↑より抜粋
「和(わ)を以(もっ)て貴(たっと)しと為(な)す」
は有名だが、「日本書紀」の原文はもっとずっと長い。
人間にとって一番大切なのは和を保ち
それを乱さないことである。
しかしながら人はグループを作りいがみ合い
また全体を見ている者は少ない。
だから、父や主君に従わなかったり
隣人同士で争いを起こしたりする。
しかし、上も下も協調し合い
事柄を話し合いで解決すれば
物事はすべて正しく何事も達成することができる。
要するに聖徳太子が言っているのは
「和を保つことが人間にとって一番大切(第一条)で
そのためにはすべて話し合いで解決せよ。
話し合いで解決しさえすればその内容はすべて正しく
(道理にかない)何でも成功する」
ということなのである。
もう一度、第一条をよく読んでいただきたい。
「上も下も和(やわ)らぎ睦(むつ)びて」とある。
これが時代背景を考えればどれほど異常なことかも
歴史学者の方々は気がついていない。
時代は7世紀である。
聖徳太子はこの時点で摂政(せっしょう)
つまり天皇代理であり、この国のナンバー2だ。
「オレの命令には絶対服従だぞ。逆らえば死刑だ」
と言える立場なのである。
この時代は世界中どこでも王者は絶対的な権力者であるから
問題が起こっても「下」と話し合う必要などはまったく無い。
それが世界の常識だ。
確かに第3条で
「詔:みことのり(天皇の命令)を承りては必ず謹(つつし)め(従え)」
とは言っている。
しかし、それは第3条であって第1条では無い。
もっとも重要な事は、天皇の命令に従う事より
「話し合いで物事を決める」事なのである。
それで物事が解決された状態を「和」と言う。
だから「和」が第3条の天皇の命令よりも
第2条の仏教尊重よりも
日本人にとって大切なことなのである。
要するに聖徳太子は、というより日本人は
「話し合い」という意思決定方法が完全で
無謬:むびゅう(理論や判断にまちがいがないこと)
なものだと信じているわけだ。
「話し合い」による意思決定が完全で無謬なものならば
物事は絶対に「話し合い」以外の方法で決定してはならないはずである。
そんなことをすれば決定した「事柄」は
正しくもないし失敗することにもなるからだ。
では「話し合い」以外の物事を決定する方法とは何か?
「話し合い」とは複数で協議すること
ならばその逆は単数で協議せずに決めること。
要するに「独断」である。
「憲法17条」に対する解釈が正しいならば
聖徳太子は当然「独断」で決めてはならない
と考えていたはずである。
第1条と第17条はリンクしている。
そこで第17条を見ていただきたい。
「それ事は独(ひと)り断(さだ)むべからず
必ず衆(もろもろ)と 論(あげつら)ふべし」
つまり
「独断で決めてはならない。必ず皆の話し合いで決めよ」
と書いてあるではないか。
大事な事は最初か最後に書くという
世界の常識に照らして
聖徳太子がわざわざ後世の人間が
自分の真意を誤解しないように
第1条と第17条で同じ事を
別の言い方で表現してくれているのだから
普通の読解力を持った者なら
何を一番強調したかったかおわかりだろう。
念のためだが、聖徳太子は実在しなかった
という説を唱える向きがあることは承知している。
しかし、仮に将来何らかの形で
「聖徳太子は実在しなかった」ということが
完璧に学問的に証明されたとしても
「憲法17条」は他ならぬ「日本書紀」に
「偉大な人物が述べた理想の法」
として記録されているからだ。
つまり、聖徳太子が実在しようがしまいが
そうした信仰があったという事実は
これからも未来永劫否定されないからである。
この「話し合い絶対主義に基づく和」は
日本人の信仰の根幹部分で
これについて理解および認識が無ければ
まさにキリスト教抜きの西欧史になってしまう
危険性があるということは申し上げておこう。
ここではさらに、日本の歴史学界のもう一つの重大欠陥
「社会的常識を無視した権威主義」について述べておこう。
本稿を執筆している時点で
世界は新型コロナウイルスに悩まされているが
こういう状況だとより理解しやすい歴史上の事例がある。
それは「孝明天皇暗殺説」である。
まず歴史上の常識として誰もが認めるのが
あのタイミングで孝明天皇が崩御したことにより
長州嫌いの孝明帝とは逆の立場の明治天皇が即位し
政治の流れが完全に変わったということだろう。
「長州絶対有利」の状況になった。
そこで、当時日本で活躍していたイギリスの外交官
アーネスト・サトウが
「孝明天皇の死は毒殺であると確かな筋から聞いた」
などと回想録に書いたこともあり
「孝明天皇は天然痘感染で亡くなったのでは無く毒を盛られた」
という学説が存在した。
しかし、歴史学者・原口清が孝明天皇の病状記録と
天然痘の罹患(りかん)状況を詳しく検討し
孝明天皇は確かに天然痘で亡くなったと結論づけたため
多くの学者はそれで納得してしまったようだが
私はそれでいいのかと言いたい。
それでもまだ、孝明天皇の死は暗殺である可能性がある。
なぜなら、当時の日本人は天然痘が伝染病であることも
感染しない方法も知っていた。
種痘(しゅとう)である。(天然痘の予防接種のこと)
長州藩などには専門医もいた。
だが西洋文明を嫌う孝明天皇は種痘などしていない。
一方、明治天皇(当時は祐宮:さちのみや)も
宮中の長州派も種痘をしているから
宮中に患者の膿(うみ)などを持ち込んで
接触させても味方は安全である。
要するに、死因が天然痘であったことが確定しても
暗殺では無かったとは言い切れない。
反対派による「ウイルステロ」
の可能性もあったということだ。
天皇の御所は
「九重の内(ここのえのうち)」ともいう。
天皇は外界から完全に遮断された
幾重もの壁の中にいて滅多に外出もしない。
そして外部の人間と会う時は
よほど親しい間柄で無い限り御簾(みす)という
「バリア」を垂らした状態で会う。
つまり天皇は、今の言葉で言えば
「隔離病棟」にいるようなもので
もっとも感染とは遠い環境にいるはずの存在なのである。
それでも、宮中で天然痘が流行していた
というならば話は分からないでもない。
天皇の側近たちはやはり西洋嫌いで
彼らは外出することもあるから
外部で感染して天皇も罹患(りかん)してしまった
ということならば理解できる。
しかし、実際は孝明天皇だけが発病したのである。
おかしいではないか。
なぜ女官や近臣(きんしん)の間で流行したわけでも無いのに
宮中ではもっとも感染する可能性の低いはずの天皇だけ発病したのか?
