日本をそこで初めて「一人前」と認めたのだ。

日本人の大好きな「話し合い」つまり平和的な外交交渉では

100年かけても無理だったろう。

日本だけが他の道を行こうとしても

「文句があるなら戦争で決着をつけよう」というのが

国際ルールだったから、やはり軍事力を身につけなければ

文字どおり「話にならない」のである。

 

戦国時代の常識では、大名同士の縁組みも

国家戦略を念頭に分析しなければならない。

「世界戦国時代」も同じこと。

ずっと先の話になるが日本が韓国併合をした後に

日本の「王族」となった李垠(りぎん)殿下に嫁いだのは

皇族梨本宮(なしもとのみや)家出身の方子(まさこ)妃であった。

そして大正に入って東本願寺第24世大谷光暢

(おおたにこうちょう)法主に降嫁したのは

久邇宮智子(くにのみやさとこ)女王

つまり昭和天皇の妃である香淳(こうじゅん)皇后の妹であった。

昭和に入って天皇と本願寺法主は

相婿(あいむこ)つまり義兄弟の関係にあったということだ。

日本という国を消滅させないため、あらゆる分野で

あらゆる知恵を振り絞り体制を整えることが

黒船ショック以降の日本人の課題だったのだ。

 

話を明治初期の日本に戻そう。

 

僧侶の妻帯問題をきわめて前向きにとらえ

これを仏教改革の柱に据えたのが日蓮宗の

「行者(ぎょうじゃ)」とも言うべき田中智学(ちがく)であった。

行者と言うのは、彼は一度出家したものの

還俗(げんぞく)して在家の信者として生涯を過ごしたからだ。

後に日本の軍国主義のスローガンとされ

「侵略」を正当化したとされる「八紘一宇(はっこういちう)」

という用語も智学が作った。

 

八紘一宇とは

 

神武(じんむ)天皇が大和(やまと)橿原(かしはら)

に都を定めたときの神勅(しんちょく)に

「六合(くにのうち)を兼ねてもって都を開き

八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと

またよからずや」(日本書記)とある。

ここにあるのは「八紘為宇」という文字であるが

1940年(昭和15)8月

第二次近衛(このえ)内閣が基本国策要綱(ようこう)で

大東亜新秩序の建設をうたった際

「皇国の国是(こくぜ)は八紘を一字とする

肇国(ちょうこく)の大精神に基」づくと述べた。

これが「八紘一宇」という文字が公式に使われた最初である。

 

公式に使用されたのはここに書いてあるとおりだが

この「八紘為宇」から「八紘一宇」という

新語を造語したのはあくまで田中智学であった。

「日本の天皇を中心に世界が一家になる」ということだ。

わかりやすく言えば、法華経(妙法蓮華経)の根本精神である

「一天四海皆帰妙法(いってんしかいかいきみょうほう)」

の実現、つまりすべての人類が法華経に帰依(きえ)すれば

世界は平和になるという信仰に基づいたものであり

天皇がそのリーダーになるというものである。

 

もっとも、そういう見方に対する反論もある。

智学自身は「八紘一宇」が「日本軍国主義」の

スローガンにされるとは夢にも考えてなかったし

そもそも戦争自体に批判的であったというものだ。

確かにこのスローガンが公式なものとなった時には

智学はとうの昔にこの世を去っていたし

智学自身戦争には批判的であった。

しかし、戦争絶対反対論者では無い。

つまり理不尽な暴力に対する抵抗まで否定はしていないということだ。

これは一歩進めば戦争正当化につながる。

 

ところで、よくご存じのように仏教発祥の地である

インドでは仏教は一度滅びた。

考えてみれば不思議なことではないか。

これほど世界で多くの信者を獲得している宗教がなぜ

発祥の地のインドでは滅んでしまったのか?

それはやはりインド仏教つまり本来の釈迦の教えを伝える仏教は

どんな形でも「殺人」を肯定しなかったからではないかと

私は考えている。

あくまで仮説ではあるが、過去数年かけて釈迦誕生の地ネパール

仏教開眼の地インドの仏跡を巡っての感想はそれだ。

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

と「平家物語」は語る。

祇園精舎(きおんしょうじゃ)とは

古代インドのコーサラ国にあった仏教の寺院

(精舎:しょうじゃ)のことで

釈迦もしばしば説法したという由緒ある場所だ。

しかし、約1千年の後「西遊記」の三蔵法師のモデルとなった

玄奘(げんじょう)が訪ねた時には廃墟になっていた。

まさに「諸行無常」だ。

その玄奘が学んだナーランダ大学も今は建設跡が残るのみ。

すべての仏教、経典、文化財は

仏教を邪教とするイスラム教徒に徹底的に破壊された。

「僧兵」がいなかったからである。

インド仏教の流れを汲むチベット仏教のダライ・ラマ14世も

中国の侵略行為に対してあくまで非暴力による抗議の姿勢を貫いている。

大変素晴らしいことだが、これは現代社会だから通用する態度であって

帝国主義の時代だったら暗殺されていたかもしれない。

 

