↑より抜粋

 

最後にして最大級の士族の反乱であった

西南戦争が士族側の敗北に終わると

武力をもって政治の方向性を変えようとする運動は

完全に終止符が打たれた。

そこで、いわゆる「不平士族」たちは

板垣退助らの自由民権運動の路線を受け継ぎ

政治参画の権利を求めて国会開設を訴えていくことになる。

 

一方、政府はすでに1875年(明治8)6月に

讒謗律(ざんぼうりつ)および新聞紙条例等を制定して

国家を批判する言論を厳しく取り締まったが

地方三新法を制定して今の県議会府議会にあたる

民会を先に設立して民意を汲み上げる姿勢も示した。

「アメとムチ」ということだろう。

民権運動家たちは1880年(明治13)

国会期成同盟を結成し国会開設請願書を

太政官に提出しようとしたが門前払いにされた。

逆に政府は新たに集会条例を定め政治結社の活動を制限した。

 

こうしたなか、国会開設を視野に入れた

民間政党の最初のものとして

板垣退助を総理(党首)とする自由党が結成された。

1881年(明治14)10月のことである。

 

西南戦争の影響は国家財政にもおよんでいた。

莫大な戦費を賄うために

正貨である金や銀と交換できない

不換紙幣を濫発したことから

国内に激しいインフレーションが起こり

日本貨幣の価値が急落した。

そこで1880年(明治13)

大蔵卿大隈重信が中心となり

国家財政を安定させるために間接税を増やし

官営工場を払い下げる方針を決めた。

その方針を受け継いだ新任の大蔵卿松方正義は

緊縮財政つまりデフレ政策を取り

1882年(明治15)に日本銀行を設立し

兌換券:だかんけん(正貨と交換できる紙幣)を発行した。

 

これで一応近代的な銀本位の貨幣制度が成立したのだが

逆にデフレ政策は物価の下落を招き不況の長期化を引き起こして

中小の自作農が土地を手放し大地主の下で小作人に転落した。

すなわち、大地主による農地の寡占化が進むこととなった。

こうした財政面で実務的手腕を示し

政府に重きをなした大隈重信は

持論であるイギリス流の議員内閣制の早期実現を目指した。

これには福澤諭吉も賛同していたようで

政府部内の大熊と在野の福澤が

タッグを組んでその路線を進めていた。

これに危機感を抱いたのが大久保亡きあと

政府内ナンバーワンの実力者となった岩倉具視である。

 

公家出身の岩倉はイギリス流のやり方では

天皇の権限が著しく制限されることになるとみていた。

イギリスの国会は古くは13世紀に

ジョン王がマグナカルタ(大憲章)に著名して以来

名誉革命など王権を民権が制限するという流れできているからだ。

岩倉は王権をむしろ強化するような憲法こそ理想と考えていた。

おそらくは、明治になって「しゃしゃりでてきた」

薩長以外の「志士」たちに

反感を持っていた伊藤博文も岩倉の考えを支持した。

どちらかと言えば西郷隆盛に引き立てられた大熊と違い伊藤は

大久保の「国会など開設する前にやることが山ほどある」

の見解に賛成だったのである。

この路線対立が深刻な勢力争いに発展し

「明治14年の政変」を招いた。

 

そのきっかけとなった

「開拓使官有物払い下げ問題」とは

あの「妻殺し」の北海道開使長官で薩摩出身の黒田清隆が

「政府がそれまで10年間に約1400万円つぎこんできた

開拓使の官有財産を

無利息30カ年賦38万円という不当な安価で

薩派の政商五代友厚らの関西貿易商会に払い下げようとした」

事件で、これが民間に漏れて大問題となった。

政府部内では大隈だけがこの不当な払い下げに反対していたので

陰謀の名手である岩倉・伊藤らは逆に

「大隈は薩長藩閥打倒のために河野敏鎌(こうのとがま)

