↑より抜粋

 

現代日本の仏教界とくに現場では

妻帯問題の研究をいまだにタブー視する傾向がある。

私自身も、もう10数年前のことだが

ある仏教宗派の勉強会に呼ばれた時に

研究課題としてこの僧侶の妻帯問題を持ち出したところ

露骨に嫌な顔をされ宗門に対する嫌がらせのように受け取られた経験がある。

その時感じたのは現代の(当然、浄土真宗以外の)僧侶は

僧侶妻帯問題を明治以降の政府の政策による

なし崩し的な戒律破壊による悪影響と見ていることだった。

簡単に言えば政府の「仏教潰し」に

まんまとしてやられたという認識を持っているのである。

ところがこの認識は歴史的事実とはまったく違う。

それどころか、現代のほぼすべての仏教宗派が

妻帯を認めているという事実は、明治以降

彼らにとって先輩にあたる多くの僧侶が苦悶の末にたどり着いた

宗教的努力によるものであり、断じて単なる堕落によるものでは無い。

 

まず日本人の多くが誤解している歴史的事実がある。

それは近代以前それも江戸時代以前

妻帯を公認されていた浄土真宗以外でも

半ば公然と僧侶に妻帯のみならず

寺院の世襲相続さえ認められていたという事実である。

 

ではなぜ平安末期に僧侶の妻帯および世襲が一般化していたのか?

それは日本仏教が最澄以来戒律軽視の傾向があることに加え

平安時代に天皇を引退して上皇となり出家して法皇となった人々が

出家後に次々と子供を作ったからだ。

当初は「他の天皇・上皇の子供という体裁をとっていた」のに

そのうちにまったくはばからなくなった。

このあたり藤原摂関政治が終わり、法皇が権力の頂点に立つ院政の時代で

絶対的な権力を持っていた法皇たちは戒律を無視し

興福寺や延暦寺など朝廷と縁の深い寺院がそれにならった、ということだろう。

 

この傾向に歯止めをかけたのが

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康であった。

信長を中心とする武家勢力が

僧侶でありながら殺生戒(せっしょうかい)を犯す

仏教勢力つまり僧兵集団に強い反感を持っていたことは紛れも無い事実であり

そのことも含めて、平安時代以来ずっと蔑(ないがし)ろにされていた

仏教の戒律を復活させたのは僧侶では無く

政治家である彼らだったからである。

なぜ、そんなことをしたのかということはこの論文

「日本仏教における肉食妻帯問題について

  : その実態の歴史的変化と思想的特徴」

であまり深く探求されていないのだが

やはりそれは戦闘集団であった彼らを

本来の宗教団体に戻すためであっただろう。

そして、そうした傾向を大きく変換したのが明治新政府なのだが

それをアドバイスしたのは禅僧、鴻雪爪(おおとりせっそう)だと

この論文は指摘している。

 

雪爪によれば、政府が国是(こくぜ)を改革し

知識を広く求めて、欧米と交流しようとするなら

キリスト教を解禁するしかない。

文明開化の時代、欧米と交流する以上

彼らの宗教、文化も認めなければならないという。

一方、キリスト教の教えに頼って

民衆の心を掴もうとすると他国に侵略される。

キリスト教を解禁し、統制できなくなれば人心が動揺し

そこから内乱が始まる。そのため決して急いで解禁してはいけない。

時代の要求で日本は前と同じようにキリスト教を禁止するわけにはいかない。

「外教」とされるキリスト教を禁止するよりも

寧(むし)ろ「内教(ないきょう)」を盛んにするほうが急務である。

 

日本が伝統的にイメージするキリスト教とは

16世紀に日本にやって来たスペインやポルトガルを中心にする

戦闘的なキリスト教で、南米ではインカ帝国が彼らによって滅ぼされ

無理矢理キリスト教国に変えられてしまったことは歴史的事実である。

それから300年、キリスト教も大きく変わったが

それは情報としても実態としても鎖国体制の日本には伝えられていなかった。

しかもこの時代は欧米列強つまり白人キリスト教国による

世界植民地化が進められていた時代である。

そのことを考えれば雪爪の危惧は決して杞憂では無いことがわかるはずだ。

 