少し話は先走るが、日本のキリスト教徒の先駆けである

内村鑑三(かんぞう)は日露戦争には反対だったが

それに先立つ日清戦争には容認の姿勢をとった。

それに対して

「キリスト者ともあろう者が戦争を認めるとは何事だ」

という批判があるが、じつはそれは

「教育勅語(ちょくご)は国民を戦争に駆り立てる悪そのもの」

という批判と同じで、当時の歴史的状況をまったく理解していない

短絡的批判であることがわかるだろう。

 

 

イギリスが香港を奪った経緯は、貿易赤字を解消するために

中国にアヘンを売りつけ、当然の権利として怒った中国を

戦争で屈服させるという、弁護の余地も無い非道な行為ではあった。

しかし、その結果生まれた植民地支配が香港人という中国民族の中で

台湾人と並んでもっとも民主的な人々を生み出したことも事実である。

このように歴史上の出来事はそのほとんどが功罪を持つものであって

一方的に悪いと決めつけられることはほとんど無い。

一方的に決めつけるのでは無く

そうした功罪に留意することも歴史を見るコツの一つである。

 

歴史を見るもう一つのコツは

「当時の人々の気持ちになって考える」ことである。

しかしこれもきわめて難しい。

今と昔では常識がまったく違う場合があるからだ。

いつまでたっても近代化できない清国はこのあたりで

「東洋に主役の座」から降りるべきだ

それがアジア全体の利益になり欧米列強の植民地化にも

歯止めをかけられる、という思いが国民全体にあったのである。

(思い込みというべきかもしれないが)

そうした状況を無視して

「とにかくキリスト者なんだから戦争に反対しなかったのはおかしい」

などと批判すべきでない。

現代の日本と当時の日本では状況も常識もまるで違うのだから。

 

戦国の名将武田信玄が言っているように

「十分(じゅうぶ)の勝ち」(完勝)はよくない。

それは「驕(おご)り」と「怠(おこた)り」を生むからだ。

そして「驕り」が生じた軍は次の戦いで必ず敗れるのである。

昭和史を概観すれば武田信玄の「予言」どおりになっている。

帝国陸海軍はその後、とくに陸軍において

「天皇の軍隊だから負けるはずはない」という驕りを生み

その結果武器の近代化の遅れという「怠り」を生んだ。

 

つづく

 

 

↑より抜粋

 

ここで、新政府が神仏分離令以外にいかにして神社を重んじ

寺院を敵視する政策を取ったか、神社側の視点からまとめておこう。

そもそも1867年(慶応3)に

翌年の明治維新の大前提として発せられた王政復古の大号令が

「諸事神武創業のはじめにもとづき」何事も行なう

と宣言していることが、きわめて重要である。

これから為される新政策は、すべてを変革する「革命」では無く

関白とか征夷大将軍のような神武創業以後に設けられた制度等を

すべて白紙に戻す「維新」つまり現代風に言えば

コンピュータのリセットボタンを押すことであるというのが

明治維新の建前いや神学であった。

 

イギリスの植民地から独立したアメリカ合衆国が

「あらゆる人間は神の下に平等」という神学を持っていたように

幕末から明治にかけての日本人は

天皇家初代の神武天皇の権威という「神学」によって

新生日本をまとめようとしたのである。

江戸時代には日本という国には外敵がいなかった。

ところが幕末に欧米列強という強大なる敵が出現したため

それに対抗するため日本は民族団結の原理を必要とした。

この点、そもそも平和的融和的で

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の懐柔(かいじゅう)以来

きわめておとなしくなってしまった仏教は

民族団結の原理にはならない。

だから一部の為政者たちはこれを捨てようとした。

まさに廃物毀釈(はいぶつきしゃく)である。

 

一方、神道も本来は戦闘的では無いが

徳川家康の朱子学奨励以来融合が進み

朱子学が本来持っていた攘夷(外国敵視および蔑視)と

尊王(真の主君に対する忠義)の要素が入って

民族団結の原理にしやすい状況が生まれていた。

だから明治の指導者たちは国民統合の原理として天皇を選んだのだ。

もっとも、その結果、大日本帝国も朱子学の毒に冒され

きわめて独善的排他的な国家になってしまった。

 

それは後のことなので、話を明治元年(1868)に戻すと

前年に代表として

総裁(有栖川宮熾仁:ありすがわのみやたるひと親王)

議定:ぎじょう(仁和:にんな寺宮ら数名)

参与(岩倉具視ら数名)の三職(さんしょく)を定めていた新政府は

この年現在の「省」にあたる八局を設けたのだが

この中の一部局であった神祇(じんぎ)事務科が

その後の改変で太政官(行政機構)から独立し、神祇官となったのである。

そして、この神祇官が独立した1868年(明治元)3月14日に

あの「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布されている。

 

