↑より抜粋
ここで、新政府が神仏分離令以外にいかにして神社を重んじ
寺院を敵視する政策を取ったか、神社側の視点からまとめておこう。
そもそも1867年(慶応3)に
翌年の明治維新の大前提として発せられた王政復古の大号令が
「諸事神武創業のはじめにもとづき」何事も行なう
と宣言していることが、きわめて重要である。
これから為される新政策は、すべてを変革する「革命」では無く
関白とか征夷大将軍のような神武創業以後に設けられた制度等を
すべて白紙に戻す「維新」つまり現代風に言えば
コンピュータのリセットボタンを押すことであるというのが
明治維新の建前いや神学であった。
イギリスの植民地から独立したアメリカ合衆国が
「あらゆる人間は神の下に平等」という神学を持っていたように
幕末から明治にかけての日本人は
天皇家初代の神武天皇の権威という「神学」によって
新生日本をまとめようとしたのである。
江戸時代には日本という国には外敵がいなかった。
ところが幕末に欧米列強という強大なる敵が出現したため
それに対抗するため日本は民族団結の原理を必要とした。
この点、そもそも平和的融和的で
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の懐柔(かいじゅう)以来
きわめておとなしくなってしまった仏教は
民族団結の原理にはならない。
だから一部の為政者たちはこれを捨てようとした。
まさに廃物毀釈(はいぶつきしゃく)である。
一方、神道も本来は戦闘的では無いが
徳川家康の朱子学奨励以来融合が進み
朱子学が本来持っていた攘夷(外国敵視および蔑視)と
尊王(真の主君に対する忠義)の要素が入って
民族団結の原理にしやすい状況が生まれていた。
だから明治の指導者たちは国民統合の原理として天皇を選んだのだ。
もっとも、その結果、大日本帝国も朱子学の毒に冒され
きわめて独善的排他的な国家になってしまった。
それは後のことなので、話を明治元年(1868)に戻すと
前年に代表として
総裁(有栖川宮熾仁:ありすがわのみやたるひと親王)
議定:ぎじょう(仁和:にんな寺宮ら数名)
参与(岩倉具視ら数名)の三職(さんしょく)を定めていた新政府は
この年現在の「省」にあたる八局を設けたのだが
この中の一部局であった神祇(じんぎ)事務科が
その後の改変で太政官(行政機構)から独立し、神祇官となったのである。
そして、この神祇官が独立した1868年(明治元)3月14日に
あの「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布されている。
五箇条の御誓文は、明治天皇が開国近代化政策の完全履行を
皇祖皇宗(こうそこうそう)つまり始祖である天照大神
および初代神武(じんむ)天皇にお誓い申し上げるという形式である。
ここにおいて天皇家の祖先である天照大神と並んで
初代天皇である神武天皇の地位が高められたということだ。
また翌1869年(明治2)3月になると
明治天皇は初めて伊勢神宮に参拝している。
これ以前、全国神社の総元締めと言うべき神社は京都の吉田神社であった。
そもそも吉田神道(唯一神道)の発祥の地であり、江戸幕府によって
吉田家は日本全国の神社神職の任免権を持っていたのである。
ところがこの参拝により、吉田神社は地方の一神社に格下げされ
伊勢神宮が全国神社の第一位となり、しかも国家の宗廟(そうびょう)とされた。
宗廟というのは天皇家の祖先の霊が宿るところという意味である。
そして1871年(明治4)になると、伊勢神宮を筆頭に格付けされた
全国の官幣社(かんぺいしゃ)、国幣社(こくへいしゃ)、郷社(ごうしゃ)
村社(そんしゃ)などの祭祀(さいし)の費用が公費で賄われることが
太政官布告(だじょうかんふこく)で決められた。
ではこのような国家主導で決められた方針に反発抵抗した人間は
仏教側にはまったくいなかったのか?
