水道管を凍らせないためには糸状に水を出しておく事

ポタポタ状態だとツララ状に凍るだけで意味がないそう

 

↑より抜粋

 

1902年(明治35)1月30日の日英同盟成立直前の

1月23日に起こった重大な事件について述べたい。

それは八甲田山雪中行軍(せっちゅうこうぐん)遭難事件である。

 

帝国陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市から

八甲田山麓(さんろく)の田代新湯(しんゆ)に

向かう雪中行軍の途中で訓練への参加者210名中

なんと199名が死亡という

世界山岳史上から見ても最大級の惨事であった。

 

ただ、いかに大事件だと言っても単なるアクシデントなら

歴史の問題としてことさらに取り上げる必要は無い

という考え方もできる。

しかし、この事件は大日本帝国陸軍あるいは

当時の大日本帝国の体質を考えるにあたって

きわめて示唆に富む部分があるのでその観点から取り上げたい。

 

この事件を分析するにあたって

実は一つ大きな障害がある。

学者に至るまでフィクションの影響を受けた錯覚に陥っている。

具体的に言えば、歴史的事実とは違う事を

「事実」だと思い込んでしまっているということだ。

この雪中行軍遭難事件に関しても「忠臣蔵」ほどでは無いのものの

映画「八甲田山」が名作と言っていい出来栄えで

多くの日本人が観ているために「映画錯覚」が生じているのである。

「障害」というのはそのことだ。

 

ところで、もっとも基本的な知識だが八甲田山という山は無い。

箱根山や八ヶ岳が無いのと同じだと言えば

山に詳しい人はおわかりだろう。

つまり八甲田山というのは一つの山の名称では無く

連峰(れんぽう)の総称なのである。

八甲田連峰と呼んだ方が正確かもしれない。

 

まず映画のストーリーを紹介する所から

事件全体の分析を始めたい。

 

明治35年、八甲田周辺を守備範囲としていた陸軍は

日露戦争を想定した訓練を行う必要を感じていた。

師団長は青森歩兵第5連隊の神田大尉(北大路欣也)と

弘前歩兵第31連隊の徳島大尉(高倉健)を呼び

それぞれ青森と弘前から兵を引き連れて八甲田越えをするように命じる。

 

2人の大尉は意気投合し友情を深め、冬の八甲田で合流しようと約束する。

弘前の徳島隊は少数精鋭で数日かけて八甲田を踏破(とうは)する計画だった。

一方、青森の神田隊はむしろ初心者に雪中行軍を体験させる

ということが主眼となっており、全体の行程も2泊3日で露営

(テント等は用いず雪洞を掘るなどして宿泊すること)は1日だけ。

1泊目は温泉に泊まる予定だった。

 

両隊はほぼ同時に出発したが、不幸なことに神田隊は第1日から

猛吹雪に見舞われて道を見失い、露営をする羽目になる。

しかも猛吹雪のためソリで食料や装備を運ぶという計画が頓挫し

ろくに食事も取れないままに極寒の環境に晒されることになった。

 

さらに、神田大尉の直属の上官である山田少佐(三國連太郎)が

視察と称して同行していたのだが

雪をよく研究していた神田大尉の判断にことごとく異を唱え

その結果部隊は猛吹雪の中を休養も取らずに歩き回ることとなり

体力の限界に達した兵士が一人また一人と倒れていくことになった。

 

結局、神田大尉を始め兵士のほとんどが凍死した。

山田少佐はかろうじて生き残り陸軍の病院に収容されるが

責任を感じて拳銃自殺する。

こうした中、徳島隊は一人の犠牲者も出さずに無事八甲田を踏破した。

 

以上が映画「八甲田山」の概略だが

実際の事件とフィクションとの最大の違いは

2人の大尉が友情を深めるどころか

まったく交流が無かったというところだ。

つまり青森の神成(かんなり)大尉と弘前の福島大尉は

まったく別個に雪中行軍計画を立て

偶然にも同じ時期に実行したに過ぎない。

ということなのである。

 