五箇条の御誓文は、明治天皇が開国近代化政策の完全履行を

皇祖皇宗(こうそこうそう)つまり始祖である天照大神

および初代神武(じんむ)天皇にお誓い申し上げるという形式である。

ここにおいて天皇家の祖先である天照大神と並んで

初代天皇である神武天皇の地位が高められたということだ。

また翌1869年(明治2)3月になると

明治天皇は初めて伊勢神宮に参拝している。

これ以前、全国神社の総元締めと言うべき神社は京都の吉田神社であった。

そもそも吉田神道(唯一神道)の発祥の地であり、江戸幕府によって

吉田家は日本全国の神社神職の任免権を持っていたのである。

 

ところがこの参拝により、吉田神社は地方の一神社に格下げされ

伊勢神宮が全国神社の第一位となり、しかも国家の宗廟(そうびょう)とされた。

宗廟というのは天皇家の祖先の霊が宿るところという意味である。

そして1871年(明治4)になると、伊勢神宮を筆頭に格付けされた

全国の官幣社(かんぺいしゃ)、国幣社(こくへいしゃ)、郷社(ごうしゃ)

村社(そんしゃ)などの祭祀(さいし)の費用が公費で賄われることが

太政官布告(だじょうかんふこく)で決められた。

ではこのような国家主導で決められた方針に反発抵抗した人間は

仏教側にはまったくいなかったのか?

もちろんそうではない。

 

 

また、日本古来の怨霊信仰に基づく廃仏毀釈への反発もあった。

仏像を破壊したり汚損させたりすれば

祟りがあるのではないかという「草の根」の反応である。

しかし、一方で「種痘(しゅとう)をすると牛になる」とか

「血税とは文字どおり血を国家に納めることだ」という

迷信が科学知識や教育の普及で解消されていく中

このような祟りを恐れる心情も旧時代の迷信として排除されていった。

もちろん、それは霊的なものに対する畏怖(いふ)が

日本人の心情の中から払拭されたということでは無い。

そういう畏怖の対象から仏教色の強いものは排除されたということで

この違いを認識することはきわめて重要である。

 

これらにも増して仏教側が政府の強力な攻撃

いや、巧妙な謀略として受け止めたのは

じつは1872年(明治5)4月25日に出された

太政官布告(だじょうかんふこく)第133号

「自今僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」であった。

江戸時代には、本願寺系の僧侶以外は固く禁じられていた肉食

(獣肉に限らず生き物を殺して食すこと、釣りなども含まれる)

妻帯(正式に妻を娶ること)、蓄髪:ちくはつ

(頭を剃らずに髪をのばすこと)を今後は「勝手」

つまり自由にやってよい、江戸幕府はとくに妻帯

(女犯:にょぼん)を法律で厳罰に処したが

明治新政府は一切干渉しない、ということなのである。

これをなぜ仏教教団潰しの陰謀と受け止める者が仏教側にいたのか

そして実際にそういう意味を持っていたのか

それを検討分析するためには

日本いや世界仏教史の概略を知る必要がある。

 

言うまでも無く今から約2千500年前

現在のネパール国の地でシャカ族の王子として生れた

ゴータマ・シッダッタつまり釈迦が始めた宗教である。

シャカ族の王子として何不自由無く生まれ

将来も約束されていた釈迦だったが

そのうちに人生というものが生老病死など

多くの苦しみに満ち満ちていることに気づき

その苦しみから逃れるために修行生活に入った。出家という。

地位も名誉も財産も妻子も全部捨てて

一重の衣をまとって、托鉢(たくはつ)で生きるのである。

(各戸で施与する米銭を鉄鉢で受けてまわること)

 

そして修行の末に釈迦が悟ったのは、人間の苦しみとは

生命、財産、妻子など様々な物事に執着することにあり

その執着を捨て去ることが、もっとも重要だということであった。

つまり人間は釈迦のように、すべてを捨てて修行生活に入るべきなのである。

欲望を肯定するから執着が起こり苦しむことになるということは

少なくとも悟りを求める修行者は財産や妻子など持ってはいけないことになる。

まさに妻(女)そして子供こそ人間(男子)を惑わせる執着の最たるものだからだ。

しかし釈迦の死後数百年経って

そうした釈迦の仏教に対する根本的な批判が始まった。

男子がすべて妻帯をやめれば社会は滅んでしまう。

また出家して悟りを求めるのは天才の道でもある。

それだけのことをやっても悟りを開けるのは

何億人に一人もいないかもしれないからだ。

 

そこで出家せずに家にとどまった在家信者を悟りの道に導く

新しい仏教を目指そうという革新運動が起こったのである。

それを始めた人たちは自らの仏教を大乗仏教と呼んだ。

悟りに導く大きなバスのような乗り物という意味であり

それに対して個人の悟り(救済)しか目指さない従来の仏教を

小乗(1人しか乗れない乗り物にたとえた)仏教とさげすんだ。

もちろん差別語だから現在はこの言葉を使わず

長老たちの仏教という意味で上座部(じょうざぶ)仏教などと呼ぶ。

部派仏教という言い方もある。

タイやベトナム、スリランカ等で今も信仰されているのはこのタイプの仏教である。

 