もちろんそうではない。
略
また、日本古来の怨霊信仰に基づく廃仏毀釈への反発もあった。
仏像を破壊したり汚損させたりすれば
祟りがあるのではないかという「草の根」の反応である。
しかし、一方で「種痘(しゅとう)をすると牛になる」とか
「血税とは文字どおり血を国家に納めることだ」という
迷信が科学知識や教育の普及で解消されていく中
このような祟りを恐れる心情も旧時代の迷信として排除されていった。
もちろん、それは霊的なものに対する畏怖(いふ)が
日本人の心情の中から払拭されたということでは無い。
そういう畏怖の対象から仏教色の強いものは排除されたということで
この違いを認識することはきわめて重要である。
これらにも増して仏教側が政府の強力な攻撃
いや、巧妙な謀略として受け止めたのは
じつは1872年(明治5)4月25日に出された
太政官布告(だじょうかんふこく)第133号
「自今僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」であった。
江戸時代には、本願寺系の僧侶以外は固く禁じられていた肉食
(獣肉に限らず生き物を殺して食すこと、釣りなども含まれる)
妻帯(正式に妻を娶ること)、蓄髪:ちくはつ
(頭を剃らずに髪をのばすこと)を今後は「勝手」
つまり自由にやってよい、江戸幕府はとくに妻帯
(女犯:にょぼん)を法律で厳罰に処したが
明治新政府は一切干渉しない、ということなのである。
これをなぜ仏教教団潰しの陰謀と受け止める者が仏教側にいたのか
そして実際にそういう意味を持っていたのか
それを検討分析するためには
日本いや世界仏教史の概略を知る必要がある。
言うまでも無く今から約2千500年前
現在のネパール国の地でシャカ族の王子として生れた
ゴータマ・シッダッタつまり釈迦が始めた宗教である。
シャカ族の王子として何不自由無く生まれ
将来も約束されていた釈迦だったが
そのうちに人生というものが生老病死など
多くの苦しみに満ち満ちていることに気づき
その苦しみから逃れるために修行生活に入った。出家という。
地位も名誉も財産も妻子も全部捨てて
一重の衣をまとって、托鉢(たくはつ)で生きるのである。
(各戸で施与する米銭を鉄鉢で受けてまわること)
そして修行の末に釈迦が悟ったのは、人間の苦しみとは
生命、財産、妻子など様々な物事に執着することにあり
その執着を捨て去ることが、もっとも重要だということであった。
つまり人間は釈迦のように、すべてを捨てて修行生活に入るべきなのである。
欲望を肯定するから執着が起こり苦しむことになるということは
少なくとも悟りを求める修行者は財産や妻子など持ってはいけないことになる。
まさに妻(女)そして子供こそ人間(男子)を惑わせる執着の最たるものだからだ。
しかし釈迦の死後数百年経って
そうした釈迦の仏教に対する根本的な批判が始まった。
男子がすべて妻帯をやめれば社会は滅んでしまう。
また出家して悟りを求めるのは天才の道でもある。
それだけのことをやっても悟りを開けるのは
何億人に一人もいないかもしれないからだ。
そこで出家せずに家にとどまった在家信者を悟りの道に導く
新しい仏教を目指そうという革新運動が起こったのである。
それを始めた人たちは自らの仏教を大乗仏教と呼んだ。
悟りに導く大きなバスのような乗り物という意味であり
それに対して個人の悟り(救済)しか目指さない従来の仏教を
小乗(1人しか乗れない乗り物にたとえた)仏教とさげすんだ。
もちろん差別語だから現在はこの言葉を使わず
長老たちの仏教という意味で上座部(じょうざぶ)仏教などと呼ぶ。
部派仏教という言い方もある。
タイやベトナム、スリランカ等で今も信仰されているのはこのタイプの仏教である。
本来、大乗仏教は歴史上の実在人物である釈迦とは何の関係も無い。
その死後に生まれたものだからだ。
にもかかわらず大乗仏典には釈迦が登場し
「これまでの教えは方便(仮のもの)であった。
本当の教えはこれから私が説くものだ」と言う。
