この本では琉球王の支配が悪いみたいな結末だけど
奴隷にしていたのは王ではなく薩摩人だったと思う
土地をサトウキビ畑に奪われ働かされ賃金は搾取され
自分たちの食べ物を作らせなかったので飢えた
奴隷解放といっても
日本国になってからの方が戦争で悲惨な目にあった沖縄人
つい最近までアメリカ軍に支配されていてパスポートが要った
今も米国人の犯罪は裁かれないという理不尽
↑より抜粋
1874年(明治7)大久保利通は、清国に琉球は日本領だと認めさせた。
こうして「外堀」も埋めていった日本はいよいよ仕上げに取りかかった。
「琉球藩」を廃止して沖縄県にすることである。
そこで日本政府は「琉球藩」の「王府」の役人たちに
再三廃藩に応じるように通達したが、彼らは一向に応じる気配が無かった。
なぜ「元琉球王府」の人々は日本政府の意向を拒んだのか。
そこには複雑な住民感情があった。
薩摩藩による征服後の琉球「王国」について
沖縄学の草分け的存在であるウチナンチュ(沖縄人)
伊波普猷(いはふゆう)は次のように述べている。
島津氏に征服されてから4、50年後の沖縄の弱り方は非常なものであって
士族は自暴自棄になって酒色に耽り、農民は疲弊して租税は納まらず
王府の財産は窮乏を告げ、社会の秩序は甚だしく乱れて
当時の政治家には
この難局をどう切り抜けていいのかわからなかったようである。
伊波はさらに、薩摩人は沖縄人が日本風に振る舞うと
もっと沖縄人らしくしろと言い、かと言って中国風にすると
中国人のまねをするなと文句を言う、とも言っている。
そのくせ自分に必要な時には、彼等の唐装束(からしょうぞく)をさせて
東海道五十三次を引きずりまわし
これが自分の付庸(ふよう)の民でござるといって
その虚栄心を満足させる道具に使ったりした。
だから当時の沖縄人は、日本人であるか、それとも支那人であるか
自分でもよくわからなくなっていたのである。
こういうように、彼等を曖昧な人民にして置くことが
その密貿易のためには、都合がよかったのである。
琉球人(沖縄人)のアイデンティティは混乱のきわみにあった。
しかし、尚(しょう)王家を中心とした
上流階級には中国に対する親近感が強くあった。
「密貿易のための都合」とは言え、琉球王は代替わりのたびに
清国皇帝からの国王任命の使者を受け中国風の拝礼をして就任していた。
その際、御礼の朝貢に対しては多大のお返しもあったろう。
年号も表向きは日本のものではなく清国のものを使用している。
確かに、言語は中国語とはまったく違うのだが
上流階級は中国留学組もあり中国名も持っている。
中流以下でも交流はあるので中国語を話せる人間は多い。
だから、ちょうど17世紀初頭の薩摩藩侵攻時のように
あの時は明国だったが、今度は清国に軍事援助を仰ぎ
日本の圧力をはねのけようと考えた人間も
上流階級には少なからずいたのである。
こうした親中国勢力を黒党と呼び
日本に従おうという人々を白党と呼んでいた。
こうした中、宮古島問題で清国から日本に
有利な回答を引き出した大久保は1874年(明治7)12月
「琉球処分」推進を建議し翌年には琉球藩高官3名を東京に招致し
いまだ実現していなかった尚泰(しょうたい)藩王の
上京を求めたが彼らの回答は曖昧であった。
そこで大久保の命を受けた内務大丞( ないむだいじょう)
松田道之が処分官に任命され彼らを道案内として琉球入りし
