↑より抜粋

 

再三の述べたように、岩倉、伊藤、山県(やまがた)

あるいは井上馨(かおる)といった人々には

「天皇は絶対で神聖不可侵なものとすべき」

という共通の思想はあったが

それを大隈・福澤連合のイギリス流憲法

(実際にはイギリスには成文憲法は無いから王権を議会が

コントロールできる憲法と言ったほうが正確かもしれないが)

の対案として憲法の形にするという能力は無かった。

しかし、当時一官僚に過ぎなかった井上毅(こわし)は

それを持っており「プロシア流の憲法を作れば良い」

という具体的方向性まで示した。

では、井上毅の思想は

いったいどのように形成され、その特徴は何なのか。

 

井上は1843年(天保14)肥後国熊本藩に生まれた。

岩倉より18歳年下である。

藩侯細川氏の家臣では無く

家老の家来飯田権五兵衛の3男として生まれた。

江戸時代の真ん中あたりで

下級武士の3男坊に生まれれば

生涯部屋住みで世にでることも無かっただろうが

時代は優秀な人材を必要としていた。

 

幼少時から神童ぶりを発揮し

まず長岡是容(これかた)に目をかけられ

勉学の機会を与えられ

陪臣ながら本来藩士しか受け入れない

時習館(じしゅうかん)入学を許された。

こうなると「養子に欲しい」という藩士も出てくる。

そこで井上茂三郎の養子になり、井上毅と改め

勝海舟が「恐ろしいものを見た」と絶賛した

藩士横井小楠(しょうなん)の知遇も受けるようになった。

 

その後江戸に出てフランス語を学び

その能力を買われて新政府に出仕することになった。

当時は司法卿江藤新平が

フランスのナポレオン法典を翻訳して

民法を作ろうとしており、この意図の下に

ヨーロッパに渡り研究を開始したが

どうもフランス流の法律は肌に合わなかったようで

江藤と決別してまで

プロシア流の法律学に関心を示すようになる。

従来の歴史書は淡々と井上の「転向」を記すだけだが

そもそも藩校で朱子学を叩き込まれた井上には

革命つまり「国王殺し」を是認する

フランスそのものに違和感があったのだろう。

それに、この頃フランスとプロシアが戦って

(普仏戦争)プロシアが勝ったことも重要だ。

何にせよ

「負け組」のやり方を学ぼうとは誰も思わないからである。

 

井上は、1873年にヨーロッパから帰国したのだが

彼にとって幸いなことに

意見の違う上司の司法卿江藤新平は

その年に起こった明治6年の政変により

西郷隆盛らとともに下野したばかりであった。

代わって政府部内の頂点に立った

内務卿大久保利通の知遇を受けて

太政官大書記官に抜擢され

明治10年の西南戦争の勃発時には

別働第二旅団に随行し「裏方」を努めた。

 

大久保暗殺後もその地位は揺るがず

プロシア流憲法の研究を続けた。

その師は

いわゆるお雇い外国人として来日し政府の公法顧問となった

カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレルであり

彼は普仏戦争後に成立したドイツ帝国の憲法学者であった。

そして井上はプロシア流憲法こそ新生日本にとって

もっともふさわしい憲法だという確信を持つようになる。

 

プロシア

いや普仏戦争より後はドイツと呼ぶべきだろうから

これからはそうするが、そのドイツを

伊藤博文が訪問し憲法学者の講義を受けたのが

大隈重信らを政府部内から追放した

明治14年の政変の翌年のことだった。

もちろん背景には井上の画策があったろう。

伊藤は当時ドイツ最高の憲法学者であった

ルドルフ・フォン・グナイストの講義を受けた。

ひょっとしたら、これは

「憲法制定は一官僚の自分では無く伊藤が自ら動いた」

という形を作るためだったかもしれない。

 

続いて、伏見宮貞愛(ふしみのみやさだなる)

