天然記録 -73ページ目
スフレリゾット&パンケーキ

 

 

 

 

 

 

 
違いが分からない女

 
 

 

2021年になっても

北朝鮮の脅威と戦う為の改憲を力説している著者…

今の戦争はミサイルや核で環境を汚染するので

その報復をやっても、お互い自滅だと思うんだけど

その後の事までは考えないの?

 

そもそもこの本で言う

日本が近代国家の仲間入りしなくても

今がもし100年前から

日本人が英語をしゃべる国なら

逆に勉強科目が減って便利で何も問題ない

日本語を残しているとしたら

この終末に日本語が暗号で

何か意図があると思う

ただ、教材が売れてお金になるのも狙い?

 

 

↑より抜粋

 

国民道徳協会の訳した

「教育勅語(ちょくご)現代語訳」の最大の問題点は

これを出したのが明治天皇で

にもかかわらず天皇の言葉であることが

今一つ不明瞭であることだ。

確かに原文も文中には「天皇」という言葉は無い。

あるのは「朕(ちん)」天皇の自称である。

これを「私」とし皇祖皇宗(こうそこうそう)を

「私達の祖先」とするのは

現代語訳としては一応問題無いし

タイトルに「教育勅語」とあるのだから

天皇の言葉であることは明瞭ではないか

と言えば確かにその通りである。

 

しかし、それではなぜ天皇が

「国民各々(おのおの)が

努力して自らを磨かねばならない」

とわざわざ言う必要があったのかわからない。

現代語訳は解説文では無いから

そこまで踏み込めないと言えばその通りなのだが

せめて訳文の中に

「天皇として私は」などと入れておけば

ここに語られている教育理念が

天皇の権威を源泉としたものであることが明確になる。

 

根本の問題は

「なぜ国民は勉強しなければならないか?」である。

その必要があってこそ国家は

教育制度を整える必要も出てくる。

すべての根本はここにある。

ほんの数十年前まで

「ウチの息子は職人になるんだから

学校なんか行かなくていい」

という親が存在した。

江戸時代ならもっといた。

寺子屋に通う子供も大勢いたが

それは主に町人の世界で

読み書きそろばんができた方が社会生活に有利だからだ。

百姓の息子は教育など受けなくても生きていけた。

要するに

士農工商のように身分が定まっている社会は

小中学校あるいは高校や大学など必要無い。

 

これに対して

たとえばフランスではキリスト教に基づく

平等思想が王制を打倒し共和国となった。

共和国になってみると

すべての国民は平等だということで

上流階級に独占されていた教育が一般にも開放された。

開放されてみると

人々は上流階級だけで教育を独占し

国民を愚かなままにしておくことも

支配の有力な手段であり

国民国家としてはむしろ

国民の教育を受ける権利を

大切にしていかねばならないと気がついた。

 

ドイツでも、近代化のきっかけは

マルチン・ルターの宗教改革

(ローマ法王庁への反抗)であり

具体的には聖書を

ラテン語からドイツ語に訳すことだった。

ドイツ人はそのドイツ語訳によって

ローマ法王庁の主張がいかにデタラメかを知った。

まさに「知は力なり」だ。

しかし、その力を身につけるにはやはり

ドイツ語の読み書きができなければならない。

できるだけ多くの人間がそれを知ることこそ

神の下の平等の達成につながる。

そのためには国民が誰でも学ぶことのできる

できれば無料の学校がいる。

義務教育という考え方は

西洋ではこういうところから出てきたのである。

 

かつて文字とは読めない人にとっては

「暗号」だったという事実を忘れてしまった。

詩人石川啄木は妻に読めないローマ字で

秘密を日記に書いたが、そういうことを

人類最大の規模でやっていたのがローマ法王庁であった。

そうした「機密ファイル」を

一般国民にも読めるようにしたのが宗教改革で

それを徹底させるためには

自国民の識字率を上げなければいけない。

だからこそ「小学校」という発想が出てきたのだ。

 

そして、こうした国民国家が一度成立してみると

そういう国家は発展しやすく

戦争にも強いということがわかった。

工業化一つ取ってみても

現場の労働者が算数ができる国とできない国の

どちらが有利かわかるだろう。

こうした欧米列強が

「近代化」できなかった国々を次々に自国領土とし

植民地にしていくなかで、遅ればせながら

近代化を達成しようとしたのが日本であり

その国家としてのグランドデザインを定めたのが

帝国憲法であり、皇室典範だった。

 

しかし

法律で国民が教育を受ける権利を保証しても

肝心の国民が

「ウチの息子は職人になるんだから

学校なんか行かなくてもいい」

という態度では

いつまでたっても欧米列強には追いつけない。

法律で「そうしろ」などと命じても

長年の伝統は変えられない。

 

だが、日本には「切り札」があった。

もちろん天皇である。

「天皇絶対」というのは

帝国憲法が作った概念では無い。

憲法はそれを追認強化しただけだ。

これは江戸時代以来、吉田松陰らを経て

日本人の心のなかに確立していた信仰なのである。

ならば、その「絶対者の命令」いや

「おさとし」として「国民よ、勉学するのだぞ」

と、国民にメッセージを与えればいい。

それが教育勅語なのである。

 

また、この現代語訳の批判者が一番問題にするのは

「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて

国の平和と安全に奉仕しなければなりません」

というくだりのようだ。

ここの原文を直訳すれば

「有事の際、国民は必ず国家のために馳せ参じ

天皇家のために戦わねばならない」となる。

 

つまり、批判者たちは

「天皇家の擁護」と書いてあるのを

「国の平和と安全」に書き換えたと批判しているわけだ。

ただ、ここから先がわからない。

「だから教育勅語は

現代の教育方針として使用すべきではない」

と言うなら私も賛成する。

確かに「使える」部分も無いとは言わないが

現代の日本国にはこの文言はそぐわないだろう。

しかし、そもそも「国の平和と安全」で無く

「天皇の擁護」を強調しているのが問題で

制定当初からこんなものは価値が無いと

決めつけている論者もいるようだが

そういう方々には歴史というものが

まったくわかっていらっしゃらないな

と申し上げる他は無い。

 

