彼女の日本での楽しみの一つに「温泉」がある。
フランスにも温泉が湧く所はあるが、一般的な観光旅行ではめったに行くことはない。
ほとんどが温泉病院などの医療用施設に使われているという。
彼女が日本で初めて温泉に入った際は入浴施設というよりプールの様に感じたようで、
みんな裸になって入ることに違和感を抱いたようだ。
彼女の自宅(古くからあるアパート)にはバスタブは付いているものの、お湯を貯めこんで入浴するという習慣がない。
もっぱらシャワーのみである。
最近では最初からシャワー設備のみの建物が多いとも聞く。
地域にもよると思うが、水は貴重で水道料金もけっこう高いそうだ。
さらに、光熱費も嵩むので娘の家ではバスタブにお湯を張ることがない。
孫娘の住むニースは泳げる海岸があり、夏はしょっちゅう海水浴に出かけるようだ。
そんなわけで、来日しても「海に連れて行って! 私、泳ぎたいの!」とせがむ。
そう言われても、私はもう人が溢れるような近場の海岸へは行く気にはなれない。
そこで、市営プールへ行かせることにした。
ここならクルマで送迎するだけで済む。
幸いにもすぐ近所には孫と同年齢で誕生日も同じという女友達Mちゃんがいる。
彼女は大喜び、Mちゃん一家と一緒にプールで楽しむことができたようだ。
因みに、このMちゃんとはほぼ毎日のように時間を決めて遊んでいた。
Mちゃんのお陰で、彼女の日本語の語彙が増えてきたのも有難いことだった。
今年の夏は「バカンス日本版」とも言うべき旅の計画を2ヶ月以上前から立てていた。
私たちがフランスへ行く際はGîtes (ジット:貸別荘)を借りて10日前後を過ごすのが常だが、
日本にも同様な施設があるのでそれを利用することにした。
ただ、フランスと比べるとややお高めだが、ホテルや旅館に長期滞在するよりはずっと安い。
まず行ったのが山の施設、有名な観光地ではないが標高1,000mを超える場所にある山小屋風の木造建物だ。
夜は編み戸にしておくと寒いくらいの快適な所であった。
内風呂も付いてはいるが、歩いて5分ほどの所にある国民宿舎の温泉が入浴できる特別契約を結んでいる有難い施設なのだ。

温泉好きの私は大満足であったが、私以上にはまったのは孫娘である。
体や髪を洗うことよりシャワーかけ放題、お風呂入り放題の温泉に行くことを何より楽しみにしていた。
アルカリ性が強く肌がツルツルになるその温泉は、大人でもクセになるような良質な温泉であった。
日中は宿場巡りをしたり高原でトンボと戯れ、汗まみれになり疲れた体を夕方になれば温泉で癒すことができる・・・。
何んとも贅沢な貸別荘暮らしであった。
2度目の貸別荘は西伊豆の海の近くに借りた。
ここの宿は和風の2階建て民家を改造して作ったもので、我が家に居るような感じにさせるのがねらいなのか・・・。
けっこう外国人の方の利用も多いようだった。
ここを拠点にして何度か近くの海水浴場へ行ったが、千葉や湘南の海とは違い水は澄んでいて波はなく、人もそれほど多くはいない絶好な海水浴場だった。

テントを張り食料や水も持ち込んでほぼ1日を過ごしたが、ここで彼女は水を得た魚のように自由奔放に遊んだ。
私も何度か誘われて、沖の方まで大きな浮き輪に入って進んだ(泳いだとは言えない)。
「ここに登って私と一緒に飛び込もう!」と言われて海上に浮かぶ小さな基地に登ろうとしたが、力及ばず上陸できなかった。
そんな私を尻目に何度も飛び込む彼女であった・・・。
思えば今から6,7年前、水中へ入るどころか水面に顔すら付けられず、私がお風呂で洗面器に水を張って顔を付ける練習をしていたものだ。
もっとも、シャワーでさえ顔をタオルで覆いながら浴びるという度胸のなさだったから、海は好きなのに一人で泳ぐことはとてもできない子だった。
そんな彼女がこれほどまでも・・・。
「ニースの海」恐るべしである。
ここでも彼女は「温泉に入りたい!」と言い続けた。
一度は宿にある無料チケットで近くの温泉入浴施設へ行ったが、ここは大入り満員で落ち着かない。
そこで、クルマを30分程走らせた場所にある、地元の人しか行かないであろう絶好な温泉場へ出かけた。
源泉かけ流し、そして料金も安い!