そこで雪爪は彼自身が内教と呼んだ

古来日本で信仰されてきた神道や仏教を強化することによって

欧米列強の侵略から日本を守ろうとしたのである。

この時代の日本人、とくに明治維新を遂行した日本人の脳裏には

常にアヘン戦争によって清国が完膚無きまでにやられたことへの恐怖があり

また黒船(に象徴される列強の軍事的優位)

に対する恐怖があったことを忘れてはならない。

 

雪爪は当時の新政府に絶大な信用を持つ宗教人であった。

だからこそ雪爪の建言(けんげん)に従って

「妻帯勝手」の太政官布告(だじょうかんふこく)が出されたわけだが

これを悪意に満ちた仏教潰しととらえた人々が仏教側に少なからずいた。

そして、それは決して曲解(きょっかい)

とは言えないのはすでに述べたとおりだ。

 

 

まず注目すべきは、雪爪は太政官布告133号の時点では

曹洞宗の僧侶であったにもかかわらず、その直後に還俗 (げんぞく) 

つまり、仏教側から見れば「妻帯解禁」という

絶妙な「仏教潰し」の一手を放った上で

仏教から神道に転じた「裏切り者」とも見えないこともない。

では、雪爪の真意はどこにあったのか?

それがわかりにくいのは他にも理由がある。

雪爪の著作は少なく、政府関係者に送った建白書

(けんぱくしょ)も残っていない。つまり史料が無いのだ。

そこで建白を受けた側の記録を見ると、直接それを受け

太政官布告133号を実現させた江藤新平によれば

雪爪は僧侶に肉食妻帯を禁じることは

「行ふべからざる法(そもそも守ることのできないルール)」

であって

それを強制することは「陽守陰犯」を招き

僧侶の堕落につながると考えていたという。

 

江戸時代、仏僧は特権階級であった。

税金は納める必要は無く、寺院は幕府という行政機関の下部組織であり

信徒は改宗を禁じられていたから僧侶はそれ以前の時代と比べて

信徒獲得競争からも解放された。

いわば檀家制度という「ぬるま湯」に浸かっていればよかったのだ。

 

(檀家制度とは、特定の寺院に属して葬儀や供養を任せる代わりに

お布施などによってその寺院を経済的に支援する制度です。

 もともとの始まりは江戸時代にまでさかのぼり

幕府がキリスト教を排除する目的で制定した

「寺請制度(てらうけせいど)」が由来であると言われています)
 

もっとも、これは仏教界だけでは無く、すべての階層に

徳川家康そして江戸幕府が強制したことであった。

身分を固定して無競争社会にするのが一番いいからだ。

また、それゆえに幕府は仏教界に「ぬるま湯」という

アメと同時に、戒律重視というムチも加えた。

本来は教団内のルールである

「妻帯(女犯)禁止」を国法での罪にすることだ。

そして、もう一つ江戸幕府が戒律重視を徹底したのは

僧兵集団が女犯戒と並んで不殺生戒

(人を殺してはならない)を守らなかったからだろう。

不殺生戒(ふせっしょうかい)を守れば戦闘集団にはなれない。

仏教軍団を完全に武装解除するためには

政治的に弾圧して反発を招くより、もともと仏教の根幹にある

不殺生戒を徹底させることがもっとも効果的である。

 

僧侶の妻帯解禁問題の陰には、不殺生戒についても

戦国時代に戻そうという考え方があったのではないかということだ。

ものすごく突飛に聞こえるかもしれない。

しかし歴史を山の上から下の川の流れを確かめるように見れば

このことは納得していただけると思う。

多くの日本史の専門学者も、私の知る限り

この点を見逃していることが非常に不満である。

 

無競争であるがゆえに非常に安定した社会を戦国時代と同じ

実力主義の戦闘優先の社会に切り替えなければならなくなった。

倒幕から明治にかけてである。

明治維新とは、アヘン戦争で亡国の危機に瀕した清国の二の舞を演じないよう

日本を欧米列強と戦える国家にしようという運動であった。

最初は攘夷(じょうい)というのがそのスローガンになった。

 (攘夷:外敵を撃ち払って入国させないこと。 外国人を

追い払って通交しないこと。 特に、幕末の外国人排斥運動をいう)