つまり大乗仏典の「釈迦如来」は歴史を超越した絶対的存在なのである。
では、出家も修行もせず、妻子を持ち家庭生活を営む普通の人間が
どうやって悟りを開くことができるのか。
まずそうして「凡夫(ぼんぷ)」(平凡な人間)でも必ず悟りを開き
仏になれるということを保証している経典がある。
それが通称「法華経(ほけきょう)」
正式名称は「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」である。
中国の高僧の天台大師智顗(ちぎ)が
この妙法蓮華経こそ大乗仏典(いわゆる「お経」)の
最上位に置くべきであるとして、これをもっとも重んじる宗派を開創した。
中国天台宗である。
その中国天台宗を平安時代初期に現地で学び
帰国後日本天台宗を開いたのが最澄(さいちょう)である。
最澄はこの天台法華宗を開創するにあたり
日本仏教にきわめて重要な変革を加えた。
それは、在家信者が出家して僧侶となる時に
より厳しい戒律を守り抜くことを誓願するのだが
それを菩薩戒(ぼさつかい)でよいとしたことである。
それまでの日本仏教での戒律とは
奈良時代に日本に招かれた中国僧鑑真(がんじん)がもたらした
具足戒(ぐそくかい)というきわめて厳しいものであった。
簡単に言えば具足戒とは、僧侶は在家とは違い厳しいルールを守らねばならず
妻帯どころか女性に触れることすら禁止するような戒律だが
むしろそれまでの仏教世界の常識であった。
ところが菩薩戒はこれも一言で言えば、どんな凡夫でも悟りを開けるという
法華経の教えに基づくもので、淫らな性行為はダメだが
女子との交流については寛容な部分がある。
これが日本天台宗の基本となったことは、後世に対する影響がきわめて大きかった。
最澄とともの唐に留学した空海(くうかい)
(弘法大師:こうぼうだいし)が伝えた密教は
その後密教の枠内での発展しかしなかったが
最澄が創立した比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で
学んだ僧侶たちは、法華経の教えに基づき
その教えの実現を求めて様々な宗派を開いたからである。
だが法華経には大きな欠点がある。
すべての人間は仏になれる(悟りを開ける)と保証していながら
では具体的に何をすればいいかということがまるで書いていないのだ。
その方法は各自が見つけなければいけない。
そこで法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)や一遍(いっぺん)は
釈迦如来の他の悟りを開いた存在である
阿弥陀如来(あみだにょらい)を
「一向(ひたむき)」に信仰することにした。
阿弥陀は48の誓いを立て、その中に凡夫でも自分を念仏すれば
必ず自分の支配する極楽浄土に往生(おうじょう)
つまり生まれ変わらせてやるという誓いを立てているからである。
このもっとも重要な誓いを本願(ほんがん)と言う。
言うまでもなく本願寺とは、その本願を信じる人々たちの宗教団体である。
この世で凡夫が修行して悟りを開くのは不可能だから
「先輩」である阿弥陀に頼るためその浄土に生まれ変わる。
そうすれば阿弥陀の指導のもとに悟りの道が開ける。
すなわち往生(極楽浄土への生まれ変わり)は
成仏(悟りを開いて仏に成る)を確定することになる。
しかも、往生するには念仏すればよい。
他ならぬ阿弥陀がそのことを「お経」の中で保証してくれているのだから
念仏さえすればどんな凡夫でも極楽往生して成仏できるというのが
鎌倉新仏教の浄土宗であり、浄土真宗であり時宗(じしゅう)であった。
一方、同じ鎌倉新仏教でも、本来釈迦は厳しい修行によって
悟りへの道を開いたのだからそれを見習って修行し瞑想し
具体的には達磨(だるま)大師のように座禅(ざぜん)することによって
悟りの道を求めるのが禅宗(ぜんしゅう)の立場で
これが栄西(えいさい)の臨済宗(りんざいしゅう)や
道元(どうげん)の曹洞宗(そうとうしゅう)になった。
これらの宗派に対する批判者が日蓮(にちれん)である。