首里城で藩王代理の今帰仁王子(尚泰弟)に
清国への朝貢、冊封使(さくほうし)などの廃止
日本年号の使用、藩制の近代化を求めたが
琉球藩側では「朝貢廃止は忘恩行為になる」としてこれに難色を示した。
あくまで清国とのパイプを失いたくなかったのだ。
そこで日本政府は今度は三条実美(さねとみ)太政大臣の命令として
清国との交流停止を正式に通達した。
これも琉球藩が受け入れられないという態度を取る一方で
清国には密使を送り
「日本が貴国への朝貢を止めさせようとしている。
何とか日本に圧力をかけて、この動きを阻止していただきたい」
と訴えた。
ところが、清国は欧米列強の侵略を受け
それに対応するのに手一杯でとても琉球問題まで手が回らない。
黒党(親中派)が望んでいたのは、清国の軍事介入だったようだが
清国には到底そんな余裕は無い。
当時、日本は外交攻勢をかけ、有史以来初めて
「日本と中国は対等である」という日清修好条規の締結に成功していた。
1871年(明治4)のことで、これを西郷隆盛が絶賛していたことは
すでに「明治維新編」で述べたところだ。つまり
この時点で黒党が頼りにしていた華夷(かい)秩序は大きく崩れていた。
ならば、曖昧な回答を繰り返す琉球藩を
このまま放置すべきではないと日本政府は考えた。
1878年(明治11)に大久保は暗殺されたが
政府の方針は揺らぐこと無く、内務卿を引き継いだ伊藤博文の命により
松田が1879年(明治12)3月、警官約160名と陸軍熊本鎮台から
一個大隊約400名を伴い、首里城を接収し藩王家に廃藩置県
つまり琉球藩の廃止および沖縄県の設置を通達した。
そして、鍋島直彬(なべしまなおよし)を沖縄県令に任命。
旧藩主尚泰に東京移住を命じ、代わりに天皇の名で
土地邸宅と金禄公債証書20万円を下賜(かし)した。
これがいわゆる琉球処分である。
こうして琉球「王国」は日本国沖縄県となった。
幸い琉球がほとんど非武装状態だったので
流血の惨事だけは避けられたが、とにかく琉球人
それも上流階級の多くはこの琉球処分に大きく抵抗したことは間違いない。
つまり、日本が無理矢理それを断行したということだ。
ではそれは無理矢理やったことであるがゆえに
琉球人を無視した蛮行であったと言うべきなのか?
その評価について、伊波は次のように断じている。
著者は琉球処分が一種の奴隷解放だと思っている。
それは、この琉球処分によって上流階級は多くの特権を奪われたが
彼らに搾取されていた被支配階級
つまり圧倒的多数の庶民が近代国家の国民としての権利を
享受(きょうじゅ)できるようになったからであろう。
尚王家とそれを取り巻く黒党が望んだのは
清国と同じ朱子学を根本道徳とした身分制秩序に支えられた国家であった。
士農工商が基本であり、その身分の壁を乗り越えることは難しかった。
四民平等や男女を問わず国民のすべてが学校に行けること
それゆえ農民や商人の出身でも政治家になったり
高級軍人になれるような「野蛮な体制」になることは
何が何でも阻止しなければいけない。
伊波は「300年間奴隷制度に馴致(じゅんち)されていた沖縄人」
という表現を用いている。
「日本」でありながら、その政治的中枢は「中国」であった琉球。
当時の現状を端的に言えばまさにこうなる。
幕末から明治にかけての日本の近代化とはいったい何だったのか?