 

しかし、その攘夷の急先鋒(きゅうせんぽう)だった長州藩が

戦国時代の大砲で下関で欧米列強に戦いを挑み惨敗したことにより

そんなやり方では絶対勝てないことがわかった。

そう悟った人々が最後の勝者となり明治政府を作った。

その最大の目的は、日本を欧米列強の侵略に負けない強い国家とすることだ。

そのためには当然実力主義の競争社会にせねばならないし

また「士農工商」の別無く市民一人一人が国家のために戦う

まさに長州の奇兵隊のような軍隊優先の国にしなければならない。

江戸時代と正反対の国家を早急に作る必要があったのだ。

だから徳川家康と江戸幕府が行なってきた政策は

ことごとくひっくり返さなければならない。

家康のやったことは、日本を無競争社会にすることによって

平和を恒久化するというものだったからだ。

 

また江戸時代には一国平和主義が可能だったが

幕末にオランダ国王のウィレム2世が幕府に忠告してくれたように

蒸気船の発明以後それは過去のものとなった。

海に囲まれていたからこそ世界一安全な国だった日本だが

蒸気船(黒船)に帆船(はんせん)では絶対に搭載できない

巨大な砲で、国土をいなかる方向からも艦砲射撃で攻撃できる。

つまりここで日本は世界一危険な国に転落した。

そのことを日本人に思い知らせたのが

下関(馬関)戦争であり、薩英戦争だった。

雪爪はこの時代の人間だ。

松平春獄(しゅんがく)や木戸孝允(たかよし)や

江藤新平とも親しいから、もう小手先の攘夷では

どうしようもないことはわかっているし

彼自身も「外教であるキリスト教に対し内教

(神道・仏教)を強化しなければいけない」と言っている。

 

もう一度この時代の多くの日本人の脳裏に

どんな恐怖があったか思い出していただきたい。

そうすれば雪爪の行動とその意図が

史料など無くても手に取るようにわかるはずだ。

維新の志士が西洋の戦術や技術を研究したように

宗教家である雪爪はキリスト教のことを研究したはずだ。

キリスト教国家はなぜ強いのか?

その理由を知らなければ欧米列強には勝てないからである。

 

キリスト教という宗教もじつはもっとも基本的な戒律

「十戒(じっかい)」で「人を殺すこと」を禁じている。

しかし実際には欧米列強の国民たちはキリスト教徒でありながら

戦争の時は武器を取り母国のために戦っている。

「不殺生戒(ふせっしょうかい)」など無視していることになる。

もっとも完全な無視では無く、たとえばプロテスタントの国

アメリカには従軍牧師などがいて兵士の相談に乗ったり

葬祭を司ったり、いわば宗教の戦争協力体制が「見事に」整っている。

雪爪はそうした国家と戦うためには、日本の宗教も

不殺生戒を絶対に守るなどと言っていたら負けてしまう。

彼らに勝つため、少なくとも負けないためには

アメリカのような体制を整えなければならない

という思いがあったに違いない。

 

この段階で雪爪が仏教界に望んだのは

第一段階としての世俗化だったろう。

真宗化と言ってもいい。

浄土真宗のように公然と妻帯できるようになったほうが

欧米とくに英米型の市民社会に近づけると考えたのではないか。

とくに英米と言ったのは

アメリカは牧師が妻帯できるプロテスタント中心の国だし

イギリスもイギリス国教会(カトリックからの分派)が中心で

司祭の多くは妻帯できる体制だからだ。

一方、フランスはカトリックで神父が妻帯できない国がある。

「カトリック国よりプロテスタント国のほうが強い。

見習うべきは彼らの体制だ」だろう。

伊藤博文が大日本帝国憲法を作るにあたって

どこの国の憲法を参考にしたか

それはよく知られていることだから書くまでもあるまい。


(書いてほしい補足

草案作成の際、伊藤らは 君主の権力が強い ある外国の憲法を参考にしました。

 その国とは、ずばり ドイツ (プロイセン)ですね。

 ドイツの憲法は君主の力が強く保障されていたので

 天皇中心の国づくりを目指す日本にとって良いお手本 だったわけです)
 

欧米列強との不平等条約改正問題

欧米列強の代表とも言うべきイギリスが

不平等条約改正に応じたのは何がきっかけだったかご存じだろうか?