ウイルステロという意味がおわかりだろう。
いくらなんでも天皇暗殺を謀るはずが無い
という反論はあるだろう。
確かに、リスクが大きい。
しかし、狙ったのは暗殺では無く発病であったとすればどうか。
反対派の目的は孝明天皇を退位させることである。
暗殺までする必要はまったく無い。
そして神道の信者として「ケガレ」を何よりも嫌っていた天皇が
天然痘になった後に回復しても顔に醜い痘痕(あばた)が残れば
それを恥じて退位するであろうことは事前に予測がついた。
やはり、ウイルステロによる暗殺説は否定できない。
また、2020年2月に「徳川家康」藤井譲治著
という本が出版された。
日本歴史学会編集の「人物叢書(そうしょ)」
の一冊として、である。
家康が実は世界宗教史上きわめて異色の
「生前の神になることを宣言し実現させた人物」
であることに気がついていない。
この自己神格化は織田信長が始め、豊臣秀吉に受け継がれ
家康が完成させた、世界でも珍しい独自の「宗教的実験」であり
それは神の子孫であることで
日本の正統な権力者であると主張する
天皇家に対抗するための「宗教的政策」なのだが
そうした視点はまったく見られない。
これもまた宗教の無視である。
たとえば江戸時代の当初から幕末の歴史を研究するには
「朱子学」という中国発の宗教の研究を抜きにしては
不可能だと私は思うのだが
日本の歴史学界はこういうところも無視している。
この巻おわり
↓真実を探すブログより抜粋
聖徳太子はネストリウス派キリスト教
(中国では景教と言われていたもの)
厩戸皇子(うまやどのおうじ)とかは聖書のキリストが
馬小屋で産まれたとかいう部分からの影響かと思います。
三柱鳥居は三位一体 秦氏は本物のユダヤ人
三柱鳥居は「ネストリウス派キリスト教」で三位一体を表している。
三柱鳥居は文字の通り3本の柱で鳥居が作られているものです。
仏教の弥勒菩薩像で薬指だけを曲げているポーズは三位一体を表していて
仏教を信仰しているふりをしているが
仏像の中にキリスト教の三位一体のサインを入れている
ということで聖徳太子は隠れキリシタンという説が言われています。
ここ2000年ぐらい「天」が地球外と思わされ
「空洞人」が神とスピンされ続けてきた歴史だった!?
例えばイエス・キリストは「神の子」であって
「神」そのものではないわけです。
これを神を空洞人に言い換えるとイエス・キリストは
「空洞人の子」であって「空洞人」ではないわけです。
イエス・キリストは本物のユダヤ人なので黄色人種です。
モーセやムハンマドなどは「預言者」と呼ばれていて
「預言者とは」神の言葉を代弁する人というような意味です。
もしかすると空洞人からの伝言を伝える役割をしていたのかもしれません。
多神教の宗教が最初は多かったのに、一神教になっていったのは
空洞人達の存在が神々、その代表者が神と考えると
空洞人たちの存在が忘れられ
空洞人の代表者であるイエス・キリストなどの空洞人の代表者だけが
知られるようになったからではないでしょうか。
意図的に空の方向、宇宙の方向を天と誤魔化して
神(空洞人達)は空の方向にいるんだよと
長年誤魔化し続けてきたのがここ2000年の歴史かもしれません。
そしてアーメンなどと天が空の方向にあると思わされて
空に向かってお祈りさせられていたのかもしれません。
イエス・キリストが神の子、空洞人の子供でマリアは処女で妊娠。
その結果生まれたのがイエス・キリストです。
神が空洞人だとするとマリアは空洞人で処女で体外受精により
イエス・キリストが生まれたということも考えられます。
そのことを神格化したり天を空の方だというふうに
スピンしたりしているのが話になっているのが聖書かもしれません。
他の記事で、モーセの海割りがトンボロ現象で
干潮の時に島に渡れるようになる現象をオーバーにしたのが
「モーセの海割り」ではないかと紹介していました。
預言者モーセの「モーセの十戒」は
空洞人の伝言を伝えたものかもしれません。
モーセはDNAのハプログループJだと分かっています。
それはモーセと本物のユダヤ人がシナイ半島に逃げて
その辺りにハプログループJの人たちが多いからです。
そしてこの前、偽旗事件の疑惑のある
テロがあったスリランカもハプログループJの地域です。
聖書には「我々」というふうに複数形になっているのと
単数形になっている部分があるようです。
おそらく「空洞人達」が「我々」ということなんでしょう。 」
NASAが月面着陸のスタジオ撮影をしたり
火星の開発、SPACE-X、ホリエモンの宇宙旅行
宇宙人詐欺など地球外に目を向けさせるスピンが
ここ2000年ぐらい続いてきたのかもしれません。
ギリシャの人達は地球が丸いことを知っていましたが
キリスト教では地球平面なんだよと思わせようとしていたのも
球体を隠すためのものだったかもしれません。
球体を隠すことにより空洞の存在にも気付かせない
というトリックだったのかもしれません。
おそらく1%の自称支配者層側からしたら
空、宇宙、地球の外側に関心や興味を持たせて
「あっち向いてホイ」のように、地球空洞人に興味を向けさせない
ということをし続けてきたのではないでしょうか。
最近ではフラットアース説を出すことにより