 

儒教社会には一市民が武器を取って

国のために戦うという考え方も無い。

戦争するのは士の仕事であり農工商はそもそも

国家のことにかかわってはならないのだ。

徴兵されたのならともかく

国が侵略されたからといって

ただちに武器を取って戦う義務は無い。

逃げて良いのである。

しかし、それでは近代国家はできない。

日本国も、朝鮮や中国ほどでは無いけれども

儒教の影響を強く受けた社会である。

だから国民国家の国民は

国を守るために武器を取って戦うべきだ

という常識が無い。

常識が無いところに、新たにそれを植え付けるためには

やはり天皇の権威に頼るしか無かった。

つまり、この当時は天皇

あるいは天皇家を守れという言い方でしか

一般国民に国を守らせる方法が無いのだ。

 

儒教は男女平等では無い。

徹底的な男尊女卑だから

科挙も「誰でも」受験できると述べたが

この中に女子は入っていない。

妻は夫に絶対的に従うべきものであり

「夫婦相和(あいわ)」などということは絶対に無い。

もちろん夫は妻を労らなければいけないのだが

それは決して平等ということでは無い。

 

前近代社会では女性とは

男性にとって欲望を抱かせる「悪」である。

イスラム教にもそういうところがあるが

儒教でも紀元前から

「男女七歳にして席を同じゅうせず」であった。

こんな世界では、男女共学の小学校など

はなから無理な話だ。

朱子学中毒患者の巣窟であった

朝鮮国も琉球王国も

男女共学など絶対に認めなかった。

それを徹底させたのはじつは日本人なのである。

この教育勅語は天皇の権威を持って

儒教が2千年以上正しいとしていた

男尊女卑の壁を破ったのである。

それだけでも評価すべきだと私は思うし

それがまさに歴史的評価ということだ。

 

こういう論者のなかにはこの教育勅語を

「儒教的」だと批判している人もいると聞いた。

漢文で書いてあると

何でも儒教だと思い込むんじゃなかろうか。

聖徳太子の「憲法十七条」も「和」という

儒教ではまったく重要視されていない概念を

もっとも大切にしているから

儒教とはかけ離れたものなのだが

日本史の専門学者の中でも

昔は結構「儒教的」だと評していた人がいた。

そもそも儒教が根本的にわかっていないのである。

 

後に軍部が強調した言葉に

「お前たちは天皇陛下の赤子(せきし)である」

というものがあった。

なぜ(赤ん坊)なのかと言えば

これも儒教を超えるためである。

「忠孝」などと一口に言うが

本来の儒教には優先順位がある。

軍人の親が病気なら

司令官であっても故郷に帰らなければいけない。

それが最優先ということであり

皇帝ですらそれを止めることができない。

もし止めたら

千載(せんざい)の後まで非難されるだろう。

皇帝は「忠」の対象であっても

「孝」の対象では無いからだ。

それが儒教社会というものである。

 

しかしそれでは近代国家はできない。

近代国家とは「私の問題」である「孝」より

「公の問題」である「忠」が

優先される社会でなければならない。

ここで国民すべてが

天皇の「子供」であると考えたらどうだろう。

天皇はすべての国民の親ということになり

天皇に対する「忠」は

親に対する「孝」と同義になる。

こうなれば

戦争の最中に兵士が親孝行のために家に帰る

などということも防止できる。

つまり、近代国家ができるわけだ。

これも二千年以上儒教社会が守り続けてきた

「孝優先(公軽視)」という価値観を

天皇の権威を持って見事に改変したということだ。

それゆえ日本は

近代国家への道を踏み出すことができたのである。

 

 

ここで、もう一度

教育勅語をじっくり見ていただきたいのだが

そこには儒教の根深い悪弊である

男女差別に関する言葉が一つも無い。

国民はすべて教育を受ける必要がある

と述べている。

だからこそ津田梅子も新島八重も、男どもの

「女子には教育はいらん」と言う偏見に対し

「陛下もそれを奨励されています」という形で

堂々と大学設立を主張し

それを完遂することができたのだ。

これらはすべて教育勅語の功績ではないか。

 

つまり、日本の教育近代化に

教育勅語は画期的な貢献をしたのに

その功績はまったく忘れ去られている。

また、左翼あるいはリベラルが批判してやまない

「有事の際は天皇家のために戦え」

というところも、これ以前に日本人は

「公」のために戦う

という感覚を持っていなかったのだから

こういう表現しかできなかった

ということが忘れられている。

だからまず明治はそれを形成する必要があった。

あの時点で天皇抜きで

日本国のために戦えと言っても誰もついてこない。

だからこそ、天皇を持ち出す必要があった。

そしてそれが一定の役割を果たしたからこそ

我々は今「公」という感覚を当たり前だと思っている。

それは教育勅語や帝国憲法が

日本人に定着させたものである。

 

大日本帝国憲法は

1889年(明治22)2月11日発布された。

この2月11という日付は

「日本書紀」に記載されている

紀元前660年(神武天皇元年)

1月1日に神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で

即位したとする故事に基づくもので

それを新暦に換算した「紀元節」という

国家の祝日に合わせて発布したものである。

ちなみに「紀元節」は

1945年(昭和20)の敗戦の影響で廃止されたが

現在「建国記念の日」として復活している。

そして1890年(明治23)11月29日に施行され

天皇臨席のもと初の帝国議会が開かれた。

 

地方制度の改革も、ドイツ人顧問モッセの助言を得て

山県有朋(やまがたありとも)を中心に進められ

政府の強い統制のもとではあるが

地域の有力者を担い手とする地方自治制が制度的に確立した。

 