親王と土方久元(ひじかたひさもと)も

ドイツを訪問しグナイストの講義を受けたが

今でも多くの人は帝国憲法制定の陰に

井上という「仕掛け人」がいたことを認識していない。

井上の工作は大成功だったということだ。

用心深い(と私は考える)井上は

伊藤や伏見宮のドイツ訪問にも同行していないのである。

 

伏見宮は帰国後グナイストの講義を訳した文書を作らせた。

「グナイスト氏談話」という。

これを井上は徹底的に分析し吸収した。

じつはこの段階でも、グナイストは翻訳すれば

そのまま帝国憲法になるような

「手本」を示していてくれたわけではない。

それどころか、やはり外国人であるグナイストは

とんでもないアドバイスを日本側に示していた。

それはなんと

「日本は仏教を以(もっ)て国教と為(せ)すへし」

というものだった。

 

現在、信教の自由が完全に認められており

世俗化国家アメリカ合衆国でも大統領は

(キリスト教徒なら)聖書に手を置いて宣誓する。

やはりそれが国民の約8割が

キリスト教であるアメリカ人にとっては

もっとも安心できる形でもある。

グナイストの勧めた「仏教国教化」は

こうした伝統を政治にも生かすべきだ

という考えに基づくものであり

イラン革命の目指した三権分立の上に「仏教会議」

が鎮座するようなものでは無かったことは明白である。

 

しかし、このグナイストの

日本人には突拍子も無いと感じられたアドバイスは

憲法の「陰の仕掛け人」井上毅の頭脳に

カルチャーショックを与えたようだ。

その後の行動を見ると、まず井上は

宗教というものが国家の形成にあたって

日本人が漠然と考えていたより

はるかに強い影響力を持っているということを再認識した。

仏教がそれで無いとするならば

神道をそうだと考えるべきなのか?

という根本的な疑問を抱いたことである。

 

さて、最近中国が国際貿易戦略として打ち出した

「一帯一路(いったいいちろ)」政策に

読者の皆さんはどんな感想をお持ちだろうか?

ちなみに「一帯一路」とは

中国の習近平国家主席が提唱した経済圏構想。

中国西部と中央アジア・欧州を結ぶ

「シルクロード経済帯」(一帯)と、中国沿岸部と

東南アジア・インド・アラビア半島・アフリカ東を結ぶ

「21世紀海上シルクロード」(一路)の2つの地域で

インフラ整備および経済

貿易関係を促進するというものである。

 

私の感想は

それは「もったいなかったな」であり

「600年遅かったな」である。

ポルトガルやスペインが世界に貿易船団を送り

巨大な富を蓄積し、さらに多くの海外領土を獲得し

世界にまたがる海洋帝国を築き上げた大航海時代のように

中国が世界にまたがる大海洋帝国になるチャンスは

少なくともその約100年前からあった。

 

具体的には

ポルトガルのバスコ・ダ・ガマや

スペインの援助を受けた

クリストファー・コロンブスが

インド航路を開拓する以前に

(到達したのは実際にはインドではなくアメリカだったが)

明(みん)の洪武帝(こうぶてい)の命令を受けた

鄭和(ていわ)が大艦隊を率い

インドを越えて東アフリカまで到達しているからだ。

つまり「一路」政策は今から600年も前の

15世紀初頭に実行できる可能性があったのだ。

 

このインド・アフリカ航路を活用し

当時膨大な産物を持っていた明が

大々的に貿易を行なえば、巨大な富をさらに増やしただろう。

それが続けばおそらく中国はアフリカのどこかに

いくつか海外領土を獲得していたかもしれない。

ちょうど中南米諸国が伝統文化をほとんど失い

ポルトガル語やスペイン語をしゃべっているように

アフリカは中国のものだったかもしれないのだ。

それどころか、世界の「共通語」は

英語では無く中国語になっていたかもしれない。

 

ではなぜそうならなかったのだろう?