地球の自転エネルギーによるフリーエネルギー(無料エネルギー)
まで隠そうとしていたのかもしれません。
日本の神話や他の神話も、もしかすると天→地球空洞、神→空洞人
と置き換えると話が通じるかもしれません。
そういえば大昔のギリシャの人は地球が丸いことを知っていたようです。
聖徳太子の地球儀というものもあるし
地球は丸いと知っていた人もいたのでしょう。
聖徳太子はネストリウス派キリスト教(景教徒)ではないかという動画がありました。
聖徳太子の側近の秦河勝が秦氏で本物のユダヤ人です。
銅鏡の中心部分が半球状になっていて、地球儀になっているという情報もあります。
「秦」の始皇帝なども「秦」氏と同様に
本物のユダヤ人だったのではないかということも言われています。
秦の始皇帝は日本に不老不死の薬草を探させに徐福一行を送りましたが
徐福一行は見付けることができる多くの人達がそのまま
日本に住み着いたようです。
秦の始皇帝は常温でも液体の金属の水銀を不老不死の薬と勘違いして
結果的に寿命が短くなってしまったようです。
水銀を不老不死の薬と勘違いしていた人は昔は他にもいたようです。
兵馬俑が発掘された場所には水銀の川が作られていたようで
水銀が蒸発した痕跡があるようです。
水銀を不老不死の薬と勘違いしていた人は他にもいて
ジョージ・ワシントン元偽大統領もだったようです。
それで早死にしたようです。
偽装死疑惑のプリンスさんの話では
ジョージ・ワシントンの前に7、8人の大統領がいて
それを知ったプリンスさんは誰かをぶちたくなったんだとかいう話があったと思います。
アメリカの元偽大統領はほとんどがフリーメイソンなのでしょう。
ノアの箱舟の話で大洪水の水は月から来たんだという説もありました。
月の中が空洞で、重心が偏っていて
起き上がりこぼしのように偏っているから月は常に同じ面をこちらに向けています。
月の中心部分にあった核が片側に落ちているのかもしれません。
そして月の外側を無人機が撮影したとされている映像では
外側にクレーターがたくさんありました。
月のクレーターは数百年前は火山の痕だという説が主流だったようです。
月のクレーターの真ん中に小さな盛り上がりがありますが
あれがカルデラだという説は以前記事に書いていました。
マグマが遠心力で月の軌道の外側に集まり
火山が外側に多かったのかもしれません。
ノアの箱舟の水は、もしかしたら地球の内部から来たのかもしれません。
椰子の実ジュース ノアの箱舟の水が外に出た後、空洞人が住み始めたのか

1本の木が複数の地層をまたがっているものがあります。
多層貫通化石というらしいですが。
年輪のように少しずつ積み重なったと思わされていましたが
少なくともこういう地層はノアの箱舟のような洪水で
地表が一気に混ぜられて
重さの順に一時期に積み重なったということなんでしょう。
ヤシの実状態でヤシの実ジュースのように
溜まっていた水が中から出てきたのかもしれません。
洪水→一気に積もって地層に
↓
ノアの箱舟
↓
地球空洞部分から水が出て中に住めるように
↓
移動
↓
空洞人に
↓
空洞人が空洞部分を独占
↓
バベルのトンネルを掘って空洞に入っていこうとする人も
↓
空洞人たちが焦って地上に上がって行って
言葉を乱し、バベルのトンネル掘りをやめさせた。
↓
「空洞人は神々で天にいて、天というのはは空の方向だよ
地球は平らで空洞なんてないよ。」と聖書でスピン
↓
NASA 米ソの八百長冷戦で宇宙開発競争だ 空を見なよ
キューブリック監督が月面着陸をスタジオ撮影
↓
上を向いて歩こう 空を見なよ
天空の城ラピュタ 空を見なよ
火星探索だ 空の方を見なよ
↓
イーロン・マスクやホリエモンがロケットで宇宙だ 空の方を見なよ
こういう感じでここ2000年ぐらい
空洞部分から矛先反らしがされていたのかもしれません。
天空の城ラピュタは天地逆で実際は
空洞部分のことを表しているのかもしれません。
↑より抜粋
古今集時代の「きみ」は
主人、家長、友人、愛人などを意味する二人称
三人称で幅広く使われていた。
つまり「君」は天皇を指しておらず
従って当然天皇賛歌では無く
不特定の「相手」の長寿を願う「賀歌(がか)」
賀の歌=祝いの気持ちを表した歌
特に長寿を祈る歌だったということだ。
江戸時代の日本には国旗も無ければ国歌も無かった。
特に国旗というのは他の国と区別するために用いるものである。
鎖国をしている限りそんなものは要らない。
しかし日本も外洋航海できる蒸気船を保有するようになると
他国の船と区別する必要が生じた。
そこで、昔から日本人好みのデザインとして知られており
戦国武将も自分の旗指し物に使っていた
「日の丸」を取りあえず船印として採用した。
それが日本を象徴するデザインとして
諸外国にも広く知られるようになり
結局国旗として採用されることにもなった。
一方、国歌を演奏しなければならない
という場面はなかなか訪れなかった。
軍楽隊も無ければ国賓の来訪も無かったからである。
しかし、さすがに
大日本帝国としての体裁が整ってくるとそれが必要になった。
他国との公式行事を行なう際は
双方の国歌を演奏するのが国際儀礼である。
そのためにフェントンは、日本側に