無論、悪名高き「鹿鳴館(ろくめいかん)外交」などでは無い。

イギリスが日本をきちんとした国家として認めたのは

大日本帝国憲法が制定された時でも無く

日本が日露戦争に勝った時だった。

イギリスは日本をそこで初めて「一人前」と認めたのだ。

日本人の大好きな「話し合い」つまり平和的な外交交渉では

100年かけても無理だったろう。

日本だけが他の道を行こうとしても

「文句があるなら戦争で決着をつけよう」というのが

国際ルールだったから、やはり軍事力を身につけなければ

文字どおり「話にならない」のである。

 

戦国時代の常識では、大名同士の縁組みも

国家戦略を念頭に分析しなければならない。

「世界戦国時代」も同じこと。

ずっと先の話になるが日本が韓国併合をした後に

日本の「王族」となった李垠(りぎん)殿下に嫁いだのは

皇族梨本宮(なしもとのみや)家出身の方子(まさこ)妃であった。

そして大正に入って東本願寺第24世大谷光暢

(おおたにこうちょう)法主に降嫁したのは

久邇宮智子(くにのみやさとこ)女王

つまり昭和天皇の妃である香淳(こうじゅん)皇后の妹であった。

昭和に入って天皇と本願寺法主は

相婿(あいむこ)つまり義兄弟の関係にあったということだ。

日本という国を消滅させないため、あらゆる分野で

あらゆる知恵を振り絞り体制を整えることが

黒船ショック以降の日本人の課題だったのだ。

 

話を明治初期の日本に戻そう。

 

僧侶の妻帯問題をきわめて前向きにとらえ

これを仏教改革の柱に据えたのが日蓮宗の

「行者(ぎょうじゃ)」とも言うべき田中智学(ちがく)であった。

行者と言うのは、彼は一度出家したものの

還俗(げんぞく)して在家の信者として生涯を過ごしたからだ。

後に日本の軍国主義のスローガンとされ

「侵略」を正当化したとされる「八紘一宇(はっこういちう)」

という用語も智学が作った。

 

八紘一宇とは

 

神武(じんむ)天皇が大和(やまと)橿原(かしはら)

に都を定めたときの神勅(しんちょく)に

「六合(くにのうち)を兼ねてもって都を開き

八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと

またよからずや」(日本書記)とある。

ここにあるのは「八紘為宇」という文字であるが

1940年(昭和15)8月

第二次近衛(このえ)内閣が基本国策要綱(ようこう)で

大東亜新秩序の建設をうたった際

「皇国の国是(こくぜ)は八紘を一字とする

肇国(ちょうこく)の大精神に基」づくと述べた。

これが「八紘一宇」という文字が公式に使われた最初である。

 

公式に使用されたのはここに書いてあるとおりだが

この「八紘為宇」から「八紘一宇」という

新語を造語したのはあくまで田中智学であった。

「日本の天皇を中心に世界が一家になる」ということだ。

わかりやすく言えば、法華経(妙法蓮華経)の根本精神である

「一天四海皆帰妙法(いってんしかいかいきみょうほう)」

の実現、つまりすべての人類が法華経に帰依(きえ)すれば

世界は平和になるという信仰に基づいたものであり

天皇がそのリーダーになるというものである。

 

もっとも、そういう見方に対する反論もある。

智学自身は「八紘一宇」が「日本軍国主義」の

スローガンにされるとは夢にも考えてなかったし

そもそも戦争自体に批判的であったというものだ。

確かにこのスローガンが公式なものとなった時には

智学はとうの昔にこの世を去っていたし

智学自身戦争には批判的であった。

しかし、戦争絶対反対論者では無い。

つまり理不尽な暴力に対する抵抗まで否定はしていないということだ。

これは一歩進めば戦争正当化につながる。

 

ところで、よくご存じのように仏教発祥の地である

インドでは仏教は一度滅びた。

考えてみれば不思議なことではないか。

これほど世界で多くの信者を獲得している宗教がなぜ

発祥の地のインドでは滅んでしまったのか?