本来、大乗仏教は歴史上の実在人物である釈迦とは何の関係も無い。

その死後に生まれたものだからだ。

にもかかわらず大乗仏典には釈迦が登場し

「これまでの教えは方便(仮のもの)であった。

本当の教えはこれから私が説くものだ」と言う。

つまり大乗仏典の「釈迦如来」は歴史を超越した絶対的存在なのである。

では、出家も修行もせず、妻子を持ち家庭生活を営む普通の人間が

どうやって悟りを開くことができるのか。

まずそうして「凡夫(ぼんぷ)」(平凡な人間)でも必ず悟りを開き

仏になれるということを保証している経典がある。

それが通称「法華経(ほけきょう)」

正式名称は「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」である。

中国の高僧の天台大師智顗(ちぎ)が

この妙法蓮華経こそ大乗仏典(いわゆる「お経」)の

最上位に置くべきであるとして、これをもっとも重んじる宗派を開創した。

中国天台宗である。

 

その中国天台宗を平安時代初期に現地で学び

帰国後日本天台宗を開いたのが最澄(さいちょう)である。

最澄はこの天台法華宗を開創するにあたり

日本仏教にきわめて重要な変革を加えた。

それは、在家信者が出家して僧侶となる時に

より厳しい戒律を守り抜くことを誓願するのだが

それを菩薩戒(ぼさつかい)でよいとしたことである。

それまでの日本仏教での戒律とは

奈良時代に日本に招かれた中国僧鑑真(がんじん)がもたらした

具足戒(ぐそくかい)というきわめて厳しいものであった。

簡単に言えば具足戒とは、僧侶は在家とは違い厳しいルールを守らねばならず

妻帯どころか女性に触れることすら禁止するような戒律だが

むしろそれまでの仏教世界の常識であった。

ところが菩薩戒はこれも一言で言えば、どんな凡夫でも悟りを開けるという

法華経の教えに基づくもので、淫らな性行為はダメだが

女子との交流については寛容な部分がある。

これが日本天台宗の基本となったことは、後世に対する影響がきわめて大きかった。

 

最澄とともの唐に留学した空海(くうかい)

(弘法大師:こうぼうだいし)が伝えた密教は

その後密教の枠内での発展しかしなかったが

最澄が創立した比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で

学んだ僧侶たちは、法華経の教えに基づき

その教えの実現を求めて様々な宗派を開いたからである。

だが法華経には大きな欠点がある。

すべての人間は仏になれる(悟りを開ける)と保証していながら

では具体的に何をすればいいかということがまるで書いていないのだ。

その方法は各自が見つけなければいけない。

 

そこで法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)や一遍(いっぺん)は

釈迦如来の他の悟りを開いた存在である

阿弥陀如来(あみだにょらい)を

「一向(ひたむき)」に信仰することにした。

阿弥陀は48の誓いを立て、その中に凡夫でも自分を念仏すれば

必ず自分の支配する極楽浄土に往生(おうじょう)

つまり生まれ変わらせてやるという誓いを立てているからである。

このもっとも重要な誓いを本願(ほんがん)と言う。

言うまでもなく本願寺とは、その本願を信じる人々たちの宗教団体である。

この世で凡夫が修行して悟りを開くのは不可能だから

「先輩」である阿弥陀に頼るためその浄土に生まれ変わる。

そうすれば阿弥陀の指導のもとに悟りの道が開ける。

すなわち往生(極楽浄土への生まれ変わり)は

成仏(悟りを開いて仏に成る)を確定することになる。

しかも、往生するには念仏すればよい。

他ならぬ阿弥陀がそのことを「お経」の中で保証してくれているのだから

念仏さえすればどんな凡夫でも極楽往生して成仏できるというのが

鎌倉新仏教の浄土宗であり、浄土真宗であり時宗(じしゅう)であった。

 

一方、同じ鎌倉新仏教でも、本来釈迦は厳しい修行によって

悟りへの道を開いたのだからそれを見習って修行し瞑想し

具体的には達磨(だるま)大師のように座禅(ざぜん)することによって

悟りの道を求めるのが禅宗(ぜんしゅう)の立場で

これが栄西(えいさい)の臨済宗(りんざいしゅう)や

道元(どうげん)の曹洞宗(そうとうしゅう)になった。

 

これらの宗派に対する批判者が日蓮(にちれん)である。

日蓮の時代には鎌倉幕府は弱体化し平穏な時代では無かった。

その原因を日蓮は浄土宗や曹洞宗などの

「誤った仏教」の流行にあると考えた。

彼らは、本来もっとも大切な経典であるはずの

法華経をないがしろにしているからである。

法華経に帰るべきだ、というのが日蓮の主張であった。

しかし、最澄以来の天台法華宗のやり方では

膨大な漢文で書かれた法華経をまず読破せねばならず

そんなことは庶民には到底不可能である。

そこで日蓮は庶民にもわかりやすく

「妙法蓮華経」という「お経」を「信じます」

と宣言すれば法華経の功徳(くどく)を得られるとした。

 