それも、もうおわかりだろう。
朱子学からの脱却、朱子学の払拭であった。
略
だが沖縄の黒党は何と1894年(明治27)
日本が清と日清戦争を戦うまでしぶとく粘り強く抵抗を続けていた。
沖縄では男子は結髪(けっぱつ)することになっていたが
明治政府は本土と同じく断髪令を施行した。
しかし、抵抗して結髪を続ける者もおり
そのほとんどが黒党支持者であった。
髪を結い、身分の高い者は冠をかぶるというのが中華風であり
琉球では冠を簡略化したハチマキを貴族や役人は身につけていたが
これも「旧来の陋習(ろうしゅう)」として明治政府は廃止した。
その明治政府のやることすべてを逆に「野蛮」だと考えていたのが黒党である。
そうした人々は子供を小学校にも行かせなかった。
学問をさせる必要が無いと思ったのではない。
そうでは無く、小学校で教えられているのが真の学問では無く
算数など「野蛮人の技芸」だからだ。
そして琉球処分から22年後に勃発した、日清戦争という中華(清国)と
野蛮(日本)の対決は沖縄の黒党と白党の争いを再燃させた。
伊波は、「沖縄歴史物語」において、次のように述べている。
首里三平等(みひら)の黒党は
毎月朔日(ついたち)と15日とには
百人御物参り(ももそおものまいり)と称して
神社仏閣に参詣し、旧藩主の健康と清国の勝利とを祈った。
知花朝章 (ちばなちょうしょう)は尚家の命を受けて
清国の事情視察のために、福建に脱走した。
その頃海底電信はなく、勝報も一週間後でなければ知れなかったので
船便で勝報が至るごとに「琉球新報」は号外を出したが
黒党の連中がこれを信じなかったのみか
真っ赤な嘘だと言いふらした。
方々の家庭でも、このことについて
父子兄弟の間に盛んに議論が闘わされた。
戦争は幸いに日本の勝利に帰し
お隣の台湾まで日本の領土となり
御用船等が那覇を経由として行くようになったので
黒党の連中も日本の勝利を信じないわけにはいかなくなった。
おまけに、講和談判後、清国から帰国した知花が
清国の内情を詳しく説明して以来
旧支配階級の気持ちがにわかに一変して
白党の数が激増し、児童の就学歩合も著しく増加した。
日本は黒船から明治維新まで10数年かかった。
沖縄は琉球処分から黒党根絶まで20余年を要した。
なぜ沖縄の方が時間がかかったのか。
それは中国との交わりが深く
朱子学中毒の度合いが日本よりひどかったからだ。
現実を直視することも、外国に学ぶこともできなかったのである。
それでも琉球「王国」は中国本土や朝鮮国よりははるかにマシであった。
江戸時代初期から実質的には日本であり
その分だけ完全な中国化、朱子学化を免れたからだ。
だからこそ白党も生まれたし力を持っていた。
しかし、科挙(かきょ)を実施していた清国は
その体制を唯一至上のものとして支持していた朝鮮国においては
黒党だらけで白党は存在し得ない。
これでは、絶対に近代化できないし、欧米列強やそれを見習って
「宗旨替え(しゅうしがえ)」した日本には勝てない。
日清戦争における日本の勝利がそれを実証する形になった。
台湾も日本領になった。
要するに日本国は自信を深め中国は自信を失った。
しかし、中国は基本的には儒教以外に国民統合の原理を持っていない。
日本のように気楽に朱子学など払拭すればいい、と言える立場では無いのだ。
一方、日本のほうも朱子学の悪影響を脱したつもりで
実は深いところでその中毒にかかっていた。
江戸時代、本来孔子孟子の儒教のように牧歌的な原理であった神道に
朱子学の要素を取り込んでしまっていたからである。
これが国家神道に発展する。
略
半藤一利(はんどうかずとし)の
「昭和史」はすでに名著として定評があるが
その最後に戦前の過ちを防ぐために留意すべき
「半藤五原則」と言うべきものが述べられている。
戦前(昭和20年以前)のような戦争また
戦争の時代を2度と繰り返さないための
著者が歴史の教訓として抽出したものである。
1・国民的熱狂をつくってはいけない。
そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命である。
2・最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。
それを警戒せよ。すなわちリアリズムに徹せよ。
3・日本型タコツボにおけるエリート小集団主義の弊害を常に心せよ。
4・国際的常識の欠如にたえず気を配るべし。
5・すぐに成果を求める急短兵(たんぺいきゅう)な発想をやめよ。
ロングレンジ(長期的展望)のものの見方を心がけよ。
私は昭和史を一番歪めたのは言論の自由がなくなったことにあると思っています。