「軍部」を作った山県有朋は

「軍人は政治に関与してはならない」

という信念の持ち主であった。

だから伊藤が憲法で目指した

「天皇の絶対化(神格化では無い)」

に協力するとともに

その絶対者である天皇の名で軍人勅論を出させた。

「軍人は政治に関与するな」

と天皇の命令を出したということだ。

今、意外と忘れられていることは、戦前の軍人たちは

この軍人勅論を根拠に選挙権を与えられなかったことである。

明治国家のプランナーたちの

「軍人は政治に関与させない」という強い意志は

そういうところでも感じ取れる。

 

あらためて繰り返せば、これら一連の法や勅は

まず天皇を絶対者として位置づけ

その天皇の命令をもって、日本にあるいは儒教社会に

それまで無かった国家の運営に参加する

「国民」を作り上げることにあった。

もちろん、それは同時に

儒教社会では成立し得ない「平等」

そしてきわめて軽視されがちな

「公」という概念を育成する目的もあった。

それがうまくいったからこそ、我々日本人のほとんどは

絶対神の下の平等を信じるキリスト教徒でも無いのに

万人平等だと固く信じているし

「公」の概念も身につけている。

このあたりは「アントニーの法則」を

もう一度思い出していただきたいところだ。

 

この巻おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑より抜粋

 

再三の述べたように、岩倉、伊藤、山県(やまがた)

あるいは井上馨(かおる)といった人々には

「天皇は絶対で神聖不可侵なものとすべき」

という共通の思想はあったが

それを大隈・福澤連合のイギリス流憲法

(実際にはイギリスには成文憲法は無いから王権を議会が

コントロールできる憲法と言ったほうが正確かもしれないが)

の対案として憲法の形にするという能力は無かった。

しかし、当時一官僚に過ぎなかった井上毅(こわし)は

それを持っており「プロシア流の憲法を作れば良い」

という具体的方向性まで示した。

では、井上毅の思想は

いったいどのように形成され、その特徴は何なのか。

 

井上は1843年(天保14)肥後国熊本藩に生まれた。

岩倉より18歳年下である。

藩侯細川氏の家臣では無く

家老の家来飯田権五兵衛の3男として生まれた。

江戸時代の真ん中あたりで

下級武士の3男坊に生まれれば

生涯部屋住みで世にでることも無かっただろうが

時代は優秀な人材を必要としていた。

 

幼少時から神童ぶりを発揮し

まず長岡是容(これかた)に目をかけられ

勉学の機会を与えられ

陪臣ながら本来藩士しか受け入れない

時習館(じしゅうかん)入学を許された。

こうなると「養子に欲しい」という藩士も出てくる。

そこで井上茂三郎の養子になり、井上毅と改め

勝海舟が「恐ろしいものを見た」と絶賛した

藩士横井小楠(しょうなん)の知遇も受けるようになった。

 

その後江戸に出てフランス語を学び

その能力を買われて新政府に出仕することになった。

当時は司法卿江藤新平が

フランスのナポレオン法典を翻訳して

民法を作ろうとしており、この意図の下に

ヨーロッパに渡り研究を開始したが

どうもフランス流の法律は肌に合わなかったようで

江藤と決別してまで

プロシア流の法律学に関心を示すようになる。

従来の歴史書は淡々と井上の「転向」を記すだけだが

そもそも藩校で朱子学を叩き込まれた井上には

革命つまり「国王殺し」を是認する

フランスそのものに違和感があったのだろう。

それに、この頃フランスとプロシアが戦って

(普仏戦争)プロシアが勝ったことも重要だ。

何にせよ

「負け組」のやり方を学ぼうとは誰も思わないからである。

 

井上は、1873年にヨーロッパから帰国したのだが

彼にとって幸いなことに

意見の違う上司の司法卿江藤新平は

その年に起こった明治6年の政変により

西郷隆盛らとともに下野したばかりであった。

代わって政府部内の頂点に立った

内務卿大久保利通の知遇を受けて

太政官大書記官に抜擢され

明治10年の西南戦争の勃発時には

別働第二旅団に随行し「裏方」を努めた。

 

大久保暗殺後もその地位は揺るがず

プロシア流憲法の研究を続けた。

その師は

いわゆるお雇い外国人として来日し政府の公法顧問となった

カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレルであり

彼は普仏戦争後に成立したドイツ帝国の憲法学者であった。

そして井上はプロシア流憲法こそ新生日本にとって

もっともふさわしい憲法だという確信を持つようになる。

 

プロシア

いや普仏戦争より後はドイツと呼ぶべきだろうから

これからはそうするが、そのドイツを

伊藤博文が訪問し憲法学者の講義を受けたのが

大隈重信らを政府部内から追放した

明治14年の政変の翌年のことだった。

もちろん背景には井上の画策があったろう。

伊藤は当時ドイツ最高の憲法学者であった

ルドルフ・フォン・グナイストの講義を受けた。

ひょっとしたら、これは

「憲法制定は一官僚の自分では無く伊藤が自ら動いた」

という形を作るためだったかもしれない。

 

続いて、伏見宮貞愛(ふしみのみやさだなる)

親王と土方久元(ひじかたひさもと)も

ドイツを訪問しグナイストの講義を受けたが

今でも多くの人は帝国憲法制定の陰に

井上という「仕掛け人」がいたことを認識していない。

井上の工作は大成功だったということだ。

用心深い(と私は考える)井上は

伊藤や伏見宮のドイツ訪問にも同行していないのである。

 

伏見宮は帰国後グナイストの講義を訳した文書を作らせた。

「グナイスト氏談話」という。

これを井上は徹底的に分析し吸収した。

じつはこの段階でも、グナイストは翻訳すれば

そのまま帝国憲法になるような

「手本」を示していてくれたわけではない。

それどころか、やはり外国人であるグナイストは

とんでもないアドバイスを日本側に示していた。

それはなんと

「日本は仏教を以(もっ)て国教と為(せ)すへし」

というものだった。

 

現在、信教の自由が完全に認められており

世俗化国家アメリカ合衆国でも大統領は

(キリスト教徒なら)聖書に手を置いて宣誓する。

やはりそれが国民の約8割が

キリスト教であるアメリカ人にとっては

もっとも安心できる形でもある。

グナイストの勧めた「仏教国教化」は

こうした伝統を政治にも生かすべきだ

という考えに基づくものであり

イラン革命の目指した三権分立の上に「仏教会議」

が鎮座するようなものでは無かったことは明白である。

 

しかし、このグナイストの

日本人には突拍子も無いと感じられたアドバイスは

憲法の「陰の仕掛け人」井上毅の頭脳に

カルチャーショックを与えたようだ。

その後の行動を見ると、まず井上は

宗教というものが国家の形成にあたって

日本人が漠然と考えていたより

はるかに強い影響力を持っているということを再認識した。

仏教がそれで無いとするならば

神道をそうだと考えるべきなのか?