お風呂には石鹸やシャンプー類は置かず、必要なら自分で持参するというまさに温泉らしい温泉であった。
かなり高温であったが、ここでも彼女は大満足であった。
「帰ったら、絶対アイス食べるからね・・・」と、彼女。
私はそれよりガンガンに冷えたビールが欲しかった・・・。
この旅が終わった後に最後のダメ押しともいうべき蓼科の旅もあったが、ここでも彼女の温泉好きの欲求が満たされ、
ただでさえすべすべな肌が一層磨かれることになったのである。
私にとっては長かった56日間、彼女にとってはあっという間に過ぎたようだった。
9月の今、フランスの学校は新しい年度が始まっている。
1学年進級した彼女は、日本で自由奔放に過ごした夏のバカンスを糧にまた一歩前へ歩みだしたに違いない。
最後に、これだけは付け加えたい。
野球少年の夏が終わり、あらためて高校受験に向けて本格的に勉強を始めた男の孫っ子だが、今回初めて私たちの夏の旅行に同行しなかった。
しかし、女の孫っ子があまりにも嬉しそうにはしゃぐためか、無口が開いてボソッと一言。
「あ~、自然のある所へ行きてぇ~な」と。
いつか必ず、この対照的な性格の二人を連れて自然いっぱいな所へバカンスするつもりだ。
(おわり)
<すばる>
フランスを発つ際に彼女から頼まれたことがあった。
「私、クルマに乗ると気持ち悪くなるから梅干し持って来て。梅干し食べてるとクルマに酔わないから。」
そうそう、私が成田空港までクルマで迎えに行くと言っていたからである。
毎年、自宅で作る梅干しは家族の誰一人として関心がなく話題にもしないが、唯一彼女だけが「じいちゃんの作った梅干しが大好き」と言ってくれている。
2年前に来日した際も、1年前に私たちがフランスへ持参した際も、梅干しを美味しいと食べていたほどだ。
日本から持って行った梅干しのストックが少なくなると、(娘が)頻繁には食べさせてくれないようで、そのかわりにオリーブの塩漬けを食べているようだった。
そんな彼女の来日によって、私たちは毎日のように振り回されるのあった。
細かなことを上げたらキリがないので、ここでは幾つかだけ紹介する。
まず、今までの来日時と大きく変わったのは「食」に対する好みだ。
2年位前までは私たちと同様な食事もほぼ食べていたが、今回は違っていた。
和食は決して嫌いではないが、今まで食べていた豆腐や胡瓜は、「私、これは好きでないの!」と言って絶対食べない。
何とか理由をつけて食べさせようものなら、「イジワル! 私は食べないって言ったでしょう!」てな感じである。
その代わり、しょっちゅう食べたがるのはピザとパスタである。
パスタにはパルメザンチーズをたっぷりかけるので「もう、それで十分でしょ!」なんて言うと、「ウルサイワネ、私の自由でしょう!」と言い返される。
ピザにはタバスコをしっかりかけて食べるので、一緒に食事している男の孫はビックリ!という顔をする。
彼は辛い物が大の苦手なのだ。
娘(彼女の母親)に言わせると、「ピザは時々作るけど、Y(孫娘)と一緒に作ってるから、飽きていてもいいはずなのに、何で日本に来てまで食べたいのかね?」って感じだ。
「それに、こんな薄っぺらな具の少ないピザのどこが美味しいんだろ?」と続ける。
どうやら、食べなれた味、チーズを使った食品が好きでならないようだ。
「食」の好みは変化するものの、やはり「食」は一番保守的な部類なのかもしれない。
私が、「Yは、和食はあまり好きでなくなってしまったね。残念だなぁ」と言うと、「私、和食大好きだよ!知らないの?」とすぐさま言い返す。
私は、ピン!ときた。
あれに違いない・・・。
「私、お寿司が一番好きなの! だから、今日はお寿司にして!」
(やっぱりな・・・)
焼き魚は骨があるから嫌だと言って容易に食べないが、骨のないお刺身は大好きなのだ。
海苔が好きなので巻物も好きでよく食べるが、かっぱ巻きは絶対食べないのである。
娘によると、「ちびまる子ちゃん」がおじいちゃんと寿司屋に行った話があるそうだが、そんな場面を体験してしまった私である。

ある日、彼女とちょっと遠い公園へクルマで行った帰り、「お昼は何?」と聞くので、「何が食べたい?何でもいいよ」って言ってしまったが最後、クルマは吸い込まれるように「銚子丸」へ・・・。
「自分で好きなものを探して!」と注文用タブレットを渡したら、「私が一番好きなのはこれなの!」と迷うことなくイクラを注文。
「何でも好きなものを食べな!」とまでは言わなかったものの、次々に値の張りそうなものばかり注文するので、「もう、ダメ!これを全部食べてから!」と段々ケチになる私であった。
食べ終わった彼女の満足げな顔は言うまでもない。
帰宅後に娘に話すと、「もう、Yだけそんな美味しいお寿司食べてズルいよ!」と不機嫌顔であった。
(話は飛ぶが、日本を飛び立つ前日には妻と4人で送別お寿司会をした。)
(つづく)
<すばる>
兵庫県知事のパワハラ問題が、連日報道されている。
知事は、しれっとした顔で「適切な指導の範囲内」とか「認識はない」を繰り返し、責任を逃れようとしている。
報じられている内容は、明確に「パワハラ」に該当するだろうし、何より、通報者を自殺に追い込んだことは絶対に許しがたい。
しかしながら自分が思ったのは、パワハラかどうかということではない。
ここにも「憲法破壊がある」ということだ。
特別公務員の知事も含めて、国家公務員・地方公務員は憲法15条の2で「すべて公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定されている。
本来、公務員は上司である誰かに奉仕するのではなく、国民全体に対して責任を負い、全体に奉仕すると憲法で決められているのだ。
それなのに、「俺さま」気取りの知事に気を使って、媚びたり忖度したりするのは、公務員としてあってはならないことだと思うのだ。
本当なら、こういうことは公務員としての常識であり、幹部クラスも(当然であるが知事自身も)こうしたことを踏まえて仕事に当たらなくてはならない。
ところが、選挙で選ばれたことで王様になってしまう首長は少なくない。
あの、大阪の橋下元知事や、近くは安芸高田市長の石丸氏も同様だ。
だから、こうしたところでも「憲法の破壊」が進んできたのだと思ったわけだ。
私たち国民は、今こそ声を大にして言わなくてはならない。
「私たちのために仕事をせよ!」と。
そして、何よりも、パワハラ体質を持った「俺さま」候補を当選させてはならないのだ。
-K.H-
自らの労働条件は自らの手で! 教え子を再び戦場に送るな!日教組・東京教組と共に闘おう!
