タランティーノの言い分、私の言い分 | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 まず最初に、ここが大事なので書いておくと、クェンティン・タランティーノ監督と私は同い年、1962年生まれである。

 面識のない有名人でも、自分と同い年だとどことなく親近感を持つもので、彼が「レザボア・ドッグス」で世界を賑わした頃から、彼の映画はいつも映画館に見に行っている(「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」だけは、感染拡大の影響で映画館に行けず、後にアマプラで見たのだが)。

 余談だが、かつて近鉄バッファローズに助っ人外人として来て、ホームランを打ちまくったブライアント選手も同い年だ(これはほんとに余談中の余談)。

 

 きのうネットのニュースで、タランティーノ監督への短いインタビュー記事を読んだ。見出しは『アメコミヒーローの映画は撮らない』で、内容は概ね以下の通りだった。

「そりゃあ僕だって『スターウォーズ』は好きだよ。(注:おそらく初公開の時の事だと思うのだが)見終わった時、登場人物たちと一緒に大冒険をしたような快感があったし、すごい映画だなぁと思ったさ。でも、僕の撮りたい映画は、あれじゃないんだ」

 私のつたない文章ではなかなか正確に伝えづらいのだが、これは1962年生まれで今年60歳になる年齢のおっちゃんで、なおかつ子供の頃から狂ったように映画館に通い詰めていた者が、おそらく共通で感じている事なのではないか、という気がする。

 

 今まで何度か書いているが、「スターウォーズ以前」と「以後」では、ハリウッド映画は180度その傾向が変わってしまった。それまで延々と続いていたアメリカン・ニューシネマに端を発する「映画はバッドエンドが当たり前。だって現実でもハッピーエンドなんてそうはないじゃん」という空気が、「スターウォーズⅣ」のあられもない『どハッピー・エンド』によって一夜にしてひっくり返ってしまい、その後はそれこそが映画の醍醐味であるかのような空気に変わり、社会派や難解な映画以外の娯楽映画では、バッドエンドは死滅してしまったに等しいかった。

 だが、タランティーノ少年や十川少年、さらに同い年か一年違いくらいのブラッド・ピット、チャウ・シンチー、トニー・レオン、とどめにトム・クルーズと言った「62~63年組」は、その状況の中で、何だかハシゴを外された宙ぶらりんの気分を抱いたまま、映画を見続けてきた(これは私の推測にすぎないが)。

 何故なら、60年代後半から70年代前半のあの、一見闇雲に破滅に突き進んでいっているようでいて、「たとえ死のうが何だろうが、自分は突き進む」という、主人公たちの強い意志に我々は喝采していたのだし、今風に言えば、彼らのラストでの死に様は、今風にいえば決して「バッドエンド」ではなく「ビターエンド」だった。我々はそのビターな気分に酔いしれ、「映画っていいなぁ」と思っていたのである。

 もっといえば、我々62年組は、映画とは「ビターエンドが当たり前」という時代に映画沼に落ちた連中な訳だ。60年代後半のアメリカン・ニューシネマは、なにせ幼稚園児だったのでリアルタイムでは見ていないものの、その後思春期になってから名画座で見倒した。

 

 きのう読んだタランティーノのインタビューでは、「アメコミのヒーロー物の映画化は、プロデューサーのいいなりにならないと作れない。つまり、ただの『雇われ監督』になってしまい、自分の監督としての意思を反映できない」という意味の事を彼は言っていた。ただ、それだけだとあまりにトゲトゲしいと思ったのか、最後に「スターウォーズ」という、何を言っても当たり障りなく受け入れられる例をもってきて、昨今のアメコミ映画が氾濫している状況への不満を、うまく横にそらしていた。

 しかし彼の本音は、おそらく、「62年生まれの不満」=「ハッピーエンドだけが映画の正義ではない」という事だったろう。アメコミ映画の全てがハッピーエンドだとは言わないし、むしろ「ローガン」とか、ビターテイストのものだってあるが、何しろ悩もうが問題を抱えていようが彼らは『ヒーロー』だ。ヒーローが悪に敗れてしまうエンディングは考えにくいので、どうしたって、「悪に対する勝利」からの「ハッピーエンディング」にならざるを得ない。

 