「国歌を早急に作成する必要がある」
と説いたのであろう。
(フェントンの曲は歌詞とまったく合わず
きわめて不評だったので
宮内省雅楽課に作曲が委嘱(いしょく)され
伶人長(れいじんちょう)の
林広守の旋律(せんりつ)が採用され
ドイツ人エッケルトが編曲した。
これが現在知られている「君が代」である)
それに対して
たまたま「担当者」になってしまった大山巌(いわお)は
おそらく多くの人が知っている
おめでたい歌ということで
「君が代」を推薦したに違いない。
私はこの大山のセンスに敬意を表したい。
世界の国歌はだいたい二種類に分類できる。
一つは「国あるいは国王に対する祝歌」であり
イギリス国歌、アメリカ合衆国国歌が代表的なものである。
もう一つは「軍歌」であり
フランス国歌、中華人民共和国国歌が代表的なもので
これらの歌詞はきわめて過激である。
ところが「君が代」はそのどちらでも無い。
国歌というのはトランプ大統領と同じで
「自国ファースト」であるのが常識だが
この歌は自分では無く相手の幸福を祈るものなのである。
西郷隆盛のイトコで陸軍畑を歩んだ大山だが
後妻には会津出身の山川捨松(すてまつ)を迎え
夫婦の会話は英語でするという開明的なところもあったから
「君が代」を選んだのだろう。
天皇を「神」として持ち上げるつもりならば
他に国歌の候補はいくらでもあった。
「万葉集」なら
柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ)の
「大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば
天雲(あまくも)の雷の上に廬(いほ)らせるかも」
などという類の天皇賛歌が何首もある。
しかし大山はこれらを選ばなかった。
幕末の武士としてこれぐらいの歌は知っていただろうし
知人友人にそれを求めることもできたろう。
後の事はともかく、この時点では
「君が代」は天皇賛歌では無い。
天皇賛歌だったら「君」では無く「大君」であり
「代」というのは失礼で
「御代(みよ)」でなければならない。
では「大君の御代」では無い
「君が代」はいったいどんな意味なのか?
子供のころ「いわおとなりて」の部分を
「岩音鳴りて」だと思い込んでいた人も
結構いるのではないだろうか。
君が世は
千代に八千代に
さざれいしの
巌となりて
こけのむすまで
(大意)
あなたの御寿命は
何千年も
小石が寄り集まって
巌(巨大な岩)と成り
それが苔むすまで続きますように
つまりこれは
「河原にある小さな石が
長い年月をかけて大きな岩に成長する」
という意味で、「君が代」つまり
「あなたの時代、あなたの寿命」が
それほど「長い年月」続いてください
というのがこの歌の全体の意味である。
では実際には
「小石が長い年月をかけ大岩に成長する」
ということはあり得るのだろうか?
一般的にはむしろ大岩の方が
川の流れなどの物理的な力によって小石に分解される
という考え方の方が合理的であると言えないことも無い。
そこでかつて「左翼系」からは
「この歌は非科学的だ」という批判が浴びせられた。
ところが、この事に不快感を抱いていた
「右翼系」の人々を喜ばせるニュースがあった。
岐阜県在住の小林宗一という石の研究者が
揖斐(いび)郡春日村で発見され
県指定の天然記念物となっていた
「石灰質角礫岩(かくれきがん)」こそ
「さざれいし」だという研究結果を発表したのである。
これはまさに小石が石灰質に取り込まれて
大きな岩に成長したもので
小林説はこの石の存在が都にも知られ
「君が代」という歌が作られるきっかけとなった
というものだ。
残念ながら、それを確実に証明する史料は存在しない。
しかし、この石は古くから存在するものだから
小林説をまったく否定することもできないのだが
私は「小石が大岩に成長する」という考え方は
こうした「実物」以前からあった考え方だと思っている。
この一件は、そもそもの発端となった「左」の批判がおかしい。
「君が代」の原典は、今から一千年以上も前に詠まれた和歌である。
それを現代の科学的常識で批判するのは、不公正な行為である。
言いがかりと言ってもいい。
現代ですら、たとえば「千の風になって」という歌を
「人間の魂が死後「風」になるなんて非科学的だ」
と批判することは、まさに言いがかりであろう。
そもそも日本には古くから
「塵も積もれば山となる」ということわざもある。
それを前提に考えるのが歴史を的確に見る方法だ。
そう考えれば
「そんな言いがかりをつける人間は文化の本質
歴史の本質がわかっていない」
と批判すればいいだけの話だ。
というわけで
これ以上この不毛の論争につき合うのはやめにしよう。
国歌「君が代」に関する最大の問題は
この「君」があきらかに「天皇」のことでは無いのに
多くの日本人がこれを
「天皇賛歌」だと思っていることだ。
もちろんそう思っている人が大勢いるのには理由がある。
明治以来の「天皇を中心とした国家体制」に原因がある。
大山巌も含めてこれが後世つまり昭和時代になって
「天皇制絶対の賛歌」になるとは思っていなかったと思う。
しかし、日露戦争、第一次世界大戦を経て満州事変