農商務卿らと謀り、輩下の官僚に働きかけて

福澤ら三田派と通謀し、後藤象二郎(しょうじろう)

板垣退助ら土佐派の民権家と気脈を通じ

政商岩崎弥太郎(三菱)に資金を出させ、陰謀をはかっている」

という「大隈陰謀説」をでっち上げ

薩摩の黒田とも連携し

払い下げ問題は追及しない代わりに取り下げ

一致して大隈を罷免に追い込んだ。

しかし、国民をなだめるために

「1890年に必ず国会を開設する」という内容の

「国会開設の勅論」を出さざるを得ず

タイムリミットが切られる形となった。

それは、その年までに総選挙を実行するという公約でもあるから

遅くともその前年1889年までには「国会」

そして「主権」を明確に定める憲法を制定し

施行しなければならないということだ。

 

下野した大隈は板垣のフランス流自由主義に対抗して

イギリス流の立憲改進党を創立した。

一方、1884年(明治17)には

自由党過激派困民党などによる暴動

「群馬事件」「秩父事件」「加波山(かばさん)事件」

が相次いで起こり

政府はこれを鎮圧し首謀者を死刑にしたものの

国会開設要求の機運はますます盛り上がった。

こうしたなか、民間でも憲法を考える動きが盛んとなり

福澤諭吉や植木枝盛(えもり)が憲法私案を次々に発表した。

 

そして、いよいよ憲法制定を目指した伊藤博文は

政府を代表してプロシアに短期留学に向かうわけだが

こうした教科書の記述によると

伊藤が主に留学で学んだ知識を生かして

憲法の制定を推進したようにも読める。

実際、憲法制定の中心人物は伊藤博文に間違いないのだが

じつはこの陰にプロシア留学以前からすでに

伊藤の憲法構想に決定的な影響を与え

その方向性を決めていた人物がいたのである。

それがここで紹介した通説のなかには

まったく出てこない人物だが

最近の日本歴史学界でもその存在を重視している人物でもある。

その人物名を井上毅(こわし)という。

 

井上は熊本藩の出身だから、薩長土肥の出身者のように

政府に有力なコネがあったわけではない。

それでも出世したのは大久保利通に見出されたからだ。

元幕臣の前島密(ひそか)を官僚として重用したように

大久保には優秀な人材を見抜く能力があったようだ。

やはり暗殺されたことは政府にとって大きな痛手であった。

 

大隈も伊藤も、天皇を中心とした

立憲国家にすることには意見の対立は無い。

問題は民権をどの程度まで認めるかであった。

この点、大隈は一貫してイギリス流の

「国王は君臨しれども統治せず」を基調とした

最大限に王権を制限して民権を認めるという考え方であった。

フランスは絶対的な王権を持つ国王を革命で否定し

国王を処刑して共和国(王のいない国)になった。

江戸時代以来「尊皇」が国是となっている日本にとって

これだけは認められない体制である。

 

それよりも名誉革命という形で

王権を最大限に制約し民権を拡張しつつも

王制はそのまま残す形を取ったイギリス流のやり方のほうが

日本人にも受け入れられやすい

と大隈が考えたのは当然だったかもしれない。

イギリスは当時世界一の大国であって

日本の「手本」であったことも忘れてはいけない。

そして、この大隈の考えと思想的に一致していたのが

慶応義塾大学の創立者でもある福澤諭吉とその弟子たち

(三田派)同じく福澤が設立した民間人の交流団体

「交詢社(こうじゅんしゃ)」グループであった。

 

しかし、岩倉具視は違う。

天皇は絶対であるがゆえに

「君臨し統治すべき」なのである。

これを何とかしなければいけない。

そのために大隈が取った手段が

政府部内においては最後まで自分の考えを秘し

最終段階で一気に流れを決めてしまおうというものだった。

そしてすべての参議が

あるべき憲法の形について意見書を提出した後

当時筆頭参議であった大隈は1881年

つまり明治14年の3月になって初めて意見書を草し

それを左大臣有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)