また、神成の上官山口少佐が雪のことについて

まったく知識が無いのにしゃしゃり出て

神成大尉の的確な判断を覆したというのは

まさにまったくのフィクションであり、そのような事実は無い。

 

じつは神成大尉自身も雪中行軍については素人と言っていい状況にあり

遭難死の原因は多くは彼の知識不足にあったと言っても過言では無い。

もちろん、最大の原因は想定外の猛烈な吹雪が数日間続いた

というところにあるのだが

青森隊は弘前隊と比べて様々な点で準備の不備があった。

もし2人の大尉が事前に会っていたとしたら

経験深い福島に神成はさまざまな助言を求めただろう。

 

しかし、実際の青森隊は弘前隊が実行していた

「水筒の水は一杯に詰めない」という

初歩的な対策すら実施していなかった。

極寒の中で水筒の水はきわめて凍りやすく

一度凍結してしまうと元へ戻すのは難しい。

しかし、少し隙間を空けておくと

歩くたびに水は振動するので凍結しにくくなる。

川や滝など流れる水がなかなか凍結しないのと同じである。

また、弁当などもリュックには入れずに体に巻いておくべきなのだ。

そうしないとカチカチに凍結してしまい、食べることが困難になってしまう。

 

第1日目を温泉泊にしたのも、結果的にはまずかった。

兵士の多くは、1日目は温泉に泊まれるのだからと

寒冷対策を疎かにした者もいたからだ。

たとえば靴下などに発熱作用のあるトウガラシを巻き込んでおくと

凍傷予防になるが、それを怠った兵士は多くいた。

また、弁当が凍ってしまった時には

体に巻いておけば食べることができるのだが

それを捨ててしまった者もいた。

温泉でじゅうぶんな食事を取れると考えたからである。

 

さらに不幸だったのは

1日目の行程約20キロのうち19キロを踏破してしまったことだ。

なぜそれが悪いのかと思うかもしれないが

人間あと1キロで温泉まで辿り着けると考えると、その時点で無理をする。

たとえば行軍を中止して雪洞を掘り露営しようなどとは考えなくなってしまうのだ。

冬の雪山で猛吹雪に襲われたら俗に言うホワイトアウトの状態になり

自分の進む方向が確認できなくなるから

本当は一切動かず体力の消耗を避けるのが一番いい。

もし青森隊が予定の半分しか行軍できなかったら

中止しようとか引き返そうという判断になったかもしれないが

なまじ行程の9/10以上を消化してしまったために

あと少し頑張れば大丈夫だと思ってしまったのである。

 

もちろん慎重な意見を述べる人間もいたが

もう一つまずかったのは、これが軍隊であったということだ。

軍隊はなによりも士気と名誉を重んじる。

悪天候に「負けて」しまうことを

恥辱(ちじょく)と取った士官が大勢いたのである。

悲惨な事故が起こる時はいつでもそうだが、悪い条件が幾重にも重なる。

まさにこの遭難事故はその典型であった。

 

現在は、GPSという便利なものがあるので昔とは条件が違ってきたが

山で猛吹雪に襲われたら安全な場所で動かないというのが

今でも登山の常識のはずである。

だた青森隊はこれも不幸と言うべきかもしれないが

文明の利器を持っていた。方位磁石(コンパス)である。

確かにこれがあれば視界ゼロになっても方向が分かると理屈では考えられる。

しかも、極寒の環境から見ればまさに

「極楽」の田代新湯まであと1キロである。

 

夕刻になって青森隊は田代まで先遣隊(せんけんたい)

がいつまでたっても帰ってこない。

そして、なんと夜もかなり更けてから先遺隊は本隊の最後尾に到達した。

つまり、雪の中を大きく一周して戻ってきてしまったのだ。

方位磁石はあまりの低温のために凍りついてしまい

方向を見失った先遺隊は直進しているつもりでじつは大きく周回していた。

リングワンダリング、輪形彷徨(りんけいほうこう)である。

人間、視界を失うと必ず大きく周回してしまうという、あの現象である。

これがあるからこそ動いてはならないのだ。

 