朱子学である。

朱子学は、商売を「卑しい行為」とする。

当然国際的な商売である貿易もそうだ。

だから「朝貢(ちょうこう)」貿易しか認めない。

しかしこのシステムでは相手が一のものを持って来たら

10にして返さねばならない。

あくまで対等では無く

「皇帝が朝貢国に褒美をやる」という建前だからだ。

実際には朝貢国が増えれば増えるほど

明の経済は破綻する。

だから洪武帝は海禁政策つまり鎖国をした。

この背景には中華思想もある。

中国が世界一で他に文明など無いというのが

「中華」ということだから

それ以外の「地域=野蛮国」から

何かを輸入する必要などまったくないことになる。

「中国には何でもある」のだから。

こうした思想に呪縛され中国は

大発展する絶好のチャンスを逃した。

 

 

資本家といえば

かつては倭寇(わこう)と呼ばれ

蔑視された貿易商人もこれに入る。

つまりそうした大商人や金持ちを悪ととらえる点でも

共産主義は朱子学中毒患者である中国人エリートの

ツボにはぴったり嵌ってしまったのである。

 

ひょっとしたら

こんなことは本題とは何もかかわりも無いのでは

と思っているかもしれないがとんでもない。

歴史はすべて「つながり」である。

この時代

日本が躍起になっていたことを思い出していただきたい。

それは国内では憲法制定だが

対外的には条約改正であった。

欧米列強から押しつけられた不平等条約を

何とかして改正したいというのが

対外的には日本のもっとも大きな願望であった。

 

不平等条約改正の目標は大きく分けて2つ。

治外法権の撤廃と関税自主権の回復だが

そもそも不平等条約を押しつけられた過程は

朱子学中毒患者が支配していた徳川幕府が頑なに

通商条約締結を拒んだからであった。

アメリカは最初イギリスとは違って

対等な条件で日本と貿易を始めようと思っていたのに

朱子学に毒された幕府はそんな賤業(せんぎょう)を

神聖なる幕府ができるかとばかり断固拒否の態度に出た。

そこで最初は日本に寛容だったアメリカも

まさに野蛮なやり方で中国を圧倒したイギリスと組んで

日本に不平等条約を押しつけた。

 

日本が憲法制定に熱心だったのは

民権運動の高まりもあるが

むしろ政府側は

立憲国家の形を早く作り上げることこそ

条約改正の早道と考えており

それもあって憲法制定に熱心だったのである。

 

自由貿易とは

お互いが対等であると認め合って

初めて成立するものだ。

対等と言ってもそれは欧米列強つまり

「白人キリスト教徒国家」だけに通用するもので

それ以外の国家は植民地

または領土にされてしまうというのが帝国主義時代

つまり、19世紀末から20世紀初頭の現実であった。

しかし、「非白人非キリスト教徒国家」が

「白人キリスト教徒クラブ」に加入するチャンスはあった。

現にイギリスは、インドはともかく

中国にはそのチャンスを与えようとしたが

中国は頑なにそのルールを変えようとしなかったので

イギリスから見れば

「やむを得ず」アヘン戦争を起こした。

 

もちろんこの戦争は

貿易超過を解消するために麻薬を売りつけ

国民の健康が損なわれると怒った中国を

武力で叩きのめして言う事を聞かせたという

蛮行以外の何物でも無いが

あえて「暴力団」の言い分を聞けば

「中国人はあまりにも尊大で対等な国家を認めようとしない」

ということだっただろう。

中国側から見れば

理不尽なアヘン戦争に惨敗したところで

華夷秩序は崩壊したのである。

それを見ていた日本は曲りなりにも方向転換して

欧米列強つまり

「白人キリスト教徒クラブ」に加入しようとした。

 