という根本的な疑問を抱いたことである。

 

さて、最近中国が国際貿易戦略として打ち出した

「一帯一路(いったいいちろ)」政策に

読者の皆さんはどんな感想をお持ちだろうか?

ちなみに「一帯一路」とは

中国の習近平国家主席が提唱した経済圏構想。

中国西部と中央アジア・欧州を結ぶ

「シルクロード経済帯」(一帯)と、中国沿岸部と

東南アジア・インド・アラビア半島・アフリカ東を結ぶ

「21世紀海上シルクロード」(一路)の2つの地域で

インフラ整備および経済

貿易関係を促進するというものである。

 

私の感想は

それは「もったいなかったな」であり

「600年遅かったな」である。

ポルトガルやスペインが世界に貿易船団を送り

巨大な富を蓄積し、さらに多くの海外領土を獲得し

世界にまたがる海洋帝国を築き上げた大航海時代のように

中国が世界にまたがる大海洋帝国になるチャンスは

少なくともその約100年前からあった。

 

具体的には

ポルトガルのバスコ・ダ・ガマや

スペインの援助を受けた

クリストファー・コロンブスが

インド航路を開拓する以前に

(到達したのは実際にはインドではなくアメリカだったが)

明(みん)の洪武帝(こうぶてい)の命令を受けた

鄭和(ていわ)が大艦隊を率い

インドを越えて東アフリカまで到達しているからだ。

つまり「一路」政策は今から600年も前の

15世紀初頭に実行できる可能性があったのだ。

 

このインド・アフリカ航路を活用し

当時膨大な産物を持っていた明が

大々的に貿易を行なえば、巨大な富をさらに増やしただろう。

それが続けばおそらく中国はアフリカのどこかに

いくつか海外領土を獲得していたかもしれない。

ちょうど中南米諸国が伝統文化をほとんど失い

ポルトガル語やスペイン語をしゃべっているように

アフリカは中国のものだったかもしれないのだ。

それどころか、世界の「共通語」は

英語では無く中国語になっていたかもしれない。

 

ではなぜそうならなかったのだろう?

朱子学である。

朱子学は、商売を「卑しい行為」とする。

当然国際的な商売である貿易もそうだ。

だから「朝貢(ちょうこう)」貿易しか認めない。

しかしこのシステムでは相手が一のものを持って来たら

10にして返さねばならない。

あくまで対等では無く

「皇帝が朝貢国に褒美をやる」という建前だからだ。

実際には朝貢国が増えれば増えるほど

明の経済は破綻する。

だから洪武帝は海禁政策つまり鎖国をした。

この背景には中華思想もある。

中国が世界一で他に文明など無いというのが

「中華」ということだから

それ以外の「地域=野蛮国」から

何かを輸入する必要などまったくないことになる。

「中国には何でもある」のだから。

こうした思想に呪縛され中国は

大発展する絶好のチャンスを逃した。

 

 

資本家といえば

かつては倭寇(わこう)と呼ばれ

蔑視された貿易商人もこれに入る。

つまりそうした大商人や金持ちを悪ととらえる点でも

共産主義は朱子学中毒患者である中国人エリートの

ツボにはぴったり嵌ってしまったのである。

 

ひょっとしたら

こんなことは本題とは何もかかわりも無いのでは

と思っているかもしれないがとんでもない。

歴史はすべて「つながり」である。

この時代

日本が躍起になっていたことを思い出していただきたい。

それは国内では憲法制定だが

対外的には条約改正であった。

欧米列強から押しつけられた不平等条約を

何とかして改正したいというのが

対外的には日本のもっとも大きな願望であった。

 

不平等条約改正の目標は大きく分けて2つ。

治外法権の撤廃と関税自主権の回復だが

そもそも不平等条約を押しつけられた過程は

朱子学中毒患者が支配していた徳川幕府が頑なに

通商条約締結を拒んだからであった。

アメリカは最初イギリスとは違って

対等な条件で日本と貿易を始めようと思っていたのに

朱子学に毒された幕府はそんな賤業(せんぎょう)を

神聖なる幕府ができるかとばかり断固拒否の態度に出た。

そこで最初は日本に寛容だったアメリカも

まさに野蛮なやり方で中国を圧倒したイギリスと組んで

日本に不平等条約を押しつけた。

 

日本が憲法制定に熱心だったのは

民権運動の高まりもあるが

むしろ政府側は

立憲国家の形を早く作り上げることこそ

条約改正の早道と考えており

それもあって憲法制定に熱心だったのである。

 

自由貿易とは

お互いが対等であると認め合って

初めて成立するものだ。

対等と言ってもそれは欧米列強つまり

「白人キリスト教徒国家」だけに通用するもので

それ以外の国家は植民地

または領土にされてしまうというのが帝国主義時代

つまり、19世紀末から20世紀初頭の現実であった。

しかし、「非白人非キリスト教徒国家」が

「白人キリスト教徒クラブ」に加入するチャンスはあった。

現にイギリスは、インドはともかく

中国にはそのチャンスを与えようとしたが

中国は頑なにそのルールを変えようとしなかったので

イギリスから見れば

「やむを得ず」アヘン戦争を起こした。

 