日蓮の時代には鎌倉幕府は弱体化し平穏な時代では無かった。
その原因を日蓮は浄土宗や曹洞宗などの
「誤った仏教」の流行にあると考えた。
彼らは、本来もっとも大切な経典であるはずの
法華経をないがしろにしているからである。
法華経に帰るべきだ、というのが日蓮の主張であった。
しかし、最澄以来の天台法華宗のやり方では
膨大な漢文で書かれた法華経をまず読破せねばならず
そんなことは庶民には到底不可能である。
そこで日蓮は庶民にもわかりやすく
「妙法蓮華経」という「お経」を「信じます」
と宣言すれば法華経の功徳(くどく)を得られるとした。
具体的には「南無妙法蓮華経:なむみょうほうれんげきょう」
と言えば救われる。
確かに阿弥陀如来は「念仏すれば救ってやる」と言った。
仏のお言葉であるから多くの人が信じた。
しかし、「タイトルを言っただけで救われる」
と法華経に書いてあるわけでは無い。
それは日蓮の言葉である。
それを信じる人は法華経を信じると同時に
日蓮の言葉も仏の言葉のように信じているわけだ。
まさに「日蓮大菩薩」であり
日蓮は人間を超越した存在であり、信仰の対象でもある。
だから、浄土宗は法然宗とは言わないし
浄土真宗は親鸞宗、時宗は一遍宗
臨済宗は栄西宗、曹洞宗は道元宗とは言わない。
しかし、日蓮宗とは言うわけだ。
これをそれまでの法華信仰の本拠である比叡山延暦寺から見れば
日蓮は法華経の教えをねじ曲げた大悪人であり
日蓮宗は邪教であり、その信徒は皆殺しにしてもよいということになる。
だからこそ、天分法華(てんぶんほっけ)の乱において
天台宗は比叡山の僧兵を繰り出し、洛中(らくちゅう)の
日蓮宗寺院をすべて焼き討ちし信徒を虐殺したのだ。
宗教的原因による反対派の虐殺事件は
現代でもイスラム国などが行なっているところであるが
じつは日本でも昔は頻繁に行われてきたことなのだ。
宗派が同じでも、天台宗の山門(さんもん)派(延暦寺)と
寺門(じもん)派(三井寺:みいでら)の抗争のような「内ゲバ」も盛んだった。
とくに平安時代中期以降
「ケガレ忌避思想」の影響で朝廷が国軍を事実上廃止し
国家の治安が著しく乱れた時代に
地方に武士が発生し、寺院には僧兵集団が生まれたこと
同じく政府が弱体化した室町時代後期の戦国時代に
僧兵集団が鉄砲の採用などによって強化されたことは
日本史の特徴として、もう少し認識されていいと思う。
中世のキリスト教社会などと比較して見ればその違いは歴然としている。
神社にも神人(じにん)と呼ばれる専属兵士がいたのだが
寺院の僧兵に比べて影が薄いのは
やはり死穢(しえ)を嫌う神道勢力が
「葬礼」「医療」など死穢に触れる稼業を
伝統的に委任したことに由来するのだろう。
宗教でありながら、どこか血なまぐさいところが日本仏教にはある。
その僧兵の鎮圧に手を焼いた
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は
比叡山焼き討ち等の手段を用いて
仏教勢力の武装解除に成功するとともに
その強大なパワーを国家権力に取り込むために寺領を与え
檀家制度を設け、寺院をキリスト教監視所および
戸籍管理の下部機関として権力機構に組み込んだ。
一方で、家康そして徳川幕府は
僧侶の妻帯などは悪として国家の法律で取り締まった。
戦国時代の僧兵たちがまったく戒律を守らず
人を殺し女を犯す人々だった事実を頭に入れなければいけない。
そうした仏教勢力をおとなしくさせるために
彼らは「アメとムチ」を使ったのである。
しかし、さらに日本人をおとなしくさせるために
徳川家康が奨励した朱子学は神道と結びつき
「朱子学で言う絶対の王者とは天皇である。
従って天皇に従えばよいので幕府に逆らっても問題は無い」
という考えを日本人に定着させてしまった。
その結果、天皇絶対化とともに神道が力を持つようになり
逆に仏教はそもそも外来の宗教ではないかということで
軽んじる風潮が生まれ、徳川家にとっては神仏混淆
(しんぶつこんこう)の中では有力な神であった東照大権現