問題は宗教である。

後に伊藤博文は「基軸」という言葉を使ったが

欧米列強にはキリスト教という基軸があって

それが国民統合の原理であると同時に

万人平等を保証する「平等化推進体」になっている。

しかし、日本にはそのようなものは無い。

キリスト教の神のような絶対神はいない。

そこで江戸時代以後

朱子学の影響を受けて進んできた天皇の絶対化を

憲法の上で確実なものにしようと

プランナー井上毅は考えた。

 

しかし、欧米の憲法も

キリストを絶対神として規定しているわけでは無い。

そこは世俗化が進みキリスト教を国教として

国民を団結させる形にはなっていない。

たとえばフランス革命では

自由・平等・友愛が叫ばれた。

自由というのは信教の自由も一応は含んでいるのである。

だとしたら欧米のように世俗化を進めたうえで

天皇の絶対化だけは確保しなければいけない。

となると、どんな方法があるか?

 

世俗化は進めなければいけないのだから

「天皇教」が国教になるような形

すなわち「国家神道」ではいけない。

しかし何度も述べたように

天皇という

「平等化推進体」が絶対性を保たない限り

日本の四民平等、つまり士農工商の廃止は実現しない。

 

そこで悩んだ井上が考えたのは

おそらく人類史上

でも他の国家や民族はまず考えない考えつかない

宗教学的あるいは社会学的に見るなら

まさに奇想天外と言っても良いアイデアであった。

何とそれは「神道は宗教では無い」という形で

他の宗教から切り離そうというのである。

 

これは別に井上新説では無い。

たとえば井上毅研究の第一線にいる

宗教学者齊藤智朗(ともお)はその著者で

 

「井上は『神道』を神社のみならず

皇室祭祀や伊勢の神宮、国学、さらに神道教派も

まとめたかたちで捉えた上で『神道』を

世俗主義の文脈から総合的に『非宗教』であると認識した。

つまり、井上は皇室神道・神社神道・教派神道を

すべて『神道』と一つに括(くく)って

『宗教』ではないと捉えたのであり

またこのことは井上の神道政策構想が

内務省管轄下での神社行政だけでなく

皇室制度や教育制度にも波及した、いわば

明治国家全般に関わるものであったことを意味している」

(井上毅と宗教 明治国家形成と世俗主義)

 

と断言していることからもあきらかである。

それにしても専門学者の断言を見ても

まだ信じられない

という人の方が多いのではないだろうか。

無理も無い。べらぼうな話である。

 

たとえば

ここの文中にある教派神道というのは

国家統制から独立して教団を作った神道のことだが

そのひとつ出雲大社教(おおやしろきょう)は

大国主命(おおくにぬしのみこと)

を信仰の対象とするが、その教義は

オオクニヌシが幽界の支配者であるのを認めることである。

幽界というのは、誰がどう考えても宗教の扱う概念であり

他の分野では扱わないものなのだが

それも含めて宗教では無いと言うのは

いったいどういう理屈なのだろうか。

 

明治になるまで日本には

「宗教」という言葉は無かった。

仏教は仏法と呼ばれ、神道もその分派が

〇〇教と名乗るようになったのは明治以降である。

そもそも日本には英語で「religion(宗教)」

と呼ばれる概念に応じる適切な訳語が無かった。

当時の日本人は漢語の知識をもとに

「経済」「哲学」「権利」

といった新語を作りだしたが

これもその一つであり

仏教いや仏法でより専門家された教えを

〇〇宗あるいは宗旨(しゅうし)と呼んだのに

ヒントを得て作られたものである。

 

 

他にも様々な辞書、百科事典も見たが

なかには儒教(朱子学)は宗教では無い

と断言するものもあった。

その理由は儒教の開祖である孔子が

「怪力乱神を語らず」と断言しているところにある。

孔子は「死」についても語ることを拒否している。

つまり神(あるいは超自然現象)や来世に言及

しないのだから「宗教では無い」というのだ。

これは中国人の伝統的考え方でもあり

だからこそ彼らは儒教という言い方を好まず

儒学、朱子学と呼んだ。

 