もちろんこの戦争は

貿易超過を解消するために麻薬を売りつけ

国民の健康が損なわれると怒った中国を

武力で叩きのめして言う事を聞かせたという

蛮行以外の何物でも無いが

あえて「暴力団」の言い分を聞けば

「中国人はあまりにも尊大で対等な国家を認めようとしない」

ということだっただろう。

中国側から見れば

理不尽なアヘン戦争に惨敗したところで

華夷秩序は崩壊したのである。

それを見ていた日本は曲りなりにも方向転換して

欧米列強つまり

「白人キリスト教徒クラブ」に加入しようとした。

 

問題は宗教である。

後に伊藤博文は「基軸」という言葉を使ったが

欧米列強にはキリスト教という基軸があって

それが国民統合の原理であると同時に

万人平等を保証する「平等化推進体」になっている。

しかし、日本にはそのようなものは無い。

キリスト教の神のような絶対神はいない。

そこで江戸時代以後

朱子学の影響を受けて進んできた天皇の絶対化を

憲法の上で確実なものにしようと

プランナー井上毅は考えた。

 

しかし、欧米の憲法も

キリストを絶対神として規定しているわけでは無い。

そこは世俗化が進みキリスト教を国教として

国民を団結させる形にはなっていない。

たとえばフランス革命では

自由・平等・友愛が叫ばれた。

自由というのは信教の自由も一応は含んでいるのである。

だとしたら欧米のように世俗化を進めたうえで

天皇の絶対化だけは確保しなければいけない。

となると、どんな方法があるか?

 

世俗化は進めなければいけないのだから

「天皇教」が国教になるような形

すなわち「国家神道」ではいけない。

しかし何度も述べたように

天皇という

「平等化推進体」が絶対性を保たない限り

日本の四民平等、つまり士農工商の廃止は実現しない。

 

そこで悩んだ井上が考えたのは

おそらく人類史上

でも他の国家や民族はまず考えない考えつかない

宗教学的あるいは社会学的に見るなら

まさに奇想天外と言っても良いアイデアであった。

何とそれは「神道は宗教では無い」という形で

他の宗教から切り離そうというのである。

 

これは別に井上新説では無い。

たとえば井上毅研究の第一線にいる

宗教学者齊藤智朗(ともお)はその著者で

 

「井上は『神道』を神社のみならず

皇室祭祀や伊勢の神宮、国学、さらに神道教派も

まとめたかたちで捉えた上で『神道』を

世俗主義の文脈から総合的に『非宗教』であると認識した。

つまり、井上は皇室神道・神社神道・教派神道を

すべて『神道』と一つに括(くく)って

『宗教』ではないと捉えたのであり

またこのことは井上の神道政策構想が

内務省管轄下での神社行政だけでなく

皇室制度や教育制度にも波及した、いわば

明治国家全般に関わるものであったことを意味している」

(井上毅と宗教 明治国家形成と世俗主義)

 

と断言していることからもあきらかである。

それにしても専門学者の断言を見ても

まだ信じられない

という人の方が多いのではないだろうか。

無理も無い。べらぼうな話である。

 

たとえば

ここの文中にある教派神道というのは

国家統制から独立して教団を作った神道のことだが

そのひとつ出雲大社教(おおやしろきょう)は

大国主命(おおくにぬしのみこと)

を信仰の対象とするが、その教義は

オオクニヌシが幽界の支配者であるのを認めることである。

幽界というのは、誰がどう考えても宗教の扱う概念であり

他の分野では扱わないものなのだが

それも含めて宗教では無いと言うのは

いったいどういう理屈なのだろうか。

 

明治になるまで日本には

「宗教」という言葉は無かった。

仏教は仏法と呼ばれ、神道もその分派が

〇〇教と名乗るようになったのは明治以降である。

そもそも日本には英語で「religion(宗教)」

と呼ばれる概念に応じる適切な訳語が無かった。

当時の日本人は漢語の知識をもとに

「経済」「哲学」「権利」

といった新語を作りだしたが

これもその一つであり

仏教いや仏法でより専門家された教えを

〇〇宗あるいは宗旨(しゅうし)と呼んだのに

ヒントを得て作られたものである。

 

 

他にも様々な辞書、百科事典も見たが

なかには儒教(朱子学)は宗教では無い

と断言するものもあった。

その理由は儒教の開祖である孔子が

「怪力乱神を語らず」と断言しているところにある。

孔子は「死」についても語ることを拒否している。

つまり神(あるいは超自然現象)や来世に言及

しないのだから「宗教では無い」というのだ。

これは中国人の伝統的考え方でもあり

だからこそ彼らは儒教という言い方を好まず

儒学、朱子学と呼んだ。

 

私は、儒教も朱子学も共産主義

(マルキシズム)も宗教だと考えている。

確かにこれらは無神論という点で共通しており

「神や来世を信じるのが宗教」ならば

その定義に外れていることになる。

しかし、宗教を

「人間生活の究極的な意味をあきらかにし

かつ人間の問題を究極的に解決しうる

と信じられた営みや体制を総称する文化現象」

ととらえるなら

「神観念や聖性」を伴うことは

宗教の絶対必要条件では無い。

ここで肝心なことは

「明治国家形成のグランドデザイナー」

である井上毅(こわし)は

ここのところをどう考えていたかである。

先に紹介した井上の研究者齊藤智朗は

井上が儒教とキリスト教の関係を

どうとらえたかについて

まず聖書の内容に対する井上の批判を

彼の著作から引用し次のように述べている。

 

旧文書なので略

 

つまり朱子学が人生最初の学問であった井上は

中国人の伝統的考えを継承し

キリスト教は「神怪(しんかい)」性

つまり論理的、科学的に証明不可能な事物を

ことさらに扱う非合理な迷信だが

儒教はそういった要素は一切無く

合理的な哲学であると考えていたのである。

 

井上の基本的思想がこうなら、たとえば

「明治政府は、祭政一致の方針をとり

神道の国教化をすすめた」

という村上重良を中心とする

「国家神道」論者の見方が

正確では無いことがわかるだろう。

 

まず井上は天皇絶対主義者ではあるが

宗教は迷信であるという信念の持ち主である。

その井上が軽蔑する「神怪」の類に

天皇を加えようとするはずが無いではないか。

しかし、子供のころ

「朱子学」に井上が洗脳されてしまったように

村上が子供のときには明確に存在していた

「天皇=現人神」という思想が

村上を誤らせたことは間違い無い。

 

それに井上の態度にも大きな矛盾がある。

井上のキリスト教批判に見られる

「神の子と称したイエスが

数々の奇跡を起こし神の国の到来を説いた」

ことを示すのだろうが、それを言うなら

「古事記」「日本書紀」で

神の子孫であるとされた神武天皇が

突如現れた金鵄(きんし)の輝きによって

敵を撃退したなどという

「奇蹟」についてはどう考えるのか?