(家康)の権威が相対的に低下するという計算違いも出た。
以上のような日本仏教史の流れを頭に入れていただければ
新政府の神仏分離の方針が民間で拡大されて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
という運動になっていった理由も、割と楽に理解できるのではないか。
政府は開国した以上キリスト教を解禁せざるを得ない。
つまり、これからは「キリスト教監視所」も必要無いし
「幕府の下部機関としての戸籍管理所」もいらない。
だから寺領も与える必要は無いし、そもそも天皇の権威を高めるためには
菩提寺:ぼだいじ(京都泉涌寺:せんにゅうじ)もいらない。
戒名(かいみょう)を頂くことは天皇が仏戒(ぶっかい)を授かり
仏の弟子になったことになるので
天皇家は仏教と縁を切り葬祭は神道に統一されることになった。
寺院などますます必要無いということだ。
その上で先に述べた「肉食妻帯勝手」の太政官布告が出されたので
仏教界ではこれは破戒僧を増やし
仏教を滅亡に導く陰謀だと考える者もいたのである。
人間生きていく以上は「食い扶持」がいる。
経済的基盤と言ってもいい。
たとえ野獣であっても衣食住のうち
「食(エサ)」と「住(巣)」は必要であり
これが人間となるとアダムとイブ以来「衣」も必要だ。
裸で暮らすわけにはいかないからである。
ところが仏教では釈迦がそうしたように、物事への執着を絶つため
衣食住はできるだけ捨てて暮らすのがよいとされた。
すべてを捨てて出家した釈迦が着ていた一重の衣をパンスクーラと呼ぶ。
中国ではこれを糞掃衣(ふんぞうえ)と訳した。
「糞塵(ふんじん)中に捨てられた布を拾い集めてつくった」衣だからである。
では、食はどう確保するかと言えば基本は托鉢(たくはつ)による。
修行の一環として農作業などをすることもあるが
とくに釈迦の時代はこうした作業も在家のなりわいであり
(後に禅宗:ぜんしゅうでは作務「さむ」と呼んだ)
修行者はそうした社会的生産にできるだけかかわることなく
山野で修行生活を送らねばならないからだ。
在家を重んじる大乗仏教の時代になって
仏教団体は寺領のような形で国家から寄進を受けるようになり
経済的基盤は安定したが、それでも信者の修行者に対する
「食の寄進」である托鉢を受けることが重要な修行であることは変わりなかった。
ところが新政府は既存の寺院から寺領を没収し托鉢も禁止した。
先に述べたように鹿児島県では一時すべての僧侶が強制的に
還俗 (げんぞく) させられ、葬祭も神式で統一された。
下世話に言えば収入源の葬儀の「お布施」や
お盆の「読経(どきょう)料」lお墓の「供養料」も廃止させられた。
こうして仏教勢力の糧道(りょうどう)を断った上で
新政府は「僧侶は蓄髪(ちくはつ)してもいいし自由に結婚してもいい」
と布告したのである。
結婚していいということは子供も作っていいということであるが
僧侶としての経済的基盤は奪われている。
とくに鹿児島県では僧侶の身分すら奪われた上でのことだから
当然僧侶いや「元僧侶」は生きていくために
何か社会的な「正業」に従事せねばならない。
となれば今後僧侶は、僧形(そうぎょう)でも無く
妻子がいて普通の職業に就いている「タダの人」になってしまう。
明治維新の中心的勢力であった旧薩摩藩の鹿児島県では
この方針が徹底されたのだから仏教勢力としては
新政府がこの方針を全国に拡大するつもりであり
これを「仏教潰し」の陰謀ととらえたのである。
そこで浄土宗の行誡(ぎょうかい)、真言宗の釈雲照(しゃくうんしょう)
といった僧侶が抗議の声を上げた。
こうした抗議は廃仏毀釈に対する感情的な反発とは
まるで違うものであることはおわかりだろう。
むしろ、仏教側は仏教の教義に対する挑戦と考え
仏教語を使えば「明治の法難」とも言うべき事態だとみなしていたのである。
では、この問題は「被害者側」である彼らの見解が100%正しく
新政府の陰謀だと考えるべきなのか。
じつはそうとも言い切れないところに
この問題の複雑さ奥深さがある。
つづく