NEWS 江戸川区教組
2024/8/28 No.2405 江戸川区教職員組合(江戸川区中央3-7-11-102江戸川区平和運動センター)
江戸川区中学校教科書が採択されました!
8月27日にグリーンパレスで開催された第16回教育委員会(定例会)で2025年度から中学校で使用される教科用図書が採択されました。
採択の結果をお知らせします。
・国語▶光村 ・書写▶光村 ・社会地理▶帝国書院 ・社会歴史▶教育出版 ・社会公民▶教育出版 ・地図▶帝国書院
・数学▶東京書籍 ・理科▶東京書籍 ・音楽一般▶教育出版 ・音楽器楽▶教育出版 ・美術▶日本文教出版
・保健体育▶大修館書店 ・技術家庭技術分野▶開隆堂 ・技術家庭家庭分野▶開隆堂 ・英語▶開隆堂 ・道徳▶教育出版
(出版社名略称)
被災地石川県を訪ねて ~2024夏の合宿in石川報告~
7月27日(土)から29日(月)、書記長を先頭に、区教組組合員、OB・OG、他区に異動された方たちやご家族など、総勢16名で被災地石川県を訪ねました。
1月1日に発生した能登半島地震以降7カ月、被災地の復旧がなかなか進まないのはなぜなのでしょう。
被災した子どもたちや教職員のご苦労はいかばかりだったでしょう。
このような問題意識をもって被災地を訪ねてみて、気づかされたこと、分かったことがたくさんありました。
◆1日目 午後、加賀市の平和工房 「江沼の郷」にて

珠洲・志賀原発などの学習会 加賀市
DVD「珠洲原発反対のたたかい、志賀原発の危険性、福島第一原発過酷事故後~」(「報道特集」2024.3.9TBS)を視聴した後、
「加賀9条の会」の佐藤さんと参加者が意見交流をしました。
地震後、志賀原発では変圧器からの大量の油漏れ、水位計の上昇、燃料プールの水漏れ、敷地内に多数の段差や沈下が発生。
敷地内の断層は活断層ではないかとの意見もあり、大変危険な状態だったそうです。
原発が稼働中であったら、大惨事になっていたのではないでしょうか。
「震源地の珠洲に原発の設置を中止させて本当によかった」と参加者から声が上がりました
また、道路が寸断され、通行止めになったため住民の避難計画は全く役に立ちませんでした。
「陸」がダメなら 「空から、海から」 の支援が必要でしたが政府の初動救助は余りに、遅すぎました。
「原発と人類は共存しない」ことをあらためて実感。夜の学習・交流会では、若い方たちの4本のレポートをもとに話し合いました。
◆2日目 被災地フィールドワーク

輪島朝市火災後

倒壊した家屋 輪島

地割れした輪島中学校庭
実際に被災地に入って、まず驚いたのは復旧の遅れです。加賀市から4時間かけて車で輪島市に向かいました。
補修されているとはいえ、道路は段差や陥没が多く、車酔いになった人も出るほどでした。
道端には、崖崩れや車の滑落を防ぐためのフレコンバックが至る所に並べられ、屋根にブルーシートをかけた家が多数見られました。
市内に入ると、輪島朝市火災跡、横倒しになった輪島塗老舗「五島屋」ビル、地面に押し潰された瓦屋根の家屋などが手つかずのままの状態でした。
輪島中の校庭には大規模な地割れが発生していました。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々が一日も早く、日常の生活を取り戻すためにどうしたらよいかを考えていきたいと思いました。
夜の学習・交流会はOB・OGの方たちのレポートをもとに話し合いました。
◆3日目 奥能登支部との交流 金沢市教育会館会議室にて

石川県教組本部・奥能登支部と交流
石川県教組役員の方が奥能登支部4分会の組合員とwebで繋いでくださり、
質問に答えていただくなかで震災後の子ども達の様子や教職員のご苦労について語っていただきました。
○奥能登の教職員は自らも被災者でありながら、可能な人は1月4、5日から出勤し、学校の片づけや避難所開設の役割を担ってきた。
道路が寸断されて土砂崩れが起り、命の危険を感じる中を工具や板などを装備して何時間もかけて学校に行った。
家が倒壊し、仮設住宅から通う教職員もいる。
○集団避難は、ライフラインが寸断された地域で保護者が生活立て直しをするために有意義だったという面もあったが、
引率した教職員は2か月間交代なしで行きっ放しで、休日も上手に取れないなどの課題もあった。
○カウンセラーがいろいろなところから派遣される。
ありがたいが、学期末の忙しい時期に「授業せよ」 と指示されることもあり、現場では困惑もある。
子どもたちは現在のところ元気にしている。しかし、PTSDはいつ発生するかわからない。1年後、5年後、10年後かもしれない。
見守っていく。
○奥能登は、復旧にほど遠い。報道も減ってきた。発信しなければ忘れられる。
もっと知ってもらいたい。
○いろいろ聞いて。被災地を忘れないために、被災地のことを広めて。
一番心に残っているのは、最後の女性組合員の方たちの訴えです。
石川県教組委員長からも「被災地を忘れないために東京に帰ったら、子どもたちに、周りの人たちに見たこと聞いたことを広めて」と熱い要望がありました。