儒教に基づいてそうした「神話」も

キリスト教と同様に認めない

というなら話はわかるが

井上は少なくともそれを

積極的には否定していないのである。

 

その井上の

「グランドデザイン」はすでに述べたように

神道それも天皇家がかかわる祭祀の部分だけを

一般宗教とは別枠の扱いとし

宗教では無く国家の基本道徳として扱うことであった。

私なりに整理すれば

すなわち新たに制定される帝国憲法においては

天皇の存在は宗教を超越した絶対的な存在である。

しかし、それは「天皇は現人神である」

という「信仰」を創出するということでは無い。

それでは天皇を「神怪」とする「宗教」になってしまう。

そうでは無くて

そんな宗教的概念をすべて超越したところに天皇は存在し

(この考え方自体が宗教的なのだが)

その下に国民が議会を形成できるし信仰の自由もある

ということだ。

 

一方、「天皇が『神怪』では無い」ということは

その祭祀を管理する伊勢神宮は

当然宗教行政を担当する内務省では無く

宮内省が管理すべきであり

神官は官吏(かんり)であるべきだ。

逆に、そうした天皇家の祭祀と

切り離された神社は宗教を扱って良い。

つまり内務省の管轄となり神官は民間人となるし

もちろん「来世はどうなる」

といった教説を語っても良い。

言うまでも無く信教の自由があるからだ。

しかし、この「自由」には

天皇の絶対性を否定する権利は無い。

ひょっとしたら井上は帝国憲法上の天皇は

「来世を語らない」から「神怪」では無い

と考えていたのかもしれない。

何度も言うが、儒教的考えによればそうなるからである。

 

つづく

 


 

 

 

 

↑より抜粋

 

最後にして最大級の士族の反乱であった

西南戦争が士族側の敗北に終わると

武力をもって政治の方向性を変えようとする運動は

完全に終止符が打たれた。

そこで、いわゆる「不平士族」たちは

板垣退助らの自由民権運動の路線を受け継ぎ

政治参画の権利を求めて国会開設を訴えていくことになる。

 

一方、政府はすでに1875年(明治8)6月に

讒謗律(ざんぼうりつ)および新聞紙条例等を制定して

国家を批判する言論を厳しく取り締まったが

地方三新法を制定して今の県議会府議会にあたる

民会を先に設立して民意を汲み上げる姿勢も示した。

「アメとムチ」ということだろう。

民権運動家たちは1880年(明治13)

国会期成同盟を結成し国会開設請願書を

太政官に提出しようとしたが門前払いにされた。

逆に政府は新たに集会条例を定め政治結社の活動を制限した。

 

こうしたなか、国会開設を視野に入れた

民間政党の最初のものとして

板垣退助を総理(党首)とする自由党が結成された。

1881年(明治14)10月のことである。

 

西南戦争の影響は国家財政にもおよんでいた。

莫大な戦費を賄うために

正貨である金や銀と交換できない

不換紙幣を濫発したことから

国内に激しいインフレーションが起こり

日本貨幣の価値が急落した。

そこで1880年(明治13)

大蔵卿大隈重信が中心となり

国家財政を安定させるために間接税を増やし

官営工場を払い下げる方針を決めた。

その方針を受け継いだ新任の大蔵卿松方正義は

緊縮財政つまりデフレ政策を取り

1882年(明治15)に日本銀行を設立し

兌換券:だかんけん(正貨と交換できる紙幣)を発行した。

 

これで一応近代的な銀本位の貨幣制度が成立したのだが

逆にデフレ政策は物価の下落を招き不況の長期化を引き起こして

中小の自作農が土地を手放し大地主の下で小作人に転落した。

すなわち、大地主による農地の寡占化が進むこととなった。

こうした財政面で実務的手腕を示し

政府に重きをなした大隈重信は

持論であるイギリス流の議員内閣制の早期実現を目指した。

これには福澤諭吉も賛同していたようで

政府部内の大熊と在野の福澤が

タッグを組んでその路線を進めていた。

これに危機感を抱いたのが大久保亡きあと

政府内ナンバーワンの実力者となった岩倉具視である。

 

公家出身の岩倉はイギリス流のやり方では

天皇の権限が著しく制限されることになるとみていた。

イギリスの国会は古くは13世紀に

ジョン王がマグナカルタ(大憲章)に著名して以来

名誉革命など王権を民権が制限するという流れできているからだ。

岩倉は王権をむしろ強化するような憲法こそ理想と考えていた。

おそらくは、明治になって「しゃしゃりでてきた」

薩長以外の「志士」たちに

反感を持っていた伊藤博文も岩倉の考えを支持した。

どちらかと言えば西郷隆盛に引き立てられた大熊と違い伊藤は

大久保の「国会など開設する前にやることが山ほどある」

の見解に賛成だったのである。

この路線対立が深刻な勢力争いに発展し

「明治14年の政変」を招いた。

 

そのきっかけとなった

「開拓使官有物払い下げ問題」とは

あの「妻殺し」の北海道開使長官で薩摩出身の黒田清隆が

「政府がそれまで10年間に約1400万円つぎこんできた

開拓使の官有財産を

無利息30カ年賦38万円という不当な安価で

薩派の政商五代友厚らの関西貿易商会に払い下げようとした」

事件で、これが民間に漏れて大問題となった。

政府部内では大隈だけがこの不当な払い下げに反対していたので

陰謀の名手である岩倉・伊藤らは逆に

「大隈は薩長藩閥打倒のために河野敏鎌(こうのとがま)