具体的には「南無妙法蓮華経:なむみょうほうれんげきょう」

と言えば救われる。

確かに阿弥陀如来は「念仏すれば救ってやる」と言った。

仏のお言葉であるから多くの人が信じた。

しかし、「タイトルを言っただけで救われる」

と法華経に書いてあるわけでは無い。

それは日蓮の言葉である。

それを信じる人は法華経を信じると同時に

日蓮の言葉も仏の言葉のように信じているわけだ。

まさに「日蓮大菩薩」であり

日蓮は人間を超越した存在であり、信仰の対象でもある。

だから、浄土宗は法然宗とは言わないし

浄土真宗は親鸞宗、時宗は一遍宗

臨済宗は栄西宗、曹洞宗は道元宗とは言わない。

しかし、日蓮宗とは言うわけだ。

 

これをそれまでの法華信仰の本拠である比叡山延暦寺から見れば

日蓮は法華経の教えをねじ曲げた大悪人であり

日蓮宗は邪教であり、その信徒は皆殺しにしてもよいということになる。

だからこそ、天分法華(てんぶんほっけ)の乱において

天台宗は比叡山の僧兵を繰り出し、洛中(らくちゅう)の

日蓮宗寺院をすべて焼き討ちし信徒を虐殺したのだ。

宗教的原因による反対派の虐殺事件は

現代でもイスラム国などが行なっているところであるが

じつは日本でも昔は頻繁に行われてきたことなのだ。

宗派が同じでも、天台宗の山門(さんもん)派(延暦寺)と

寺門(じもん)派(三井寺:みいでら)の抗争のような「内ゲバ」も盛んだった。

 

とくに平安時代中期以降

「ケガレ忌避思想」の影響で朝廷が国軍を事実上廃止し

国家の治安が著しく乱れた時代に

地方に武士が発生し、寺院には僧兵集団が生まれたこと

同じく政府が弱体化した室町時代後期の戦国時代に

僧兵集団が鉄砲の採用などによって強化されたことは

日本史の特徴として、もう少し認識されていいと思う。

中世のキリスト教社会などと比較して見ればその違いは歴然としている。

神社にも神人(じにん)と呼ばれる専属兵士がいたのだが

寺院の僧兵に比べて影が薄いのは

やはり死穢(しえ)を嫌う神道勢力が

「葬礼」「医療」など死穢に触れる稼業を

伝統的に委任したことに由来するのだろう。

宗教でありながら、どこか血なまぐさいところが日本仏教にはある。

 

その僧兵の鎮圧に手を焼いた

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は

比叡山焼き討ち等の手段を用いて

仏教勢力の武装解除に成功するとともに

その強大なパワーを国家権力に取り込むために寺領を与え

檀家制度を設け、寺院をキリスト教監視所および

戸籍管理の下部機関として権力機構に組み込んだ。

一方で、家康そして徳川幕府は

僧侶の妻帯などは悪として国家の法律で取り締まった。

戦国時代の僧兵たちがまったく戒律を守らず

人を殺し女を犯す人々だった事実を頭に入れなければいけない。

そうした仏教勢力をおとなしくさせるために

彼らは「アメとムチ」を使ったのである。

 

しかし、さらに日本人をおとなしくさせるために

徳川家康が奨励した朱子学は神道と結びつき

「朱子学で言う絶対の王者とは天皇である。

従って天皇に従えばよいので幕府に逆らっても問題は無い」

という考えを日本人に定着させてしまった。

その結果、天皇絶対化とともに神道が力を持つようになり

逆に仏教はそもそも外来の宗教ではないかということで

軽んじる風潮が生まれ、徳川家にとっては神仏混淆

(しんぶつこんこう)の中では有力な神であった東照大権現

(家康)の権威が相対的に低下するという計算違いも出た。

 

以上のような日本仏教史の流れを頭に入れていただければ

新政府の神仏分離の方針が民間で拡大されて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

という運動になっていった理由も、割と楽に理解できるのではないか。

政府は開国した以上キリスト教を解禁せざるを得ない。

つまり、これからは「キリスト教監視所」も必要無いし

「幕府の下部機関としての戸籍管理所」もいらない。

だから寺領も与える必要は無いし、そもそも天皇の権威を高めるためには

菩提寺:ぼだいじ(京都泉涌寺:せんにゅうじ)もいらない。

戒名(かいみょう)を頂くことは天皇が仏戒(ぶっかい)を授かり

仏の弟子になったことになるので

天皇家は仏教と縁を切り葬祭は神道に統一されることになった。

寺院などますます必要無いということだ。

 

その上で先に述べた「肉食妻帯勝手」の太政官布告が出されたので

仏教界ではこれは破戒僧を増やし

仏教を滅亡に導く陰謀だと考える者もいたのである。

人間生きていく以上は「食い扶持」がいる。

経済的基盤と言ってもいい。

たとえ野獣であっても衣食住のうち

「食(エサ)」と「住(巣)」は必要であり

これが人間となるとアダムとイブ以来「衣」も必要だ。

裸で暮らすわけにはいかないからである。

ところが仏教では釈迦がそうしたように、物事への執着を絶つため

衣食住はできるだけ捨てて暮らすのがよいとされた。

すべてを捨てて出家した釈迦が着ていた一重の衣をパンスクーラと呼ぶ。

中国ではこれを糞掃衣(ふんぞうえ)と訳した。

「糞塵(ふんじん)中に捨てられた布を拾い集めてつくった」衣だからである。

 

