機体は1つ、名前は3つ(ストーク修復④) | オバサン、52歳からのオートバイ挑戦日記

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2021年8月23日 月曜日

 

ストークの機体は1つだが、

 

名前は3つもある、

 

 

ストークA、ストークB、

 

そして、知られていないが、ストークC

 

 

その理由は、

 

設計製作した学生(ストークA)と、

 

世界記録更新の学生(ストークB)とは、

 

学年が違う、

 

 

さらに、

 

世界記録更新の2日後、

 

日本初電動飛行成功(ストークC)

 

 

 

年月日でおさらいすると、

 

1975年4月、ストークAチーム結成

 

設計製作開始、

 

 

 

1976年2月29日、ロールアウト、

 

 

1976年3月14日、日本記録更新、

 

 

1976年3月15日、ストークAチーム最終試験飛行、

 

翌日、ストークAチーム解散、

 

 

 

1976年5月13日、ストークBチーム試験飛行開始、

 

その後、試験飛行110回、

 

 

 

1977年1月2日、世界記録更新、

 

1977年1月4日、日本初電動飛行成功(ストークC)、

 

ストークBチーム解散、ストークも退役、

 

 

 

ストークAチームは、

 

石井、生出(おいで)、小原、大関、小美濃(おみの)金井、香月、神原、中禮、土本、高橋(淳)の11名、

 

 

ストークBチームは、

 

石井、大森、大山、加藤、軍司、高見沢、高橋、玉垣、中谷、吉川、若松の11名、

 

 

 

そして、

 

ストークAからストークCまで、

 

石井さんだけが

 

すべてを知っている

 

 

 

石井さんは、

 

修復の依頼が来たとき、

 

「ヒロサワシティに来て、いっしょにストークを修復してほしい!」

 

とメンバーに呼びかけた

 

 

 

けれども、

 

コロナ影響や、

 

現役引退していない人、

 

家業(お寺の住職)などの都合で、

 

時間を作れない人が大半で、

 

 

 

修復スタート時点で、

 

ヒロサワに集まってくれたのは、

 

生出(おいで)さんと中禮さんだけ、

 

 

 

 

そして、

 

石井さんは、もう一つ、

 

メンバーに提案、

 

「ストークCを、ストークBに戻そう!」と。

 

 

そう!

 

国立科学博物館でストークBと展示され、

 

収蔵されていたのは、実はストークC、

 

 

 

映像で、

 

加藤パイロットがまたがっていた、

 

あのフレームは、世界記録更新の2日後、

 

電動飛行用に、部分的に木製に変えてしまったから、

 

残っていない、

 

 

全金属製フレームに戻すために、

 

現存する資料は、

 

 

わずかな写真と、

 

幾枚かの設計案、

 

 

そして、

 

メンバーたちの記憶のみ、

 

 

 

「もう一度、世界記録飛行の機体に戻したい!」

 

石井さんの切なる願いは、メンバーのほとんどが同感した、

 

 

けれども、

 

前途多難でした。

 

 

 

 

 

↓全金属製のストークのフレーム

(ストークAとストークBのとき)

 

 

 

 

↓ ストークBのフレームを加工し、ストークCにしている

吉川さん(白い服)と高橋さん(眼鏡の青年)

 

 

 

 

 

~つづく~