支那事変(日中戦争)と日本が果てしない戦争に突入していく中で
「君が代」の位置付けはあきらかに変わった。
略
世界共通の国旗や国歌に対する礼儀作法というのは
自分の国の国歌なら起立して斉唱し
他国の国歌なら起立して敬意を表すことだろう。
それをしないということは、国歌として認めないということだ。
卒業式などで教職員が起立して
国歌を歌わなければならない義務など無いし
そうしなかったことを理由に
校長等が教職員を罰するのは「思想・良心の自由」を保障した
日本国憲法第19条に違反する、というものである。
「君が代」が日本国の国歌であることは認めない
という考えを持っているに違いないということだろう。
こうした「君が代」反対論者のほとんどが固執している
「憲法9条改正絶対反対」も根底にはそれがある。
ところが、一千年以上におよぶ長い「君が代」の歴史で
「君が代」が本当の意味で
「現人神に対する儀式歌・奉祝歌」だったのは
長く見積もっても昭和12年から
昭和20年までのたった8年間に過ぎない。
それ以外はちゃんとした国歌だった。
「君が代」は「自分では無い他人の幸せを祈る歌」なのである。
民主主義社会にもっともふさわしい国歌ではないか。
国家主義に利用された
「前科」「前歴」があると言っても
それはほんのわずかな期間である。
それをあげつらい「君が代」をおとしめるのは
「罪はケガレ」という神道的迷信にとらわれた態度であって
真の民主主義社会に生きる人間の取る態度では無いと私は考える。
この巻つづく
日本人がユダヤに繋がりがあるのはわかるけど
日本人のルーツとなると?で
シオン賢者の議定書の内容が嫌なので
偽ユダヤが日本に来て弥生時代から支配してきたのでは?と思う
ユダヤのヘブライ語と日本語が似ているのは有名な話だ
ミカド (帝) - ミガドル (高貴なお方)
ミコト (尊) - マクト (王、王国)
ネギ (神職) - ナギット (長、司)
ミササギ(陵、墳墓) - ムトウサガ(死者を閉ざす)
アスカ (飛鳥) - ハスカ (ご住所)
ミソギ (禊ぎ) - ミソグ (分別・性別)
ヌシ (主) - ヌシ (長)
サムライ(サムライ) - シャムライ(守る者)
ヤリ (槍) - ヤリ (射る)
ホロブ (滅ぶ) - ホレブ (滅ぶ)
イム (忌む) - イム (ひどい)
ダメ (駄目) - タメ (ダメ・汚れている)
ハズカシメル(辱める) - ハデカシェム(名を踏みにじる)
ニクム (憎む) - ニクム (憎む)
カバウ (庇う) - カバア (隠す)
ユルス (許す) - ユルス (取らせる)
コマル (困る) - コマル (困る)
スム (住む) - スム (住む)
ツモル (積もる) - ツモル (積もる)
コオル (凍る) - コ-ル (寒さ、冷たさ)
スワル (座る) - スワル (座る)
アルク (歩く) - ハラク (歩く)
ハカル (測る) - ハカル (測る)
トル (取る) - トル (取る)
カク (書く) - カク (書く)
ナマル (訛る) - ナマル (訛る)
アキナウ(商う) - アキナフ (買う)
アリガトウ(有難う) - アリ・ガド(私にとって幸福です)
ヤケド (火傷) - ヤケド (火傷)
ニオイ (匂い) - ニホヒ (匂い)
カタ (肩) - カタフ (肩)
ワラベ (子供) - ワラッベン(子供)
アタリ (辺り) - アタリ (辺り)
オワリ (終わり) - アハリ (終わり)
日本は大和民族、琉球民族、アイヌ民族、蝦夷やマタギなどいろんな集落がある多民族国家。人がいて国があるから昔は名前の無い国だった。イギリスがアメリカへ入植して白人が先住民族を虐殺し土地を奪って国の名前を作った。(詳しくはインディアン戦争)先住民族から見る歴史は愛国心の洗脳を解く。
— かつき✩I❤︎9条🏳憲法は非戦 (@hope2sheep1) April 20, 2022
日本には
— 比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん) (@fijabyron) March 13, 2022
出雲民族
熊襲民族
隼人民族
えみし民族
などの先住民族がいた。
が渡来人の大和民族が侵略し支配した。
そこに我々琉球民族やアイヌ民族が明治以降強制的に加えられた。
従って日本には最低でも7つの民族が住んでいる。
ただ上記歴史は全く共有されず、日本民族という幻想が現状。
日本は「単一民族単一文化」って習ったのはGHQの大嘘です。
— 山田たろう (@hidenyan34) August 29, 2021
日本は多民族単一文化です。28の民族の血が入ってるなどと言われています。
世界から入ってきた多民族人が「日本に同化していった」のが日本です。(だからいろんな国の人に似た人が居ます) https://t.co/0nnY7LOBGW
歴史は繰り返している
— ヨハネ (@yohaneflowers) July 9, 2021
東京大空襲で山の手が
火の海になったが
米軍を非難するどころか
天皇は勲章を与えた
東京の一等地に
朝鮮人を大量に
手引きし土地を強奪
東京の土地成金が
ほとんどが在日だ