◆おわりに
初日に講演をお願いしていた珠洲原発の反対運動のリーダー円龍寺住職の塚本真如さんは、講演の数日前に仮設住宅入居が決まり、
輪島市に引っ越されて、急遽講演ができなくなりました。
地震から7カ月経って、やっとの仮設住宅への入居です。
いまだ仮設住宅にも入れず、車中泊している方がいるとも報道されています。
大阪万博では、184日間たったら廃棄する木造リングに344億円かけるといいます。
能登半島地震の仮設住宅建設費の予算は282億円。
被災者や過疎の被災地が置き去りにされている政治や経済のあり方にあらためて憤りを感じます。
被災地石川県を訪ねて、見たこと、聞いたこと、感じたことを子どもたちに、周りの同僚に語るところから始めていきたいと思います。
<今後の予定>
○憲法学習週間 8月26日(月)~30日(金)
*8月後半着予定WEEKLY憲法特集のご活用を!
○東京教組憲法学習会 8月31日(土)15時~17時 日本教育会館8F 807会議室
・講師 清水雅彦さん(日本体育大学教授)
○分会代表者会議 9月6日(金)18時~ タワーホール船堀405
○教育委員会 9月10日(火) 13時30分
9月24日(火) 13時30分
*15分前に4F教育推進課で傍聴受付を
○さようなら原発全国集会 9月16日(月・祝) 代々木公園B地区(NHKホール横)
13時30分トークライブ、 15時 パレード(渋谷・原宿方面)
フランスはヨーロッパで最も早くから移民を受け入れてきた国家である。
全人口の7%を占め、移民二世を含めると11%にもなるという。
孫娘はフランスで生まれたから移民ではないが、日本とフランス二つの国籍を持っている。
実は国籍というものは、ある意味で差別や排除の道具に使われるもので、これに言及するとそれだけで長くなるので省略するが、今回の来日には日本のパスポートを使用したようだ。(フランスのパスポートも保持しているが…。)
この彼女、生まれたばかりの頃は日本人であるママ(娘)と主に接していたので、言葉はまず日本語から覚えてきたようだ。
さらに、夏は毎年フランスを訪れていた私たち夫婦と共に暮らしていたので、日本語がみるみる上達していった。
言葉だけではなく、同時に感覚も私たちと似てくるようで、4歳ごろ初来日して1ヶ月余り日本で過ごすうちに、すっかり日本人になっていくのが分かるのだった。
このことに、彼女のフランスの祖父母は、あまり日本にいるとフランス語が忘れてしまうのではないか…と心配していたものだ。
たしかに、日本語の上達は顕著で6歳の時に日本の小学校へ半月ほど体験入学していた頃は、平仮名やカタカナの読み書きはもちろん易しい漢字も読み書きできるほどだった。
ところが、これが大きく変わっていったのは彼女がフランスの小学校へ入学してからだ。
先述したように移民が多いため、フランス国家の小学校教育は特にフランス語の習得に力を入れており、1年生から多くの時間をフランス語に費やしている。
それによって彼女も例にもれず、フランス語が達者になった。
しかし、それと反比例するように日本語力が低下していったのである…。
前置きが長くなったが、私が関心のあったのはこのフランスの「教育」がどれだけ子どもの成長に影響してくるのか…ということだ。
それが早くも6〜7歳から表れてくるのを感じた。
「その人らしさが開花すること、人権と自由が尊重されることを確かにすること」が教育の目的の一つになっているということからも分かるように、日本の管理教育とは一味違うものだ。
とにかく自己主張を大切にする教育は保育園から始められており、子どもどうしの争いでも意思に反した行為を受けたら、先ずはNONと言うことが教えられるのです。
日本のように保育士(教師)に指導されて、「ごめんね」「うんいいよ」といった柔らかい人間関係を築くことより、自分がNONと言える教育をされているというのだ。
そういう目で孫娘を見ていると、ほぼ全てが納得…という感じである。
例え客観的には彼女の主張には無理があっても、彼女は頑として自分の主張を貫き通すのだ。
実は、このことが引き起こす悲喜交々な事態がこの夏にたくさん見られたのである。

(つづく)
<すばる>
さて、夏の大会で初めて彼の姿を見た時はあえなく三振や凡打に倒れた場面だった。
3度目の打席では代打を送られ、悔し涙が目に浮かんだ…。
しかし、彼の代わりに打席に立ったのはチーム唯一の女子選手だったのは幸いだった。
何とその彼女がライト前に打ち上げたフライを右翼手がエラーしたのだ。
応援席は一気に盛り上がった。
それがきっかけでチームは逆転勝利を飾ったのである。
孫の心境を思うに、かなり複雑なものだっただろう…。
翌週、次の試合も私は観戦した。
この日はM中の打線が全く奮わず、初回に1点を取って以降はほとんど出塁することがなかった。