では、食はどう確保するかと言えば基本は托鉢(たくはつ)による。

修行の一環として農作業などをすることもあるが

とくに釈迦の時代はこうした作業も在家のなりわいであり

(後に禅宗:ぜんしゅうでは作務「さむ」と呼んだ)

修行者はそうした社会的生産にできるだけかかわることなく

山野で修行生活を送らねばならないからだ。

在家を重んじる大乗仏教の時代になって

仏教団体は寺領のような形で国家から寄進を受けるようになり

経済的基盤は安定したが、それでも信者の修行者に対する

「食の寄進」である托鉢を受けることが重要な修行であることは変わりなかった。

ところが新政府は既存の寺院から寺領を没収し托鉢も禁止した。

先に述べたように鹿児島県では一時すべての僧侶が強制的に

還俗 (げんぞく) させられ、葬祭も神式で統一された。

下世話に言えば収入源の葬儀の「お布施」や

お盆の「読経(どきょう)料」lお墓の「供養料」も廃止させられた。

こうして仏教勢力の糧道(りょうどう)を断った上で

新政府は「僧侶は蓄髪(ちくはつ)してもいいし自由に結婚してもいい」

と布告したのである。

 

結婚していいということは子供も作っていいということであるが

僧侶としての経済的基盤は奪われている。

とくに鹿児島県では僧侶の身分すら奪われた上でのことだから

当然僧侶いや「元僧侶」は生きていくために

何か社会的な「正業」に従事せねばならない。

となれば今後僧侶は、僧形(そうぎょう)でも無く

妻子がいて普通の職業に就いている「タダの人」になってしまう。

明治維新の中心的勢力であった旧薩摩藩の鹿児島県では

この方針が徹底されたのだから仏教勢力としては

新政府がこの方針を全国に拡大するつもりであり

これを「仏教潰し」の陰謀ととらえたのである。

そこで浄土宗の行誡(ぎょうかい)、真言宗の釈雲照(しゃくうんしょう)

といった僧侶が抗議の声を上げた。

こうした抗議は廃仏毀釈に対する感情的な反発とは

まるで違うものであることはおわかりだろう。

むしろ、仏教側は仏教の教義に対する挑戦と考え

仏教語を使えば「明治の法難」とも言うべき事態だとみなしていたのである。

 

では、この問題は「被害者側」である彼らの見解が100%正しく

新政府の陰謀だと考えるべきなのか。

じつはそうとも言い切れないところに

この問題の複雑さ奥深さがある。

 

つづく

この本では琉球王の支配が悪いみたいな結末だけど

奴隷にしていたのは王ではなく薩摩人だったと思う

土地をサトウキビ畑に奪われ働かされ賃金は搾取され

自分たちの食べ物を作らせなかったので飢えた

奴隷解放といっても

日本国になってからの方が戦争で悲惨な目にあった沖縄人

つい最近までアメリカ軍に支配されていてパスポートが要った

今も米国人の犯罪は裁かれないという理不尽

 

 

↑より抜粋

 

1874年(明治7)大久保利通は、清国に琉球は日本領だと認めさせた。

こうして「外堀」も埋めていった日本はいよいよ仕上げに取りかかった。

「琉球藩」を廃止して沖縄県にすることである。

そこで日本政府は「琉球藩」の「王府」の役人たちに

再三廃藩に応じるように通達したが、彼らは一向に応じる気配が無かった。

なぜ「元琉球王府」の人々は日本政府の意向を拒んだのか。

そこには複雑な住民感情があった。

薩摩藩による征服後の琉球「王国」について

沖縄学の草分け的存在であるウチナンチュ(沖縄人)

伊波普猷(いはふゆう)は次のように述べている。

 

島津氏に征服されてから4、50年後の沖縄の弱り方は非常なものであって

士族は自暴自棄になって酒色に耽り、農民は疲弊して租税は納まらず

王府の財産は窮乏を告げ、社会の秩序は甚だしく乱れて

当時の政治家には

この難局をどう切り抜けていいのかわからなかったようである。

 

伊波はさらに、薩摩人は沖縄人が日本風に振る舞うと

もっと沖縄人らしくしろと言い、かと言って中国風にすると

中国人のまねをするなと文句を言う、とも言っている。

 

そのくせ自分に必要な時には、彼等の唐装束(からしょうぞく)をさせて

東海道五十三次を引きずりまわし

これが自分の付庸(ふよう)の民でござるといって

その虚栄心を満足させる道具に使ったりした。

だから当時の沖縄人は、日本人であるか、それとも支那人であるか

自分でもよくわからなくなっていたのである。

こういうように、彼等を曖昧な人民にして置くことが

その密貿易のためには、都合がよかったのである。

 