さすがに先遺隊がぐるりと一周してきたらしい

ということは本隊にもわかったので、ここで初めて露営

つまり雪洞を掘って動かずにいようという判断がなされた。

しかし、ここで大きな計算違いが生じた。

なんと、食事は飯盒炊爨(はんごうすいさん)で

提供されることになっていたのだ。

このような状況下で火を起こして飯を炊くのは大変な労力を必要とする。

 

本来なら土が見えるまで雪を掘って

頑丈な地面にカマドを作るべきなのだが

雪が深すぎてそれもできなかった。

やむなく雪上で火を焚いたが雪が溶けてしまい

炊事がきわめて困難だった。

結局、生煮え飯(消火に悪い)が何とか提供されたようだが

本来なら火など使わなくてもいい食料を持参すべきだった。

この時代は、まだ後に広く用いられる「乾パン」は無かったが

似たものはあったし、干し柿など乾燥食品は存在した。

しかし、それを携行(けいこう)するという発想は

少なくとも青森隊には無かった。

 

要するに青森隊は数日間続いた最大級の吹雪に悩まされ判断を誤り

やたらと動き回って露営を繰り返し体力と気力を消耗し

兵士が次々と倒れていったのである。

八甲田には現在ロープウェイが建設されており

高いところからこの事故現場を一望することができるが

夏なら鼻歌交じりは無理でも健脚の人間ならば

さほど難しいコースでは無いし高低差も少ない。

しかし、太平洋側からの寒気と日本海側からの寒気が

衝突する八甲田は冬は「地獄」となる。

地元の猟師ですら冬の八甲田には入らないのである。

 

そして、さらなる不幸が重なった。

青森にある連隊本部はこの遭難に気がつかなかったのだ。

この時代はまだ部隊ごとの無線電信は無い。

本部が歩兵第5連隊の遭難に気がついたのは

出発から2日たった1月25日だった。

そして翌26日早朝に救援隊が一応派遣されたのだが

装備が不十分で2重遭難を恐れてやむなく引き返した。

そして翌27日早朝再び出発し

ルートの途中の大滝平(おおたきたい)で

雪中に仮死状態で佇立(ちょりつ)していた後藤房之助伍長を発見した。

ここで初めて後藤伍長の報告によって第5連隊が「全滅」したことがわかり

翌28日から本格的な救援活動が開始された。

今、その後藤伍長の銅像が

ルート途中の馬立場(うまたてば)に建立されている。

 

この八甲田遭難事件が

実は世界に向けて発信された重大事件であり

日本のマスコミもこぞって報道していたという事実がわかった。

読者の皆さんもこの事件が陸軍の恥として秘匿(ひとく)され

あまり世間に知られていなかったのだと思い込んではいないだろうか。

それは「八甲田で見たことは口にはしてはならない」

という言葉を宣伝文句に使った

映画「八甲田山」のもたらした「映画錯覚」なのである。

恥ずかしながら、私もその錯覚にとらわれていた。

外国だけでは無い。

国内でも当時の一流紙がこぞって取り上げており

それは決して軍を礼賛(らいさん)するものでは無く

むしろ軍の失態を批判する論調である。

 

八甲田山雪中行軍遭難事件は、「映画錯覚」によって

その実像が大きく歪められていることは先に述べた。

フィクションの方があまりにも有名になり過ぎたため

事実と違うことが事実と信じられてしまう

ということである。

 

まず、200名近い犠牲者を出した

青森歩兵第5連隊の責任者であった山口少佐が

事件の責任を取ってピストル自殺したという「話」である。

これは軍の公式発表であり、映画の原作である

「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」でもそのように描かれている。

しかし、山口少佐が死んだのは

救出され病院に収容された直後と言ってもいい時期であり

彼の両手指は重い凍傷でまったく動く状態では無かった。

それどころか、救出されたばかりで

身動きもままならなかったという可能性もある。

いずれにせよ、自分でピストルの引き金を引く

などということは不可能な状況であった可能性が高い。

 