敗色濃厚な6回(中学校の地区大会は7回まで)の表、4番バッターが相手エラーで出塁した後、次に打席に入ったのは孫、これで中途半端なバッティングで内野ゴロでも打ったら一気にゲッツーの可能性もある中、粘りに粘ってついに四球を選んで一塁に歩いた。
何しろそれまでヒット2本に抑えられ、1-2でリードを許していた彼のチームはここで一気に盛り上がった。
孫がホームインすれば逆転だ。
ところが、ここで雨足が強くなり止む気配もなく試合は中断、結局次週の第一試合に続きを行うことになった。

帰宅した彼を私は褒めた。
あの場面で四球を選んで出塁したのは実に大きなことだ…と。
実際、大人でもドキドキするこんな場面で、追い込まれても冷静にボールを見極めて四球を得たのは素晴らしいと思ったからだ。
この続きの試合も観戦したかったが、残念ながら行くことができずハラハラしながら結果の報告を待った。
「今日はM中野球部の大切な試合だね。R(孫)のホームインが決勝点になることを祈ります。勝っても負けても全力でプレーしてね」とLINEを送っていた私である。
やがて、私の願いが通じたかの様にM中学はこの回で逆転、3対2としてそのまま逃げ切ったとの知らせが娘から入った。
私はドライブ中のハンドルを叩いて歓喜した。
私のシミュレーション通りに孫っ子がホームイン、これが決勝点となったのである。
こうした試合を重ねていった孫のM中は、念願の県大会出場が決まった。
ある試合の際に、ボランティア部の部長を務める大柄で大らかな男の子が応援にやって来たことがある。
彼とは地域の神社の清掃活動で知り合ったのだが、「やっぱ、行かなくちゃまずいかなと思ったんで…」と笑いながら話してくれた。
元々は柔道をやっていたという彼は、「まっ、もうやめてもいいかなって思ったんで…」地味なボランティア部に入ったとか。
その彼が仲間の活躍を自分のことの様に喜ぶ姿が印象に残る。
孫に聞くと、やっぱり学年の人気者でいい雰囲気を周囲に放っているようだった。
話は少し逸れたが、孫の受験勉強専念の開始時期がこれでまた先送りになったのである。
さて、県大会は初戦から強豪校と言われるチームとぶつかった。
この日も残念ながら私は応援には駆けつけることができなかった。
外出先で吉報を待ったがなかなか連絡が来ない。
きっと良い試合をしてるに違いない…と思っていたところ、娘から連絡が入った。
かなり追い詰めたのだが、力及ばず惜しくも敗戦したとのことだった。
ところが、送られて来た動画を見ると何と彼は外野手の頭上を抜く大きな当たりを放ち、そのままホームまで走り込んでいるではないか!
ランニングホームランを打ったのである。
さらに三遊間を破るゴロのヒットも打ち、この日の彼は大当たりだったようだ。
試合には負けてしまったのに、娘は妙に明るい雰囲気で語るのだった。
親としては、このまま勝ち進んで行ったら受験勉強がさらに先延ばしになるからだろう…。
私は例によってLINEで彼にメッセージを送った。
「凡フライが多かったM中にあって、強烈なゴロのヒットを打ったのは素晴らしい。また、無理して引っ張らず右方向へジャストミートしたランニングホームランも基本に徹した成果だね」と。
帰宅して久し振りに顔を合わせた際、夏の大会の始めの頃とは全く表情が変わっていた。
何か柔らかな顔立ちになっていたように思う。
自分としても満足できた最後の試合だったからだろう。
彼にとっての暑い夏が終わった。
(つづく)
<すばる>
私には2人の孫がいる。
男と女の子が1人ずつで、歳の差は3歳。
長女とニ女の子たちで、男の子は同居で女の子はフランス在住である。
どうでも良いことで、敢えてこだわると娘たちに叱られそうだが、ついつい私がこだわることがある。
それは、2人とも容易に子に恵まれず、やっと産まれた一人っ子という特性がある。
必然的か過保護(愛情たっぷり注がれて)に育てられた2人である。
これは、本人たちの責任ではないので、(仮にマイナス面があるとしたら)この事に原因を発する見られ方は彼らの本意ではないだろう。
しかし、客観的には今日に至るまでの生育過程ではこれが結構な比重を占めていることは否めない。
さて、前口上はここまでとして、以下に彼らのこの夏のエピソードを紹介したい。
まずは男の子。
彼は中学3年生の野球少年、この夏の大会で部活動引退となる。
夏休みに入っても朝練があり、泥だらけのユニフォームを着て真っ黒に日焼けした顔で昼前に帰宅する。
少しでも熱中症リスクを避けるための早朝からの練習ではあるが、結局は午前中いっぱい費やす感じであった。
(部活の在り方や顧問の教員の負担等、課題は多いが別の機会があれば触れたい。)
さて、彼にとってこの夏の目標は県大会に出場することだ。
「勝ち負けよりも日頃の努力…」等というのはあくまでもたてまえで、当の子どもたちはもちろん校長始め教員たちも「勝つ」ことを1番の目標にし、口にも出している。
夏季総合体育大会(総体)の一環として市内の中学校を2つのグループに分けて優勝を争う大会だ。
市の運動公園において、7月の上旬から土・日曜日に陸上競技と野球の熱戦が続いた。