農商務卿らと謀り、輩下の官僚に働きかけて

福澤ら三田派と通謀し、後藤象二郎(しょうじろう)

板垣退助ら土佐派の民権家と気脈を通じ

政商岩崎弥太郎(三菱)に資金を出させ、陰謀をはかっている」

という「大隈陰謀説」をでっち上げ

薩摩の黒田とも連携し

払い下げ問題は追及しない代わりに取り下げ

一致して大隈を罷免に追い込んだ。

しかし、国民をなだめるために

「1890年に必ず国会を開設する」という内容の

「国会開設の勅論」を出さざるを得ず

タイムリミットが切られる形となった。

それは、その年までに総選挙を実行するという公約でもあるから

遅くともその前年1889年までには「国会」

そして「主権」を明確に定める憲法を制定し

施行しなければならないということだ。

 

下野した大隈は板垣のフランス流自由主義に対抗して

イギリス流の立憲改進党を創立した。

一方、1884年(明治17)には

自由党過激派困民党などによる暴動

「群馬事件」「秩父事件」「加波山(かばさん)事件」

が相次いで起こり

政府はこれを鎮圧し首謀者を死刑にしたものの

国会開設要求の機運はますます盛り上がった。

こうしたなか、民間でも憲法を考える動きが盛んとなり

福澤諭吉や植木枝盛(えもり)が憲法私案を次々に発表した。

 

そして、いよいよ憲法制定を目指した伊藤博文は

政府を代表してプロシアに短期留学に向かうわけだが

こうした教科書の記述によると

伊藤が主に留学で学んだ知識を生かして

憲法の制定を推進したようにも読める。

実際、憲法制定の中心人物は伊藤博文に間違いないのだが

じつはこの陰にプロシア留学以前からすでに

伊藤の憲法構想に決定的な影響を与え

その方向性を決めていた人物がいたのである。

それがここで紹介した通説のなかには

まったく出てこない人物だが

最近の日本歴史学界でもその存在を重視している人物でもある。

その人物名を井上毅(こわし)という。

 

井上は熊本藩の出身だから、薩長土肥の出身者のように

政府に有力なコネがあったわけではない。

それでも出世したのは大久保利通に見出されたからだ。

元幕臣の前島密(ひそか)を官僚として重用したように

大久保には優秀な人材を見抜く能力があったようだ。

やはり暗殺されたことは政府にとって大きな痛手であった。

 

大隈も伊藤も、天皇を中心とした

立憲国家にすることには意見の対立は無い。

問題は民権をどの程度まで認めるかであった。

この点、大隈は一貫してイギリス流の

「国王は君臨しれども統治せず」を基調とした

最大限に王権を制限して民権を認めるという考え方であった。

フランスは絶対的な王権を持つ国王を革命で否定し

国王を処刑して共和国(王のいない国)になった。

江戸時代以来「尊皇」が国是となっている日本にとって

これだけは認められない体制である。

 

それよりも名誉革命という形で

王権を最大限に制約し民権を拡張しつつも

王制はそのまま残す形を取ったイギリス流のやり方のほうが

日本人にも受け入れられやすい

と大隈が考えたのは当然だったかもしれない。

イギリスは当時世界一の大国であって

日本の「手本」であったことも忘れてはいけない。

そして、この大隈の考えと思想的に一致していたのが

慶応義塾大学の創立者でもある福澤諭吉とその弟子たち

(三田派)同じく福澤が設立した民間人の交流団体

「交詢社(こうじゅんしゃ)」グループであった。

 

しかし、岩倉具視は違う。

天皇は絶対であるがゆえに

「君臨し統治すべき」なのである。

これを何とかしなければいけない。

そのために大隈が取った手段が

政府部内においては最後まで自分の考えを秘し

最終段階で一気に流れを決めてしまおうというものだった。

そしてすべての参議が

あるべき憲法の形について意見書を提出した後

当時筆頭参議であった大隈は1881年

つまり明治14年の3月になって初めて意見書を草し

それを左大臣有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)

親王に直接提出した。

 

そのとき大隈は、明治天皇に奏上するまでは

他の参議には内容を漏らさないでいただきたい

と念を押したという。

前後の事情から見て大隈は、天皇への奏上が済んでしまえば

それは「陛下の御裁可」をいただいたことになる。

それを振りかざして強行突破しようとしたのではないか。

ところが、有栖川宮はその「急進的」な内容に驚いて

太政大臣三条実美(さねとみ)と

右大臣岩倉具視にそれを見せてしまった。

こうなれば伊藤博文の耳にも入る。

内容を知った伊藤はここで大隈と決別する決意を固めた。

ここに岩倉・伊藤連合VS大隈派という対立の構図ができた。

 

しかし、岩倉・伊藤連合には大きな弱点があった。

大隈派には交詢社グループが私擬憲法(憲法試案)

を発表するなど、明確なビジョンがあり青写真があった。

ところが岩倉・伊藤グループには

「それではダメだ」という主張はあっても

では具体的にどうするのか?というビジョンも私案も無い。

向こうはすでに出来あがっているのだから

時間的にもはるかに後れをとっている。

大隈が強硬手段に出た理由の一つに

これがあったのかもしれない。

すなわち敵の体制の整わないうちに勝負に出る

ということであり兵法の鉄則でもある。

岩倉・伊藤連合がこの窮状を打開するためには

優秀な軍師いやブレーンを必要とした。

ここで「颯爽と」登場したのが井上毅なのである。

 

さて読者の皆さんもここで考えていただきたい。

あなたが「大隈の陰謀」を阻止しようとしたら

どういう手を打てばいいか。

それが「明治14年の政変」の最後に出された

「国会開設の勅論」であった。

明治天皇の名をもって

「明治23年を期して、議員を召して国会

(議会)を開設すること、欽定憲法を定めること」

と宣言したものである。

これが政治的には

じつに絶妙な一手であることはおわかりだろうか?