犠牲者の中には、病院に収容されてから

手当ての甲斐も無く死んだ兵士もいるから

そういう死に方ならそのまま発表すればよい。

それが「自決」と発表されたのは

実は本人を誰かが死に至らしめたということだろう。

 

それは陸軍上層部である

というのが、この問題を徹底的に追及した

弘前大学医学部麻酔科の松木名誉教授の

「陸軍による密殺説」である。

言うまでも無く

それは本人の死をもって責任追及を終わらせるのが目的である。

衰弱死したのをあえて自決と偽装したという可能性も考えられる。

 

いずれにせよ、大日本帝国陸軍はその崩壊まで

現場の責任者が

「責任を感じて自決した」ので、これ以上の追及はやめる

という問題処理のパターンを持っていた。

後に起こる、帝国陸軍によって引き起こされた

ソビエト陸軍との実質的戦争ノモンハン事件は

日本側の大惨敗に終わった。

そして、その惨敗の責任は現場の兵士にはまったく無く

無謀な計画と性能の劣った兵器で

ソビエト軍に立ち向かわせた関東軍の参謀たちにあった。

 

しかし、現地の指揮官が次々に「責任を感じて自決した」ために

「武士の情け」でこれ以上責任は追及しないということになり

結局、参謀たちは何の責任も取らず

さらに無謀な作戦で、大日本帝国を滅亡に追い込んだ。

そうした傾向が、日露戦争直前のこの時期からすでに明確なものになっている。

そのことを証明するのが

この八甲田山雪中行軍遭難事件に対する陸軍の処理なのである。

だからこそ、この事件は重要なのだ。

 

「責任を感じて潔く自決」すれば責任問題をうやむやにする

という傾向はすでに日清戦争の頃からあった。

24巻で詳しく述べておいたが、古志(こし)少佐は

戦地において現地部隊への補給を突然担当させられたが

当然ながら準備不足および経験不足のため任務を失敗した。

そこで責任を感じて自決してしまった。

帝国陸軍はその設立当初から崩壊に至るまで

「補給」を軽視するという傾向があった。

そのためにどれだけ多くの将兵が戦わずして犠牲となったかしれない。

しかし、日清戦争を通じて補給が円滑に行われず

現地の兵士を徹底的に苦しめたという事実は反省材料になることは無く

その後の戦いでも何度も同じ過ちが繰り返された。

つまり、日本軍の宿痾(しゅくあ)というか

悪癖(あくへき)となったのである。

 

そうした悪癖を排除する方法は一つしか無い。

当事者が死なずに、生きて軍法会議の場などで広く問題提起することである。

しかし日本では、陸軍でも海軍でもそれが行なわれなかった。

そんなことをすれば

「卑怯未練な自己弁護」と非難されるからである。

一方、死ねば英霊あるいは軍神として評価される。

遺族も保護される。

ここが日本軍の最大の欠点と言うべき部分だろう。

 

それもこの八甲田山遭難事件のように

多くの人間が死ねば死ぬほど

それを招いた欠陥の原因追究が封じ込められるという恐るべき状態である。

これに日本軍はそもそも神の子である天皇が指揮官であって

必ず勝つ不敗の軍隊であるという信仰が重なれば

もうどうしようもないということがわかるだろう。

 

「その死を名誉あるものにしたい」は

「その死を無駄にしない」と似ているようでまったく違う。

本当に「その死を無駄にしない」と考えるなら

責任は徹底的に追及しなければいけない。

たとえ死者の名誉を傷つけることがあっても、だ。

 

責任はむしろその素人同然の神成大尉を指揮官に任命し

雪中行軍を実行させた上層部にある。

雪中行軍自体は遭難事件の10年前から第5連隊で実行されており

荷物はソリではなく背負って運搬すべきである

などという教訓を得ていたのに

それがまったく生かされていなかった事も指摘されている。

これも軍法会議などできちんと問題にされていれば

システム上の欠陥として指摘されていたかもしれない事実である。

 

この巻つづく