孫のチームは今までの各種大会で好成績をあげているとかで、1回戦は免除のシード校だ。
私は初めてスタンドの応援席に行ったが、最前列には1、2年生のベンチ入りメンバー以外の選手たちが立ちっぱなしでメガホンを持っての応援、その隣には部員の保護者会の親たちが氷や飲み物を備えて控えていた。
さらにスタンド上方にはブラスバンドの集団が高校野球並みの応援演奏🎶

孫は右翼手で5番バッターである。
元々はテレビでプロ野球のピッチャーの投げるのを真似して、鏡に向かってシャドーピッチングをしていたことから、小学校時代はピッチャーを務めていた。
ところが、中学に入ると、体がそう大きくはなくコントロールは良いものの豪速球は投げられず、2番手3番手のピッチャーに位置付けられていたようだ。
私の目からは、器用に何でもこなすが迫力には欠けるという感じだった。
それでも、バットに当てるのが上手いのかコツコツと打撃を重ねて5番の位置を獲得した夏の大会であった。
何しろ彼は、小学校入学時より短距離こそ速かったが、持久走は常にラストを走るという「根性」の無さに加えて、ボールを持ってもまともに前へ投げることができなかった。
野球なんてとてもできる子ではなかった。
彼の親もそんな彼に球技を教えることもなかったので、私が彼を連れ出して大きなソフトボールをコンクリートの壁に向かって投げることから教えた。
その効果があったのか、スポーツテストではやっと10mを超えたと喜んでいた時もあった。
そんな彼が野球を本格的にやる気になったのは、近所に引っ越して来た1歳下の男のに誘われて少年野球のチームに入った時からだ。
まともにキャッチボールもできない彼だったが、今度ばかりは私のキャッチボールの誘いに乗ってきた。
少し強いボールを投げると怒ることもあったが、この頃から教えに忠実で形から覚えるというパターンが作られたようだ。
実は5年生になった時にバスケットボールを(も)習わせようとしたのだが、既にこの時には野球に嵌りかけていたようだ。
小学校時代は野球で、中学からはバスケットボールという私自身の体験から勧めたのだが、彼には余計な押し付け以外の何物でもなかったようだ。
さて、中学入学後の彼は着々と力をつけていき、野球(部活)中心の生活になっていった。
私は体験したことはないが、これだけ練習すれば上手になるのは当たり前ではないだろうか…。
中学へ行って新たに始まったのは、学習塾という所へ入った(入れられた)ことによる強制的な勉強時間だ。
部活でヘトヘトになって帰宅して、シャワーを浴びてすぐ夕飯をかき込み、自転車を漕いで学習塾へ…。
私たちジジババは両親の代わりを務めて、毎日夕飯作りに勤しむのである。
塾が終わって帰宅すると「野球ノート」の記述に時間をかける。
宿題があると、その後になるから就寝するのは12時少し前という感じだったようだ。
「文武両道」なる言葉を借りて、私までもがいつの間にか彼を応援する立場になっていた。
無口であまり自己表現をしない彼も、いつの頃からか教訓じみた言葉を表すようになった。
ある時、居間の壁に「存在感」という習字の文字が貼られていたのを見た。
どうやら、自分たちの学年が部活の中心になるに当たり自分の決意を書いたものだったようだ。
彼自身が一番感じていたのかもしれない状況を見事に表現したように思える。
私はここに彼の成長を感じたものだ…。
(つづく)
<すばる>
「和を以て貴しと為す」という風土が一定程度根付いた日本においては、論議するより協調することが良しとされがちです。
敢えて争うことなく穏やかに日常生活を送れたら何よりですが、対立するのを恐れて我慢したり無理やり従わされるのは本意であるはずがありません。
ところが、この国では同調圧力や忖度という目に見えない力がはたらくことが少なくありません。
そうです。論議することが避けられタブー視される社会が構成されます。
こうして作られてきたのが保守的社会とも言えます。
これが地域社会のみならず学校にまで浸透しているのが現実です。
文科省を頂点とした教育行政においても、その他の行政同様に上意下達の構造が根付いており学校現場の大人たちも保守的構造から自由になれていません。
そんな大人(教員)が子どもの前に立った際、自由に論議することを基調とした民主主義教育を実践するのは容易ではありません。
ところが、文科省は2017年に思い切った文言を使って子どもに「自由」を投げかけたように見えました。
指導要領の改訂で「主体的で対話的な深い学び」というキャッチフレーズで現場にハッパをかけてきたのです。
実は私の個人的な思いやそれまでの実践からすると、これこそ私が実践したりしようとして圧力をかけられてきた教育論だったのです。
私は低学年であっても、子どもたちが自由に話し合いながら課題にせまる授業を実践してきました。主に社会科や道徳を中心に行いました。
論点を定め自分の生活をふまえながら話し合いをさせた授業は白熱を帯び、子どもたちが大好きな授業でした。
これは、文科省が言っている「・・・学び」であると同時に、子どものみならず教員にとっても楽しい学びでした。
