何かが目をさませば、「努力」や「解決策」、「プロセス」を用いなくとも、問題も疑問も、夢ごと消えてしまいます。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/1ecd90b1c3980592b17804909a0ea2f5
(ここから)
「この世が夢であるならば」
昨日見た夢に、「ビックバン」はあったでしょうか?
昨日見た夢に、「時間」はあったでしょうか?
昨日見た夢に、「意味」はあったでしょうか?
昨日見た夢に、「価値」はあったでしょうか?
昨日見た夢に、「目的」はあったでしょうか?
あらかじめシナリオを書きましたか?
何を得て、何を失ったのでしょう?
何が生まれ、何が死にましたか?
昨日見た夢を忘れて、今日なにか問題でも?
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https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/8b2d4090fdc3c4ac2f4fa5f1541dcfc2
「ありやなしや」
夢の中の登場人物が、何をしようが、何をしまいが、そんなのは関係なく、<なにか>の見る夢は続きます。
また逆に、夢の中の登場人物が、何をしようが、何をしまいが、そんなのは関係なく、<なにか>が目覚めれば、夢は消えてなくなります。
これまで「目覚め」や「悟り」というものに、因果や原因と呼べるものはなく、ハプニングとして訪れる、とお話してきたのは、そのためです。
また、「その目覚めや悟りが起こったとしても、そこに<答え>はありません、<問題>や<疑問>がないんです」とお話してきたのも、同様の理由です。
僕たちが目にしているどんな問題も疑問も、夢の中に生じたものです。
<なにか>が目をさませば、「努力」や「解決策」、はたまた「プロセス」を用いなくとも、問題も疑問も、夢ごと消えてしまいます。
『究極的には、何があっても大丈夫』といったメッセージは、そんな背景から語られています。
しかしながら、夢の住人としての僕たちから見たら、問題は相変わらず問題だし、苦悩は変わらず苦悩です。
そこで、それを何とかしようと日々もがいているわけですが、実際に、夢の住人である僕たちが取り組める解決方法はあるでしょうか?
このことを何千年も繰り返し語ってきたのが、宗教やスピリチュアリティ。
単刀直入に結論を話してしまえば、僕たちにできることは、ありません。
それを伝えてきたのが「インシュアラー」や「南無阿弥陀仏」などといった、降参(サレンダー)系の言葉です。
「インシュアラー」は、イスラムの「神の思し召すままに」という言葉。
「我々の運命は神の御心によって定められている」「人間が自分たちの未来を自分たちの意志でコントロールできるというのは思い上がりである」といった言葉で、それが転じて「私(あなた)の願いが、神の御心と一致していますように(そうなりますように)」という風に使われるのだそうです。
「南無」っていうのは、「感謝と尊敬をこめて、すべてお任せいたします」といったようなこと。「阿弥陀仏」は、この夢をみている<なにか>のこと。
イスラムにも、仏教にも、キリスト教にも共通して語られているのが「<なにか>の思し召すままに」なんですね。
『完全降伏のち、完全幸福』と。(←うまいこと言ったでしょ的なドヤ顔で)
が。
「できることは、なんにもありません!」なんて言い切られたら、なんか悔しいじゃない(笑)。
「そんなこと言わないでさぁ、ちょっとぐらいチャンス頂戴よ」って思っちゃうじゃない。にんげんだもの。(by みつを)
「なにかひとつでも、夢に見られている我々が、夢を見ている<なにか>を目覚めさせる方法はないの?」って、考えちゃいますよね。
悪夢の最中なら、なおのこと。
と、いうことで。
ここはメッセンジャーではなく、マスターに登場いただきましょう。
「マスター、なんでもいいです。悪あがきでもいいです。僕たちにできること、ありますか?」
(ここまで)
ありがとうございます
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森林の中の光の撮影です。
引き寄せの法則、宇宙の法則
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