琉球人(沖縄人)のアイデンティティは混乱のきわみにあった。

しかし、尚(しょう)王家を中心とした

上流階級には中国に対する親近感が強くあった。

「密貿易のための都合」とは言え、琉球王は代替わりのたびに

清国皇帝からの国王任命の使者を受け中国風の拝礼をして就任していた。

その際、御礼の朝貢に対しては多大のお返しもあったろう。

年号も表向きは日本のものではなく清国のものを使用している。

確かに、言語は中国語とはまったく違うのだが

上流階級は中国留学組もあり中国名も持っている。

中流以下でも交流はあるので中国語を話せる人間は多い。

だから、ちょうど17世紀初頭の薩摩藩侵攻時のように

あの時は明国だったが、今度は清国に軍事援助を仰ぎ

日本の圧力をはねのけようと考えた人間も

上流階級には少なからずいたのである。

こうした親中国勢力を黒党と呼び

日本に従おうという人々を白党と呼んでいた。

 

こうした中、宮古島問題で清国から日本に

有利な回答を引き出した大久保は1874年(明治7)12月

「琉球処分」推進を建議し翌年には琉球藩高官3名を東京に招致し

いまだ実現していなかった尚泰(しょうたい)藩王の

上京を求めたが彼らの回答は曖昧であった。

そこで大久保の命を受けた内務大丞( ないむだいじょう)

松田道之が処分官に任命され彼らを道案内として琉球入りし

首里城で藩王代理の今帰仁王子(尚泰弟)に

清国への朝貢、冊封使(さくほうし)などの廃止

日本年号の使用、藩制の近代化を求めたが

琉球藩側では「朝貢廃止は忘恩行為になる」としてこれに難色を示した。

あくまで清国とのパイプを失いたくなかったのだ。

 

そこで日本政府は今度は三条実美(さねとみ)太政大臣の命令として

清国との交流停止を正式に通達した。

これも琉球藩が受け入れられないという態度を取る一方で

清国には密使を送り

「日本が貴国への朝貢を止めさせようとしている。

何とか日本に圧力をかけて、この動きを阻止していただきたい」

と訴えた。

ところが、清国は欧米列強の侵略を受け

それに対応するのに手一杯でとても琉球問題まで手が回らない。

黒党(親中派)が望んでいたのは、清国の軍事介入だったようだが

清国には到底そんな余裕は無い。

 

当時、日本は外交攻勢をかけ、有史以来初めて

「日本と中国は対等である」という日清修好条規の締結に成功していた。

1871年(明治4)のことで、これを西郷隆盛が絶賛していたことは

すでに「明治維新編」で述べたところだ。つまり

この時点で黒党が頼りにしていた華夷(かい)秩序は大きく崩れていた。

ならば、曖昧な回答を繰り返す琉球藩を

このまま放置すべきではないと日本政府は考えた。

1878年(明治11)に大久保は暗殺されたが

政府の方針は揺らぐこと無く、内務卿を引き継いだ伊藤博文の命により

松田が1879年(明治12)3月、警官約160名と陸軍熊本鎮台から

一個大隊約400名を伴い、首里城を接収し藩王家に廃藩置県

つまり琉球藩の廃止および沖縄県の設置を通達した。

そして、鍋島直彬(なべしまなおよし)を沖縄県令に任命。

旧藩主尚泰に東京移住を命じ、代わりに天皇の名で

土地邸宅と金禄公債証書20万円を下賜(かし)した。

これがいわゆる琉球処分である。

 

こうして琉球「王国」は日本国沖縄県となった。

幸い琉球がほとんど非武装状態だったので

流血の惨事だけは避けられたが、とにかく琉球人

それも上流階級の多くはこの琉球処分に大きく抵抗したことは間違いない。

つまり、日本が無理矢理それを断行したということだ。

ではそれは無理矢理やったことであるがゆえに

琉球人を無視した蛮行であったと言うべきなのか?

その評価について、伊波は次のように断じている。

 

著者は琉球処分が一種の奴隷解放だと思っている。

 

それは、この琉球処分によって上流階級は多くの特権を奪われたが

彼らに搾取されていた被支配階級

つまり圧倒的多数の庶民が近代国家の国民としての権利を

享受(きょうじゅ)できるようになったからであろう。

尚王家とそれを取り巻く黒党が望んだのは

清国と同じ朱子学を根本道徳とした身分制秩序に支えられた国家であった。

士農工商が基本であり、その身分の壁を乗り越えることは難しかった。

四民平等や男女を問わず国民のすべてが学校に行けること

それゆえ農民や商人の出身でも政治家になったり

高級軍人になれるような「野蛮な体制」になることは

何が何でも阻止しなければいけない。

伊波は「300年間奴隷制度に馴致(じゅんち)されていた沖縄人」

という表現を用いている。

「日本」でありながら、その政治的中枢は「中国」であった琉球。

当時の現状を端的に言えばまさにこうなる。

幕末から明治にかけての日本の近代化とはいったい何だったのか?