私は、儒教も朱子学も共産主義

(マルキシズム)も宗教だと考えている。

確かにこれらは無神論という点で共通しており

「神や来世を信じるのが宗教」ならば

その定義に外れていることになる。

しかし、宗教を

「人間生活の究極的な意味をあきらかにし

かつ人間の問題を究極的に解決しうる

と信じられた営みや体制を総称する文化現象」

ととらえるなら

「神観念や聖性」を伴うことは

宗教の絶対必要条件では無い。

ここで肝心なことは

「明治国家形成のグランドデザイナー」

である井上毅(こわし)は

ここのところをどう考えていたかである。

先に紹介した井上の研究者齊藤智朗は

井上が儒教とキリスト教の関係を

どうとらえたかについて

まず聖書の内容に対する井上の批判を

彼の著作から引用し次のように述べている。

 

旧文書なので略

 

つまり朱子学が人生最初の学問であった井上は

中国人の伝統的考えを継承し

キリスト教は「神怪(しんかい)」性

つまり論理的、科学的に証明不可能な事物を

ことさらに扱う非合理な迷信だが

儒教はそういった要素は一切無く

合理的な哲学であると考えていたのである。

 

井上の基本的思想がこうなら、たとえば

「明治政府は、祭政一致の方針をとり

神道の国教化をすすめた」

という村上重良を中心とする

「国家神道」論者の見方が

正確では無いことがわかるだろう。

 

まず井上は天皇絶対主義者ではあるが

宗教は迷信であるという信念の持ち主である。

その井上が軽蔑する「神怪」の類に

天皇を加えようとするはずが無いではないか。

しかし、子供のころ

「朱子学」に井上が洗脳されてしまったように

村上が子供のときには明確に存在していた

「天皇=現人神」という思想が

村上を誤らせたことは間違い無い。

 

それに井上の態度にも大きな矛盾がある。

井上のキリスト教批判に見られる

「神の子と称したイエスが

数々の奇跡を起こし神の国の到来を説いた」

ことを示すのだろうが、それを言うなら

「古事記」「日本書紀」で

神の子孫であるとされた神武天皇が

突如現れた金鵄(きんし)の輝きによって

敵を撃退したなどという

「奇蹟」についてはどう考えるのか?

儒教に基づいてそうした「神話」も

キリスト教と同様に認めない

というなら話はわかるが

井上は少なくともそれを

積極的には否定していないのである。

 

その井上の

「グランドデザイン」はすでに述べたように

神道それも天皇家がかかわる祭祀の部分だけを

一般宗教とは別枠の扱いとし

宗教では無く国家の基本道徳として扱うことであった。

私なりに整理すれば

すなわち新たに制定される帝国憲法においては

天皇の存在は宗教を超越した絶対的な存在である。

しかし、それは「天皇は現人神である」

という「信仰」を創出するということでは無い。

それでは天皇を「神怪」とする「宗教」になってしまう。

そうでは無くて

そんな宗教的概念をすべて超越したところに天皇は存在し

(この考え方自体が宗教的なのだが)

その下に国民が議会を形成できるし信仰の自由もある

ということだ。

 

一方、「天皇が『神怪』では無い」ということは

その祭祀を管理する伊勢神宮は

当然宗教行政を担当する内務省では無く

宮内省が管理すべきであり

神官は官吏(かんり)であるべきだ。

逆に、そうした天皇家の祭祀と

切り離された神社は宗教を扱って良い。

つまり内務省の管轄となり神官は民間人となるし

もちろん「来世はどうなる」

といった教説を語っても良い。

言うまでも無く信教の自由があるからだ。

しかし、この「自由」には

天皇の絶対性を否定する権利は無い。

ひょっとしたら井上は帝国憲法上の天皇は

「来世を語らない」から「神怪」では無い

と考えていたのかもしれない。

何度も言うが、儒教的考えによればそうなるからである。

 

つづく