それはやはりインド仏教つまり本来の釈迦の教えを伝える仏教は

どんな形でも「殺人」を肯定しなかったからではないかと

私は考えている。

あくまで仮説ではあるが、過去数年かけて釈迦誕生の地ネパール

仏教開眼の地インドの仏跡を巡っての感想はそれだ。

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

と「平家物語」は語る。

祇園精舎(きおんしょうじゃ)とは

古代インドのコーサラ国にあった仏教の寺院

(精舎:しょうじゃ)のことで

釈迦もしばしば説法したという由緒ある場所だ。

しかし、約1千年の後「西遊記」の三蔵法師のモデルとなった

玄奘(げんじょう)が訪ねた時には廃墟になっていた。

まさに「諸行無常」だ。

その玄奘が学んだナーランダ大学も今は建設跡が残るのみ。

すべての仏教、経典、文化財は

仏教を邪教とするイスラム教徒に徹底的に破壊された。

「僧兵」がいなかったからである。

インド仏教の流れを汲むチベット仏教のダライ・ラマ14世も

中国の侵略行為に対してあくまで非暴力による抗議の姿勢を貫いている。

大変素晴らしいことだが、これは現代社会だから通用する態度であって

帝国主義の時代だったら暗殺されていたかもしれない。

 

少し話は先走るが、日本のキリスト教徒の先駆けである

内村鑑三(かんぞう)は日露戦争には反対だったが

それに先立つ日清戦争には容認の姿勢をとった。

それに対して

「キリスト者ともあろう者が戦争を認めるとは何事だ」

という批判があるが、じつはそれは

「教育勅語(ちょくご)は国民を戦争に駆り立てる悪そのもの」

という批判と同じで、当時の歴史的状況をまったく理解していない

短絡的批判であることがわかるだろう。

 

 

イギリスが香港を奪った経緯は、貿易赤字を解消するために

中国にアヘンを売りつけ、当然の権利として怒った中国を

戦争で屈服させるという、弁護の余地も無い非道な行為ではあった。

しかし、その結果生まれた植民地支配が香港人という中国民族の中で

台湾人と並んでもっとも民主的な人々を生み出したことも事実である。

このように歴史上の出来事はそのほとんどが功罪を持つものであって

一方的に悪いと決めつけられることはほとんど無い。

一方的に決めつけるのでは無く

そうした功罪に留意することも歴史を見るコツの一つである。

 

歴史を見るもう一つのコツは

「当時の人々の気持ちになって考える」ことである。

しかしこれもきわめて難しい。

今と昔では常識がまったく違う場合があるからだ。

いつまでたっても近代化できない清国はこのあたりで

「東洋に主役の座」から降りるべきだ

それがアジア全体の利益になり欧米列強の植民地化にも

歯止めをかけられる、という思いが国民全体にあったのである。

(思い込みというべきかもしれないが)

そうした状況を無視して

「とにかくキリスト者なんだから戦争に反対しなかったのはおかしい」

などと批判すべきでない。

現代の日本と当時の日本では状況も常識もまるで違うのだから。

 

戦国の名将武田信玄が言っているように

「十分(じゅうぶ)の勝ち」(完勝)はよくない。

それは「驕(おご)り」と「怠(おこた)り」を生むからだ。

そして「驕り」が生じた軍は次の戦いで必ず敗れるのである。

昭和史を概観すれば武田信玄の「予言」どおりになっている。

帝国陸海軍はその後、とくに陸軍において

「天皇の軍隊だから負けるはずはない」という驕りを生み

その結果武器の近代化の遅れという「怠り」を生んだ。

 

つづく