それも、もうおわかりだろう。

朱子学からの脱却、朱子学の払拭であった。

 

 

だが沖縄の黒党は何と1894年(明治27)

日本が清と日清戦争を戦うまでしぶとく粘り強く抵抗を続けていた。

沖縄では男子は結髪(けっぱつ)することになっていたが

明治政府は本土と同じく断髪令を施行した。

しかし、抵抗して結髪を続ける者もおり

そのほとんどが黒党支持者であった。

髪を結い、身分の高い者は冠をかぶるというのが中華風であり

琉球では冠を簡略化したハチマキを貴族や役人は身につけていたが

これも「旧来の陋習(ろうしゅう)」として明治政府は廃止した。

その明治政府のやることすべてを逆に「野蛮」だと考えていたのが黒党である。

そうした人々は子供を小学校にも行かせなかった。

学問をさせる必要が無いと思ったのではない。

そうでは無く、小学校で教えられているのが真の学問では無く

算数など「野蛮人の技芸」だからだ。

そして琉球処分から22年後に勃発した、日清戦争という中華(清国)と

野蛮(日本)の対決は沖縄の黒党と白党の争いを再燃させた。

伊波は、「沖縄歴史物語」において、次のように述べている。

 

首里三平等(みひら)の黒党は

毎月朔日(ついたち)と15日とには

百人御物参り(ももそおものまいり)と称して

神社仏閣に参詣し、旧藩主の健康と清国の勝利とを祈った。

知花朝章 (ちばなちょうしょう)は尚家の命を受けて

清国の事情視察のために、福建に脱走した。

その頃海底電信はなく、勝報も一週間後でなければ知れなかったので

船便で勝報が至るごとに「琉球新報」は号外を出したが

黒党の連中がこれを信じなかったのみか

真っ赤な嘘だと言いふらした。

方々の家庭でも、このことについて

父子兄弟の間に盛んに議論が闘わされた。

戦争は幸いに日本の勝利に帰し

お隣の台湾まで日本の領土となり

御用船等が那覇を経由として行くようになったので

黒党の連中も日本の勝利を信じないわけにはいかなくなった。

おまけに、講和談判後、清国から帰国した知花が

清国の内情を詳しく説明して以来

旧支配階級の気持ちがにわかに一変して

白党の数が激増し、児童の就学歩合も著しく増加した。

 

日本は黒船から明治維新まで10数年かかった。

沖縄は琉球処分から黒党根絶まで20余年を要した。

なぜ沖縄の方が時間がかかったのか。

それは中国との交わりが深く

朱子学中毒の度合いが日本よりひどかったからだ。

現実を直視することも、外国に学ぶこともできなかったのである。

それでも琉球「王国」は中国本土や朝鮮国よりははるかにマシであった。

江戸時代初期から実質的には日本であり

その分だけ完全な中国化、朱子学化を免れたからだ。

だからこそ白党も生まれたし力を持っていた。

 

しかし、科挙(かきょ)を実施していた清国は

その体制を唯一至上のものとして支持していた朝鮮国においては

黒党だらけで白党は存在し得ない。

これでは、絶対に近代化できないし、欧米列強やそれを見習って

「宗旨替え(しゅうしがえ)」した日本には勝てない。

日清戦争における日本の勝利がそれを実証する形になった。

台湾も日本領になった。

要するに日本国は自信を深め中国は自信を失った。

しかし、中国は基本的には儒教以外に国民統合の原理を持っていない。

日本のように気楽に朱子学など払拭すればいい、と言える立場では無いのだ。

一方、日本のほうも朱子学の悪影響を脱したつもりで

実は深いところでその中毒にかかっていた。

江戸時代、本来孔子孟子の儒教のように牧歌的な原理であった神道に

朱子学の要素を取り込んでしまっていたからである。

これが国家神道に発展する。

 

 

半藤一利(はんどうかずとし)の

「昭和史」はすでに名著として定評があるが

その最後に戦前の過ちを防ぐために留意すべき

「半藤五原則」と言うべきものが述べられている。

戦前(昭和20年以前)のような戦争また

戦争の時代を2度と繰り返さないための

著者が歴史の教訓として抽出したものである。

 

1・国民的熱狂をつくってはいけない。

  そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命である。

 

2・最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。

  それを警戒せよ。すなわちリアリズムに徹せよ。

 

3・日本型タコツボにおけるエリート小集団主義の弊害を常に心せよ。

 

4・国際的常識の欠如にたえず気を配るべし。

 

5・すぐに成果を求める急短兵(たんぺいきゅう)な発想をやめよ。

  ロングレンジ(長期的展望)のものの見方を心がけよ。

 

私は昭和史を一番歪めたのは言論の自由がなくなったことにあると思っています。

これが一番大事です。

あの時の反省から、言論は多様であればあるほど良いと思うのです。

 

この巻つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボンゴレロッソスープ

 
無料デザート

 
 
アイスとホット、ドリンクバー2杯