芸能人や政治家もだ
昭和の歴史は在日朝鮮人が
作ったと言えるのだ https://t.co/74gP7eYBTp pic.twitter.com/fr5Md4dhR1
水道管を凍らせないためには糸状に水を出しておく事
ポタポタ状態だとツララ状に凍るだけで意味がないそう
↑より抜粋
1902年(明治35)1月30日の日英同盟成立直前の
1月23日に起こった重大な事件について述べたい。
それは八甲田山雪中行軍(せっちゅうこうぐん)遭難事件である。
帝国陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市から
八甲田山麓(さんろく)の田代新湯(しんゆ)に
向かう雪中行軍の途中で訓練への参加者210名中
なんと199名が死亡という
世界山岳史上から見ても最大級の惨事であった。
ただ、いかに大事件だと言っても単なるアクシデントなら
歴史の問題としてことさらに取り上げる必要は無い
という考え方もできる。
しかし、この事件は大日本帝国陸軍あるいは
当時の大日本帝国の体質を考えるにあたって
きわめて示唆に富む部分があるのでその観点から取り上げたい。
この事件を分析するにあたって
実は一つ大きな障害がある。
学者に至るまでフィクションの影響を受けた錯覚に陥っている。
具体的に言えば、歴史的事実とは違う事を
「事実」だと思い込んでしまっているということだ。
この雪中行軍遭難事件に関しても「忠臣蔵」ほどでは無いのものの
映画「八甲田山」が名作と言っていい出来栄えで
多くの日本人が観ているために「映画錯覚」が生じているのである。
「障害」というのはそのことだ。
ところで、もっとも基本的な知識だが八甲田山という山は無い。
箱根山や八ヶ岳が無いのと同じだと言えば
山に詳しい人はおわかりだろう。
つまり八甲田山というのは一つの山の名称では無く
連峰(れんぽう)の総称なのである。
八甲田連峰と呼んだ方が正確かもしれない。
まず映画のストーリーを紹介する所から
事件全体の分析を始めたい。
明治35年、八甲田周辺を守備範囲としていた陸軍は
日露戦争を想定した訓練を行う必要を感じていた。
師団長は青森歩兵第5連隊の神田大尉(北大路欣也)と
弘前歩兵第31連隊の徳島大尉(高倉健)を呼び
それぞれ青森と弘前から兵を引き連れて八甲田越えをするように命じる。
2人の大尉は意気投合し友情を深め、冬の八甲田で合流しようと約束する。
弘前の徳島隊は少数精鋭で数日かけて八甲田を踏破(とうは)する計画だった。
一方、青森の神田隊はむしろ初心者に雪中行軍を体験させる
ということが主眼となっており、全体の行程も2泊3日で露営
(テント等は用いず雪洞を掘るなどして宿泊すること)は1日だけ。
1泊目は温泉に泊まる予定だった。
両隊はほぼ同時に出発したが、不幸なことに神田隊は第1日から
猛吹雪に見舞われて道を見失い、露営をする羽目になる。
しかも猛吹雪のためソリで食料や装備を運ぶという計画が頓挫し
ろくに食事も取れないままに極寒の環境に晒されることになった。
さらに、神田大尉の直属の上官である山田少佐(三國連太郎)が
視察と称して同行していたのだが
雪をよく研究していた神田大尉の判断にことごとく異を唱え
その結果部隊は猛吹雪の中を休養も取らずに歩き回ることとなり
体力の限界に達した兵士が一人また一人と倒れていくことになった。
結局、神田大尉を始め兵士のほとんどが凍死した。
山田少佐はかろうじて生き残り陸軍の病院に収容されるが
責任を感じて拳銃自殺する。
こうした中、徳島隊は一人の犠牲者も出さずに無事八甲田を踏破した。
以上が映画「八甲田山」の概略だが
実際の事件とフィクションとの最大の違いは
2人の大尉が友情を深めるどころか
まったく交流が無かったというところだ。
つまり青森の神成(かんなり)大尉と弘前の福島大尉は
まったく別個に雪中行軍計画を立て
偶然にも同じ時期に実行したに過ぎない。
ということなのである。
また、神成の上官山口少佐が雪のことについて
まったく知識が無いのにしゃしゃり出て
神成大尉の的確な判断を覆したというのは
まさにまったくのフィクションであり、そのような事実は無い。
じつは神成大尉自身も雪中行軍については素人と言っていい状況にあり
遭難死の原因は多くは彼の知識不足にあったと言っても過言では無い。
もちろん、最大の原因は想定外の猛烈な吹雪が数日間続いた
というところにあるのだが
青森隊は弘前隊と比べて様々な点で準備の不備があった。
もし2人の大尉が事前に会っていたとしたら
経験深い福島に神成はさまざまな助言を求めただろう。
しかし、実際の青森隊は弘前隊が実行していた
「水筒の水は一杯に詰めない」という
初歩的な対策すら実施していなかった。
極寒の中で水筒の水はきわめて凍りやすく
一度凍結してしまうと元へ戻すのは難しい。
しかし、少し隙間を空けておくと
歩くたびに水は振動するので凍結しにくくなる。
川や滝など流れる水がなかなか凍結しないのと同じである。
また、弁当などもリュックには入れずに体に巻いておくべきなのだ。
そうしないとカチカチに凍結してしまい、食べることが困難になってしまう。
第1日目を温泉泊にしたのも、結果的にはまずかった。