親王に直接提出した。

 

そのとき大隈は、明治天皇に奏上するまでは

他の参議には内容を漏らさないでいただきたい

と念を押したという。

前後の事情から見て大隈は、天皇への奏上が済んでしまえば

それは「陛下の御裁可」をいただいたことになる。

それを振りかざして強行突破しようとしたのではないか。

ところが、有栖川宮はその「急進的」な内容に驚いて

太政大臣三条実美(さねとみ)と

右大臣岩倉具視にそれを見せてしまった。

こうなれば伊藤博文の耳にも入る。

内容を知った伊藤はここで大隈と決別する決意を固めた。

ここに岩倉・伊藤連合VS大隈派という対立の構図ができた。

 

しかし、岩倉・伊藤連合には大きな弱点があった。

大隈派には交詢社グループが私擬憲法(憲法試案)

を発表するなど、明確なビジョンがあり青写真があった。

ところが岩倉・伊藤グループには

「それではダメだ」という主張はあっても

では具体的にどうするのか?というビジョンも私案も無い。

向こうはすでに出来あがっているのだから

時間的にもはるかに後れをとっている。

大隈が強硬手段に出た理由の一つに

これがあったのかもしれない。

すなわち敵の体制の整わないうちに勝負に出る

ということであり兵法の鉄則でもある。

岩倉・伊藤連合がこの窮状を打開するためには

優秀な軍師いやブレーンを必要とした。

ここで「颯爽と」登場したのが井上毅なのである。

 

さて読者の皆さんもここで考えていただきたい。

あなたが「大隈の陰謀」を阻止しようとしたら

どういう手を打てばいいか。

それが「明治14年の政変」の最後に出された

「国会開設の勅論」であった。

明治天皇の名をもって

「明治23年を期して、議員を召して国会

(議会)を開設すること、欽定憲法を定めること」

と宣言したものである。

これが政治的には

じつに絶妙な一手であることはおわかりだろうか?

 

「10年後に国会を開設する

(総選挙のために前年までには憲法を制定する)」

ということは、「コンペの締め切りが延期された」

ということなのである。

機先を制し、いち早く憲法案を構築した

大隈・福澤派のアドバンテージが完全に消されてしまったのだ。

 

 

つまりこの憲法は

天皇自らが臣下に命じて策定するとあるから

それを待たずしてこれまでのような

私擬憲法を出すことは大袈裟に言えば天皇への反逆行為となる

いや、決して大袈裟では無い。

この10年を待たずしてみだりに騒ぎ治安を乱す者は

国法をもって処罰すると明確に警告しているのである。

これとほぼ同時に

政府部内の大隈派はことごとく罷免追放された。

そして北海道開拓使の官有物払い下げも取りやめとなり

これに関する不正疑惑は闇に葬られた。

 

これでお分りになったと思うが

明治14年の政変は

歴史の分岐点とも言うべき重大な事件であった。

もし井上毅がこの時点で伊藤や岩倉をたき付けなかったら

その後はどうなっていただろう。

じつは岩倉はこの2年後の明治16年(1883)に喉頭癌

(日本で最初に癌告知を受けた人物だと言われる)

でこの世を去るのだが、すでにこの頃から健康を損ねていた。

療養を重ね、政務に集中できる体では無かったのである。

 

もし井上が動かなければ

他ならぬ井上自身が分析しているように

岩倉が死ぬころにはイギリス流の憲法を制定せよ

という世論が強くなり

日本はまさにそういう憲法を持ったに違いない。

天皇のもとに3人の大臣がいるが

太政大臣三条はお飾りで

左大臣有栖川宮も実力者では無い。

大臣としてはもっとも下位の右大臣岩倉こそ維新の功臣でもあり

天皇の信頼も厚く政府部内で最大の発言力があった。

参議としては大隈のほうが上席なのである。

もし岩倉が味方につかなければ

伊藤は大隈を追放することができなかっただろう。

 