反対にそれを実践して圧力がかかった事例もあります。
最後の授業として位置づけ、子どもたち自らが考え話し合って作り上げつつあった「卒業式」の形態が地域の保守勢力の介入によって潰された例です。
この際、現場の名誉のために述べると、校長はじめ教員たちは精神的には応援してくれましたが、
地域保守(自民党タカ派)勢力に後押しされたごく一部の保護者たちが私を執拗に攻撃して混乱を引き起こしたのです。
このことを考えると、果たして文科省が唱えるキャッチフレーズは本当に信用できる中身なのかは大いに疑問が残ります。
それというのも、この改訂指導要領では、同時にプログラミング教育や外国語教育、そして悪名高き「道徳」の導入を図ってきたからです。
さらに、「主体的で対話的な深い学び」の説明やその後に示された指導例を見る限りにおいて、指導法は雛形に押し込まれるような決めつけでした。
実際にそれに則った授業というものを見たのですが、単に形だけを整えているだけで子ども自身が主体的・対話的な学習をしているようには思えませんでした。
やっぱり権力が教育に絡むことで、民主主義をつくりあげる作業は挫折を余儀なくされる可能性が大であるのが実情です。
「対話的」という文言で大いに子どもたちが論議できる土俵ができたかと思いきや、論議の在り方まで規制された中では実現できません。
本稿が主権者教育や政治教育という範疇から始まったことをふまえるなら、前述のような教育では全く意味をなさないばかりか、子どもたちの意識は育っていくはずがありません。
まずはしっかり大人が権力から解き放たれ、自由になってこそ民主主義が始まるのです。
(つづく)
<すばる>
🔷1日目
反戦・反原発の運動に地域で取り組んでいるSさんにお話を伺ったり動画を視聴したりした。
珠洲原発建設を止める住民運動、志賀原発がいかに危険な場所にあるかやトラブルが続出し管理できていない状況など、知らなかったことを知ることができた。
住民たちが未来を見据えて珠洲原発反対運動を闘い原発の建設を止めたのはすごいと思った。
原発事故が起きたときの避難計画がいかに絵にかいた餅かが、2日目に実際に道路を運転し、崖崩れの跡や道路が陥没している様子を見てよくわかった。
被災した自宅のある場所を更地にして新しい家を建てると話していたおじいさんの話や「復興・復旧とは何か?」について、住んでいた場所に戻ってその場所に住み続けられることだとSさんがおっしゃっていたことが心に残った。
過疎化がすすみ、一人では動けないお年寄りがたくさんいる地域も多いとのことだが、豊かな里山の風景、自然があるこの地域で、誰もが原発に頼らなくても生きていける地域にしていけるような政策を日本はすすめるべきなのに、現実には、ずさんな避難計画で、都合の悪いことは隠ぺいし、とっくに崩れている「安全神話」をいまだに維持して原発政策を推し進める政府には、改めて怒りがわいた。
一部の利益のために地方や弱者が犠牲になる政治をはやくやめさせたい。
🔷2日目
輪島市の朝市通りを見学した。
新幹線の中で読んだ雑誌にあった焼ける前の朝市通りと目の前にある朝市通りとの違いに、ただただ悲しくなった。
焼け跡に残る生活の痕跡、陶器を焼く窯の跡、手向けられた花。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、このような災害をどうすれば防げたのかを考えるためにも、被災地を忘れずに注目し続けていきたい。
私は3日目は参加できなかったが、被災された方々・子どもたちの声、学校の状況など、参加した方に後日お話を伺い、子どもたちにも伝えていきたい。
江戸川区教組のみなさま
なかまと共に合宿で学びあえることは、本当にありがたいことです。
合宿の準備をしていただき、どうもありがとうございました。

地割れした輪島中学校の校庭

被災した輪島市朝市通り
私は「郷土教育全国協議会(全協)」の会員ですが、今年度末をもって機関誌『郷土教育』の発行を停止・休刊することになりました。
1951年に「武蔵野児童文化研究会」として発足、翌52年に『歴史評論』に「私たちの郷土研究」を発表して郷土教育運動が公になりました。
さらに、53年には私の実家近くの成田市で第一回郷土教育研究大会が開催され、冨里村フィールドを実施しました。あわせて会名を「郷土教育全国連絡協議会」と改称しました。
54年には歴教協と共同で機関誌『歴史地理教育』を発行、その後も郷土教育とは何かを研究・論議してきましたが、57年の世田谷の九品仏集会で郷土教育はどうあるべきかを論議し歴教協とたもとを分かちました。
58年には『郷土教育的教育方法』(明治図書)を発行し、教育における地域性の尊重を訴え機関誌を『郷土と教育』と改称しました。
さらに、翌59年には『生活と教育』と改題して『生活をまなぶ社会科教室』(大村書店)を出版しました。なお、この年から会名を「郷土教育全国協議会」となりました。