兵士の多くは、1日目は温泉に泊まれるのだからと
寒冷対策を疎かにした者もいたからだ。
たとえば靴下などに発熱作用のあるトウガラシを巻き込んでおくと
凍傷予防になるが、それを怠った兵士は多くいた。
また、弁当が凍ってしまった時には
体に巻いておけば食べることができるのだが
それを捨ててしまった者もいた。
温泉でじゅうぶんな食事を取れると考えたからである。
さらに不幸だったのは
1日目の行程約20キロのうち19キロを踏破してしまったことだ。
なぜそれが悪いのかと思うかもしれないが
人間あと1キロで温泉まで辿り着けると考えると、その時点で無理をする。
たとえば行軍を中止して雪洞を掘り露営しようなどとは考えなくなってしまうのだ。
冬の雪山で猛吹雪に襲われたら俗に言うホワイトアウトの状態になり
自分の進む方向が確認できなくなるから
本当は一切動かず体力の消耗を避けるのが一番いい。
もし青森隊が予定の半分しか行軍できなかったら
中止しようとか引き返そうという判断になったかもしれないが
なまじ行程の9/10以上を消化してしまったために
あと少し頑張れば大丈夫だと思ってしまったのである。
もちろん慎重な意見を述べる人間もいたが
もう一つまずかったのは、これが軍隊であったということだ。
軍隊はなによりも士気と名誉を重んじる。
悪天候に「負けて」しまうことを
恥辱(ちじょく)と取った士官が大勢いたのである。
悲惨な事故が起こる時はいつでもそうだが、悪い条件が幾重にも重なる。
まさにこの遭難事故はその典型であった。
現在は、GPSという便利なものがあるので昔とは条件が違ってきたが
山で猛吹雪に襲われたら安全な場所で動かないというのが
今でも登山の常識のはずである。
だた青森隊はこれも不幸と言うべきかもしれないが
文明の利器を持っていた。方位磁石(コンパス)である。
確かにこれがあれば視界ゼロになっても方向が分かると理屈では考えられる。
しかも、極寒の環境から見ればまさに
「極楽」の田代新湯まであと1キロである。
夕刻になって青森隊は田代まで先遣隊(せんけんたい)
がいつまでたっても帰ってこない。
そして、なんと夜もかなり更けてから先遺隊は本隊の最後尾に到達した。
つまり、雪の中を大きく一周して戻ってきてしまったのだ。
方位磁石はあまりの低温のために凍りついてしまい
方向を見失った先遺隊は直進しているつもりでじつは大きく周回していた。
リングワンダリング、輪形彷徨(りんけいほうこう)である。
人間、視界を失うと必ず大きく周回してしまうという、あの現象である。
これがあるからこそ動いてはならないのだ。
さすがに先遺隊がぐるりと一周してきたらしい
ということは本隊にもわかったので、ここで初めて露営
つまり雪洞を掘って動かずにいようという判断がなされた。
しかし、ここで大きな計算違いが生じた。
なんと、食事は飯盒炊爨(はんごうすいさん)で
提供されることになっていたのだ。
このような状況下で火を起こして飯を炊くのは大変な労力を必要とする。
本来なら土が見えるまで雪を掘って
頑丈な地面にカマドを作るべきなのだが
雪が深すぎてそれもできなかった。
やむなく雪上で火を焚いたが雪が溶けてしまい
炊事がきわめて困難だった。
結局、生煮え飯(消火に悪い)が何とか提供されたようだが
本来なら火など使わなくてもいい食料を持参すべきだった。
この時代は、まだ後に広く用いられる「乾パン」は無かったが
似たものはあったし、干し柿など乾燥食品は存在した。
しかし、それを携行(けいこう)するという発想は
少なくとも青森隊には無かった。
要するに青森隊は数日間続いた最大級の吹雪に悩まされ判断を誤り
やたらと動き回って露営を繰り返し体力と気力を消耗し
兵士が次々と倒れていったのである。
八甲田には現在ロープウェイが建設されており
高いところからこの事故現場を一望することができるが
夏なら鼻歌交じりは無理でも健脚の人間ならば
さほど難しいコースでは無いし高低差も少ない。
しかし、太平洋側からの寒気と日本海側からの寒気が
衝突する八甲田は冬は「地獄」となる。
地元の猟師ですら冬の八甲田には入らないのである。
そして、さらなる不幸が重なった。
青森にある連隊本部はこの遭難に気がつかなかったのだ。
この時代はまだ部隊ごとの無線電信は無い。
本部が歩兵第5連隊の遭難に気がついたのは
出発から2日たった1月25日だった。
そして翌26日早朝に救援隊が一応派遣されたのだが
装備が不十分で2重遭難を恐れてやむなく引き返した。
そして翌27日早朝再び出発し
ルートの途中の大滝平(おおたきたい)で
雪中に仮死状態で佇立(ちょりつ)していた後藤房之助伍長を発見した。
ここで初めて後藤伍長の報告によって第5連隊が「全滅」したことがわかり
翌28日から本格的な救援活動が開始された。
今、その後藤伍長の銅像が
ルート途中の馬立場(うまたてば)に建立されている。
この八甲田遭難事件が
実は世界に向けて発信された重大事件であり
日本のマスコミもこぞって報道していたという事実がわかった。
読者の皆さんもこの事件が陸軍の恥として秘匿(ひとく)され
あまり世間に知られていなかったのだと思い込んではいないだろうか。
それは「八甲田で見たことは口にはしてはならない」