これが一番大事です。
あの時の反省から、言論は多様であればあるほど良いと思うのです。
この巻つづく
日本には
— 比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん) (@fijabyron) March 13, 2022
出雲民族
熊襲民族
隼人民族
えみし民族
などの先住民族がいた。
が渡来人の大和民族が侵略し支配した。
そこに我々琉球民族やアイヌ民族が明治以降強制的に加えられた。
従って日本には最低でも7つの民族が住んでいる。
ただ上記歴史は全く共有されず、日本民族という幻想が現状。
純粋な日本人、または日本は単一民族国家って言うことが大きな問題なのは、日本は大和民族、琉球民族、アイヌ民族、そして移民の人々やその他の民族が混ざり合ったアイデンティティを持つ人たちが住む「多民族国家」であるにも関わらず、そういった言葉を使う事で他の人たちを見えなくするから。
— こあら@流刑後 (@koala_RI06) December 16, 2020
中曽根康弘は「病は気から」とどこで言ったか?広島の原爆症患者の特養ホームでだぜ。「日本に異民族はいない。単一民族でやってきた」も当日同じ場のモノ。当然、ホームに在日コリアンはいた。#中曽根の犯罪#中曽根だけは許さん
— 平沼センジ☭REDs (@senji11) November 29, 2019
これは縄文期に弥生人が渡来して、縄文人を追いやった時からミャクミャクと続いている、そして藤原勢が蝦夷を追いやり、薩長が会津(旧幕府)を徹底的に叩き、先の戦争で自国兵を特攻させ、無駄死にさせ、自決させ、国民のための政治をしない現政権はに至る、とにかく縄文の遺伝子を根絶やしにしたい。 https://t.co/GVzMuQ3mrN
— コロ助ちゃん (@fC62qgnYtIbRtmg) November 7, 2022
Y染色体DNA解析でも弥生人(純漢民族と純血朝鮮民族のミックス)日本列島を侵略してますわ笑 朝鮮半島から離れれば離れるほど縄文人の遺伝子が残っている…(画像引用元→ https://t.co/pKHw1QwkyD) pic.twitter.com/kvecjvBDji
— 式守さん (@SONYXperia1VII) November 7, 2022
アイヌ人も沖縄人も日本国より元々暮していた日本人です。縄文人からも同じ遺伝子が発見されています。パブロM7です。日本人の15%にその遺伝子を持つ方は沖縄県と北海道アイヌ人、縄文人です。弥生人に寄って北と南に逃げたのです。遺伝子は嘘をつきません。アイヌ人はロシア人では無いです。
— のんすけちゃん (@nonsuketyan) October 29, 2022
この要石の件で一番注目すべきは、「卑弥呼の後で程無く滅んだと思われる」呉系弥生人王朝の邪馬台国の「後の時代」に、鹿島で越系・縄文系合同で「ナマズ」がやり込められてるって部分。どんだけ嫌われてたんだよ、とも思うが、その「遷移と分布」の話
— ぱなすまきあ (@panasmakhia) February 20, 2022
中国では日本人は「呉の太白」の子孫だと思われてきた。紀元前12世紀に周王朝の皇子の太白が江南(長江流域)で建国したの呉。稲作の起源は江南。大陸文明は江南から日本に来た。弥生人は江南人。日本語には呉音の発音が多い。和服は呉にルーツがあるから呉服。神武天皇は太白の子孫という説もある。 pic.twitter.com/O7dXSJi1mt
— 野田草履Pの裏アカウント@誕生日2月16日 (@nodazourimune) May 14, 2021
2480年前頃呉と越の戦いで滅んだ呉の難民は日本に来て水耕稲作を伝え、やはり倭人と呼ばれていた?
— t.takano (@kumitaka2) May 21, 2022
中国南部からの難民が弥生人なら、それが大阪に行ったのであれば大阪人が丸顔で小柄と言うのも理解できます。
中国南部に下戸遺伝子が日本の近畿地方と同じ位分布している事とも矛盾しません。
ムーとアトランティスからの因縁
— コロ助ちゃん (@fC62qgnYtIbRtmg) September 28, 2022
ムー→縄文人(オリジナル人類、yap遺伝子)→純日本人
アトランティス→ユダヤ【古代ユダヤ→弥生人→現日本の支配層(李家等)、偽ユダヤ→アングロサクソン→現欧米支配層(ロック、ロス茶等、それより上の階層も)】
という構図ですかね https://t.co/NhEcWAlL6R







