 だが、私とて、気分はタランティーノと同じである。

 ライターになって30年以上の間、数え切れないほどの脚本を書いてきたが、アニメの脚本はビターテイストが精一杯で(それもさんざプロデューサーと揉めないと実現しない)、ほとんどの場合ハッピーエンドで終わらなければならない。いつからそうなってしまったのかはしらないが、現実はそうだ。よって、何となくビターに書き進めてきた話を、最後にどうにかつじつまを合わせてハッピーエンドに強引に持ち込む作業を何度やったかわからない。仕事だから割り切ってそうしてきたが、タランティーノの気持ちは痛いほどわかる。

「僕の書きたい脚本は、そうじゃないんだ」

 と。

 わかりやすくするために、わざと話を「エンディング」に集約して書いてみたが、実はそれだけではない。

 ちゃんとしたハッピーエンドに向かっていくためには、物語の途中にそのお膳立てがなければならず、しかしタランティーノや私はそれをしない。何故なら、ハッピーエンドを信用していないからだ。彼はあれほど成功した監督で自分の会社を持ち、自由に映画を撮っているからビターでもバッドでも好きに撮れる訳だが、私はどちらかというと職人肌でカリスマでも何でもないただの「雇われライター」だから、どことなくもやもやしながら物語を書き続け、ラストにやむを得ずハッピーエンドにもっていくしかない。全ての作品がそうだとは言わないが、基本はそうする事が多い。

 つまり、監督ではないものの、タランティーノ言うところの「雇われ」である。

 

 タランティーノに限らず、トム・クルーズの「トップガン/マーベリック」にしても、ブラピの様々な出演作やプロデュース作、チャウの絶妙にひねくれたギャグの連打、トニー・レオンだったら「インファナル・アフェア」がそうだろうし、皆、どこかハッピーエンドとは無縁のところで仕事をしている感がある。そうではないハッピーエンドの時は、どうも彼らの魅力がイマイチ光らない気がしている(そんくな気がするのは私だけなのかもしれないが)。

 これは、70年代前半当時、10代前半の我々(きら星の如き皆さんに、同い年というだけの理由で私も参加させてもらっている。笑)が映画館で息を詰めて見つめていた、あの「死をもいとわず突き進む、ある意味痛快な男たち、女たち」が、当然の如く強大な権力や力にはまったく歯が立たず、虫けら同様に自滅していく様が、それでも震えるほど「人の生き様」を体現していたがために、我々にすりこまれてしまったのかもしれない。これは特攻賛美などという馬鹿げた思考とは全く別のもので、結局死んでしまう彼らも、全身全霊をかけて生き抜こう、自分の意志を貫こうとした結果、しかし待っていたのは「死」だったという結末にすぎず、そこが当時は「ビターエンディング」でたまらくよかったのだ。たとえ今の基準でそれが「バッドエンド」であろうとも。

 

 これも前に書いたが、「レザボア・ドッグス」が公開された時、私は駆け出しのライターだったが、この無名の、しかしとびきり70年代前半の「あのビター感」をわかっている監督が自分と同い年だと知った時、私は何よりも「なんと羨ましい」と思ったものだ。その後も、彼は頑として自分の意志を曲げず、「スターウォーズ以前の映画ってこんなにかっこよかったんだぜ」という事を新作を作る度に実証し続けている。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は、そこにビター感だけでなく皮肉、諧謔、さらには「人の生き様」(特にブラピの演じたスタントマンの、いい加減だがしたたかな生き方)をいい具合に忍び込ませた快作だった。唯一、現実のシャロン・テートという女優さんにどれほどおぞましい悲劇が降りかかったのか、その予習が必要なところが唯一欠点といえばいえる映画でもあったが(あの事件をある程度知っていないと、この映画は人によってはほぼ理解不能に陥る危険をはらんでいる)。

 

 「十川さんの脚本って、ラストがビターテイストな事が多いですよね」とか、「十川さん、ハッピーエンド、嫌いでしょ?」などと、私の思考を見抜いた監督やプロデューサーにこう言われた事が何度かある。いつも「そうかなぁ」などとテキトーにごまかしてきたが、彼らの読みは当たっている。

 そう、私はどうしてもハッピーエンドがなじめないのだ。

 

「オレたちゃ、死ぬまでビターでいくんだぜ」

 

 これが、1962年生まれの、タランティーノと私の言い分。

 

 おわかりいいただけただろうか……(自信、なし)。