という言葉を宣伝文句に使った
映画「八甲田山」のもたらした「映画錯覚」なのである。
恥ずかしながら、私もその錯覚にとらわれていた。
外国だけでは無い。
国内でも当時の一流紙がこぞって取り上げており
それは決して軍を礼賛(らいさん)するものでは無く
むしろ軍の失態を批判する論調である。
八甲田山雪中行軍遭難事件は、「映画錯覚」によって
その実像が大きく歪められていることは先に述べた。
フィクションの方があまりにも有名になり過ぎたため
事実と違うことが事実と信じられてしまう
ということである。
まず、200名近い犠牲者を出した
青森歩兵第5連隊の責任者であった山口少佐が
事件の責任を取ってピストル自殺したという「話」である。
これは軍の公式発表であり、映画の原作である
「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」でもそのように描かれている。
しかし、山口少佐が死んだのは
救出され病院に収容された直後と言ってもいい時期であり
彼の両手指は重い凍傷でまったく動く状態では無かった。
それどころか、救出されたばかりで
身動きもままならなかったという可能性もある。
いずれにせよ、自分でピストルの引き金を引く
などということは不可能な状況であった可能性が高い。
犠牲者の中には、病院に収容されてから
手当ての甲斐も無く死んだ兵士もいるから
そういう死に方ならそのまま発表すればよい。
それが「自決」と発表されたのは
実は本人を誰かが死に至らしめたということだろう。
それは陸軍上層部である
というのが、この問題を徹底的に追及した
弘前大学医学部麻酔科の松木名誉教授の
「陸軍による密殺説」である。
言うまでも無く
それは本人の死をもって責任追及を終わらせるのが目的である。
衰弱死したのをあえて自決と偽装したという可能性も考えられる。
いずれにせよ、大日本帝国陸軍はその崩壊まで
現場の責任者が
「責任を感じて自決した」ので、これ以上の追及はやめる
という問題処理のパターンを持っていた。
後に起こる、帝国陸軍によって引き起こされた
ソビエト陸軍との実質的戦争ノモンハン事件は
日本側の大惨敗に終わった。
そして、その惨敗の責任は現場の兵士にはまったく無く
無謀な計画と性能の劣った兵器で
ソビエト軍に立ち向かわせた関東軍の参謀たちにあった。
しかし、現地の指揮官が次々に「責任を感じて自決した」ために
「武士の情け」でこれ以上責任は追及しないということになり
結局、参謀たちは何の責任も取らず
さらに無謀な作戦で、大日本帝国を滅亡に追い込んだ。
そうした傾向が、日露戦争直前のこの時期からすでに明確なものになっている。
そのことを証明するのが
この八甲田山雪中行軍遭難事件に対する陸軍の処理なのである。
だからこそ、この事件は重要なのだ。
「責任を感じて潔く自決」すれば責任問題をうやむやにする
という傾向はすでに日清戦争の頃からあった。
24巻で詳しく述べておいたが、古志(こし)少佐は
戦地において現地部隊への補給を突然担当させられたが
当然ながら準備不足および経験不足のため任務を失敗した。
そこで責任を感じて自決してしまった。
帝国陸軍はその設立当初から崩壊に至るまで
「補給」を軽視するという傾向があった。
そのためにどれだけ多くの将兵が戦わずして犠牲となったかしれない。
しかし、日清戦争を通じて補給が円滑に行われず
現地の兵士を徹底的に苦しめたという事実は反省材料になることは無く
その後の戦いでも何度も同じ過ちが繰り返された。
つまり、日本軍の宿痾(しゅくあ)というか
悪癖(あくへき)となったのである。
そうした悪癖を排除する方法は一つしか無い。
当事者が死なずに、生きて軍法会議の場などで広く問題提起することである。
しかし日本では、陸軍でも海軍でもそれが行なわれなかった。
そんなことをすれば
「卑怯未練な自己弁護」と非難されるからである。
一方、死ねば英霊あるいは軍神として評価される。
遺族も保護される。
ここが日本軍の最大の欠点と言うべき部分だろう。
それもこの八甲田山遭難事件のように
多くの人間が死ねば死ぬほど
それを招いた欠陥の原因追究が封じ込められるという恐るべき状態である。
これに日本軍はそもそも神の子である天皇が指揮官であって
必ず勝つ不敗の軍隊であるという信仰が重なれば
もうどうしようもないということがわかるだろう。
「その死を名誉あるものにしたい」は
「その死を無駄にしない」と似ているようでまったく違う。
本当に「その死を無駄にしない」と考えるなら
責任は徹底的に追及しなければいけない。
たとえ死者の名誉を傷つけることがあっても、だ。
責任はむしろその素人同然の神成大尉を指揮官に任命し
雪中行軍を実行させた上層部にある。
雪中行軍自体は遭難事件の10年前から第5連隊で実行されており
荷物はソリではなく背負って運搬すべきである
などという教訓を得ていたのに
それがまったく生かされていなかった事も指摘されている。
これも軍法会議などできちんと問題にされていれば
システム上の欠陥として指摘されていたかもしれない事実である。
この巻つづく



