岩倉という文字通り「保守反動」が

一人政府部内に生き残っていたことは

やはり日本の不幸だったと言うべきかもしれない。

岩倉に「格」から言って対抗できる維新の三傑’(さんけつ)

西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通はすでにこの世を去り

勝海舟は元幕臣であるがゆえに

政府部内への影響力は岩倉におよばない。

もう一人、岩倉に対抗できる人物として島津久光がいたが

久光もあまりに過激な復古主義を唱えたために

棚上げ状態にされていたから

言わば岩倉の一人天下であった。

岩倉から見れば13歳年下の大隈、16歳年下の伊藤など

「鼻たれ小僧」であったろう。

その岩倉にとって、「鼻たれ小僧」の大隈や

10歳下の福澤が進めていたイギリス流の憲法制定と

それに基づく国家の構築は、我慢のならないものであった。

この岩倉の不満というものが

学界も含めてあまり理解されていないようだ。

 

 

「藩閥政府の悪」と言えば

かつては長州閥の専売特許であった。

権力を悪用し民間人から銅山を奪った

尾去沢(おさりざわ)銅山事件

あるいは長州出身の政商に

国家予算から膨大なカネを流用させた

山城屋和助(やましろやわすけ)事件

いずれも長州の井上馨(かおる)

山県有朋(やまがたありとも)が絡んでいたと考えられるのに

彼らは何の処罰も受けなかった。

それどころか

彼らの悪を追及しようとした佐賀の江藤新平は

逆に犯罪者の立場に追い込まれ斬首のうえ

梟首(きょうしゅ)という極刑に処された。

西南戦争を起こした西郷隆盛には

そうした貪官汚吏(たんかんおり)

に対する激しい怒りがあった。

ここのところ、国民作家司馬遼太郎は次のように述べている。

 

ともかく、江藤も西郷も

史上まれにみるほどに正義がありすぎた。

しかもその正義のために彼らは滅び

あまつさえ賊名を着せられた。

それに、皮肉なことに西郷を討った政府軍の総司令官は

山県有朋だった。

またその軍費の工面をしたのは、井上馨だった。

こういう言い方は子供っぽいかと思われるが

彼らはのちに公爵あるいは候爵になる。

(この国のかたち ニ)

 

まさに同感なのだが

司馬遼太郎がこれに続いて述べていることには異論がある。

 

しかし、江藤や西郷の霊も、浮かばれなかったとは言えない。

この乱による襲撃がどうやら官員たちを粛然とさせたらしく

その後、明治が終るまで

ほとんど汚職事件というものはなかった。

死者たちの骨は

その面での礎石(いしずえ)になったのである。

 

残念ながら西郷の死後わずか4年で

「開拓使官有物不正払い下げ」

という大規模な汚職事件が、しかも長州では無く

薩摩の人間によって起こされたのである。

「西郷の霊」はむしろ「浮かばれなかった」のではないか。

政府財政はこのとき他ならぬ西南戦争の戦費調達のため

井上馨が不換紙幣を濫発し危機に瀕していた。

だからこそ後始末を任された大隈は

官有物払い下げの方針を決めたのである。

民間企業育成のためなら「できるだけ安く」が正しいが

財政の穴埋めのためであるから

少なくとも適正な価格で売るべきなのだが

黒田清隆はまさにその逆をやろうとしたのだ。

それにしても司馬遼太郎ともあろうものが

どうして「汚職事件というものはなかった」

などと述べたのか。

確かにこの事件は「未遂」に終わり

井上や山県のときのように「成功」こそしなかったのだが

問題は汚職しようとした人間が薩摩にいた、ということだ。

 

不正を追及しようとした大隈の「正義」は葬られてしまった。

ちなみに、伊藤と黒田はともに

大日本帝国内閣総理大臣にもなっている。

初代、5代、7代、10代が伊藤

2代が黒田である。

 

つづく