今思うと、戦後のレッド・パージ(この際に郷土教育創設者の桑原正雄もレッド・パージされる)の時期から勤評闘争、60年安保闘争をはさみ学テ闘争、原水爆禁止運動の内部対立等々があった激動の時代でした。
機関誌名が「郷土教育」となったのは1975年でした。
以上、長々と歴史的経過を述べましたが、以下に紹介する「社会科 授業研究」は数ある出版物の一つで1971年に自主出版されたものです。ちょうど私が教員になる一年前でした。
50年以上も前の出版物ですが、中身は実に新鮮な感じを受けます。それは、私の求める教育の本質が凝縮されているからだと思います。
機関誌休刊を控えて事務局の倉庫を整理する中で改めて発見した書籍です。
私からもお薦めしたいと思います。(書籍代は無料で郵送費のみ着払いでお願いしています。)
以下に書かれた文章は同じく会員のK.Iさんが最新の機関誌に執筆したものです。
執筆者と事務局に許可をいただいて掲載することになりました。
「郷土教育」前号780号の平林さん追悼文の中でも紹介した「社会科 授業研究」の本は私のイチ押しの本である。
郷土全協発行で実際の授業に触れた本は意外に少ない。
この本は郷土全協の7人の会員が授業をし、それを参観した郷土全協会長の桑原正雄の感想、指摘が書かれている。
授業と授業者は以下のとおりである。
① 等高線 (小学4年) 園部俊也
② 基本的人権をどう考えるか(中学3年) 東末孝
③ 麦作り (小学5年) 平林正好
④ 町のうつりかわり(小学3年) 中村寿子
⑤ 江戸時代の農民のくらし(小学6年) 園部芳江
⑥ 日本の工業(中学1年) 木下務
⑦ 明治維新 (中学2年) 平林茂
この本のおもしろい所は、事前にみんなであれこれ研究しての「研究授業」ではなく、私たちが毎日当たり前にやっている「普通の授業」を吟味している点である。
この本の「はじめに」の中で桑原正雄は次のように言っている。
〝すばらしくない〟ふだんの平凡な授業の中にこそ、わたしたちが真剣に考えなくてはならない、教育の重要な問題点があるのではなかろうか。人に見せる〝よそいき〟の研究授業ともなれば、〝すばらしい〟実践はできないにしても、だれもが〝カッコイイ〟授業をしたいと思う。その反面、ふだんの授業は深く考えないままに、いいかげんにすましているのではなかろうか。日本の大多数の子どもたちが、そのようなふだんの授業によってそだてられているのである。ふだんの平凡な授業こそ、わたしたちはたいせつにしなくてはならないのではないか。
ふだんの平凡な授業の中には、だれもがおかしやすいあやまちや不十分さがひそんでいる。そのあやまちや不充分さがみんなの問題として、みんなの力で克服されたとき、日本の教育はすばらしくなる。
……ぶっつけ本番のふだんの授業をとりあげることによって、教育の本質にせまる研究が可能ではないかと考えたのである。〝授業研究〟であって、〝研究授業〟ではない。ことさらに〝ふだんの授業〟をとりあげたのである。
私は現役教員時代、既成の予定調和の結論へと誘導する授業ではなく、授業で子どもたちと話し合う中で各自がいろいろな角度から物事を見つめ、自身の生活や世の中の矛盾に気付き、それぞれの子どもが自分のことばで自分なりの考えを深めていく授業をしたいと常々思っていた。
社会科で授業をどう組み立てようか、授業そのものへの姿勢はこれで良いのだろうかと悩んだ時、何度も何度もこの本をめくり、すり減るほど読みこんだ。
この本に難しい言葉は出てこない。読みやすい。「自分もこんなことをやってしまう」、「よくある、よくある」とニヤリとしながら読んだ。授業参観後の桑原さんの指摘は、なるほど、そういう視点もあるのかと視野を広げさせてくれた。
しかし、いざ、自分の授業にどう応用するか、この本から何を吸い取ろうかと考えると答えは簡単には出て来ない。そうたやすい問題ではなかった。それでもいつでも自分の脇に置いておきたい本であった。
発行は1971(S46)年とかなり前だが、18㎝×13㎝のこの小さな本に全協の精神が凝縮されている。今の時代にこそ、この桑原さんの問題提起をどう受け止めるか考えさせられる本だ。
幸いなことに、全協事務局にこの本がたくさん保管されていることが分かった。今回、希望者には何冊でも寄贈してくれるとのこと(着払いで郵送)。
まだ手に取っていない人はぜひ1冊持っていると良い本である。特に現職教員の方、教職を目指そうとする方々にはぜひそばに置いておいてほしい。大学の教育系ゼミなどでこの本を教材として学習会をしたらきっと収穫大だろう。
寄贈希望者は機関誌「郷土教育」の裏表紙に出ている郷土全協メールまたはQRコードにて下記の点をご連絡ください。
・送り先 郵便番号 住所
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・電話番号
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・配達希望時間
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