 

「10年後に国会を開設する

(総選挙のために前年までには憲法を制定する)」

ということは、「コンペの締め切りが延期された」

ということなのである。

機先を制し、いち早く憲法案を構築した

大隈・福澤派のアドバンテージが完全に消されてしまったのだ。

 

 

つまりこの憲法は

天皇自らが臣下に命じて策定するとあるから

それを待たずしてこれまでのような

私擬憲法を出すことは大袈裟に言えば天皇への反逆行為となる

いや、決して大袈裟では無い。

この10年を待たずしてみだりに騒ぎ治安を乱す者は

国法をもって処罰すると明確に警告しているのである。

これとほぼ同時に

政府部内の大隈派はことごとく罷免追放された。

そして北海道開拓使の官有物払い下げも取りやめとなり

これに関する不正疑惑は闇に葬られた。

 

これでお分りになったと思うが

明治14年の政変は

歴史の分岐点とも言うべき重大な事件であった。

もし井上毅がこの時点で伊藤や岩倉をたき付けなかったら

その後はどうなっていただろう。

じつは岩倉はこの2年後の明治16年(1883)に喉頭癌

(日本で最初に癌告知を受けた人物だと言われる)

でこの世を去るのだが、すでにこの頃から健康を損ねていた。

療養を重ね、政務に集中できる体では無かったのである。

 

もし井上が動かなければ

他ならぬ井上自身が分析しているように

岩倉が死ぬころにはイギリス流の憲法を制定せよ

という世論が強くなり

日本はまさにそういう憲法を持ったに違いない。

天皇のもとに3人の大臣がいるが

太政大臣三条はお飾りで

左大臣有栖川宮も実力者では無い。

大臣としてはもっとも下位の右大臣岩倉こそ維新の功臣でもあり

天皇の信頼も厚く政府部内で最大の発言力があった。

参議としては大隈のほうが上席なのである。

もし岩倉が味方につかなければ

伊藤は大隈を追放することができなかっただろう。

 

岩倉という文字通り「保守反動」が

一人政府部内に生き残っていたことは

やはり日本の不幸だったと言うべきかもしれない。

岩倉に「格」から言って対抗できる維新の三傑’(さんけつ)

西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通はすでにこの世を去り

勝海舟は元幕臣であるがゆえに

政府部内への影響力は岩倉におよばない。

もう一人、岩倉に対抗できる人物として島津久光がいたが

久光もあまりに過激な復古主義を唱えたために

棚上げ状態にされていたから

言わば岩倉の一人天下であった。

岩倉から見れば13歳年下の大隈、16歳年下の伊藤など

「鼻たれ小僧」であったろう。

その岩倉にとって、「鼻たれ小僧」の大隈や

10歳下の福澤が進めていたイギリス流の憲法制定と

それに基づく国家の構築は、我慢のならないものであった。

この岩倉の不満というものが

学界も含めてあまり理解されていないようだ。

 

 

「藩閥政府の悪」と言えば

かつては長州閥の専売特許であった。

権力を悪用し民間人から銅山を奪った

尾去沢(おさりざわ)銅山事件

あるいは長州出身の政商に

国家予算から膨大なカネを流用させた

山城屋和助(やましろやわすけ)事件

いずれも長州の井上馨(かおる)

山県有朋(やまがたありとも)が絡んでいたと考えられるのに

彼らは何の処罰も受けなかった。

それどころか

彼らの悪を追及しようとした佐賀の江藤新平は

逆に犯罪者の立場に追い込まれ斬首のうえ

梟首(きょうしゅ)という極刑に処された。

西南戦争を起こした西郷隆盛には

そうした貪官汚吏(たんかんおり)

に対する激しい怒りがあった。

ここのところ、国民作家司馬遼太郎は次のように述べている。

 

ともかく、江藤も西郷も

史上まれにみるほどに正義がありすぎた。

しかもその正義のために彼らは滅び

あまつさえ賊名を着せられた。

それに、皮肉なことに西郷を討った政府軍の総司令官は

山県有朋だった。

またその軍費の工面をしたのは、井上馨だった。

こういう言い方は子供っぽいかと思われるが

彼らはのちに公爵あるいは候爵になる。

(この国のかたち ニ)

 

まさに同感なのだが

司馬遼太郎がこれに続いて述べていることには異論がある。

 

しかし、江藤や西郷の霊も、浮かばれなかったとは言えない。

この乱による襲撃がどうやら官員たちを粛然とさせたらしく

その後、明治が終るまで

ほとんど汚職事件というものはなかった。

死者たちの骨は

その面での礎石(いしずえ)になったのである。

 

残念ながら西郷の死後わずか4年で

「開拓使官有物不正払い下げ」

という大規模な汚職事件が、しかも長州では無く

薩摩の人間によって起こされたのである。

「西郷の霊」はむしろ「浮かばれなかった」のではないか。

政府財政はこのとき他ならぬ西南戦争の戦費調達のため

井上馨が不換紙幣を濫発し危機に瀕していた。

だからこそ後始末を任された大隈は

官有物払い下げの方針を決めたのである。

民間企業育成のためなら「できるだけ安く」が正しいが

財政の穴埋めのためであるから

少なくとも適正な価格で売るべきなのだが

黒田清隆はまさにその逆をやろうとしたのだ。

それにしても司馬遼太郎ともあろうものが

どうして「汚職事件というものはなかった」

などと述べたのか。

確かにこの事件は「未遂」に終わり

井上や山県のときのように「成功」こそしなかったのだが

問題は汚職しようとした人間が薩摩にいた、ということだ。

 

不正を追及しようとした大隈の「正義」は葬られてしまった。

ちなみに、伊藤と黒田はともに

大日本帝国内閣総理大臣にもなっている。

初代、5代、7代、10代が伊藤

2代が黒田である。

 

つづく

 

 

 

 

 
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