「やがてなくなる」と思っていたあの頃 | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 上の写真は、何の変哲もない歩道沿いのツツジの植え込み。

 だが、こう想像してみたらどうだろう。

「もし他国の長距離ミサイルが飛んできたり、軍隊がなだれこんできて銃撃戦になり、この車道と歩道を隔てる植え込みが木っ端微塵に吹き飛ばされたらどう思うだろう?」

 今、ウクライナがまさにそんな状況になっている。上の想像を映像として頭の中に浮かべてみれば、誰しも「それはあまりに理不尽だ」と思うのではないだろうか。

 

 今日は終戦の日。

 だからという訳でもないのだが(今日に限らず、戦争の事は一年中気にかけているべきだと思っているので)、思いつくままに書く。

 

 私が小学生から中学1年生にかけて、1960年代から70年代はベトナム戦争の時代だった。我が家は朝食の時も夕食の時も、だいたいニュースを見ながら食事をしていたので、朝ご飯や晩ご飯を食べながら、ほぼ毎日ベトナム戦争のニュースを見ていた。たいていは泥沼化したあの戦争が「いつ終わるか予想できない」という趣旨の報道だった記憶があるが、最も鮮烈に覚えているのは中学1年生の時、1975年、遂にベトナム戦争が終わった日の新聞記事だった。

『ベトナム戦争終結』という意味の(正確な文章は忘れてしまった)いつになく大きな見出しがあり、サイゴンが陥落し米軍がベトナムから撤退を始めたという記事だった。

「終わった……」

 小さい頃から何年もニュースで見続けていたあの戦争が、遂に終わったという感慨が、中学1年生の私ですらあった。

 そして、「戦争というものはいつかは終わるものなんだな」と思ったし、「だったらこの先はもうあんな大きな、何年も続くような戦争はこの世から消えるんじゃないか」と、子供の素朴さで思ったものだった。

 

 だが、その後は皆さんもご存じの通り、世界の各地で紛争は絶えず(「紛争」というのは単なる言葉の方便に過ぎず、当事国や当事者にとっては紛れもない「戦争」である)、90年代には湾岸戦争があり、アメリカの9.11に端を発したイラク戦争があり、そして今は、あろう事か、このパンデミックで世界が大騒ぎの最中にロシアが隣国ウクライナを侵略しにかかるという暴挙が続いている。

 つまり、子供の頃に私が思った「戦争とはいつかは終わるものだ」というのは間違ってはいないものの、正確には、「ある戦争はいつかは終わるものの、するとまた次の戦争が別の場所で起きる」という歴史が続いている。

 これでは、大きな意味では「戦争は終わらない」、つまり、この地球上から、戦争というものはいつになってもなくならない、という事になる。

 

 何故そうなるのか。

 私は軍事評論家ではないし、皆さん同様ニュースで事の成り行きを知るだけだから真の理由はわからない。だが、いつまでたっても戦争が必ずどこかで起き、それが常態化しているというが現実である。

 私の植え込みの写真が木っ端微塵に粉砕される映像を頭に思い浮かべれば、今ウクライナで起きている事がいかに非人道的であるかが少しは垣間見える気がする。ロシア政府とロシア軍はあれこれ言い訳をしているが、何の罪もない民間人が多数犠牲になっているのは事実だし、ウクライナはウクライナで、自国防衛のためにやむを得ないとはいえ、西側の各国、特にアメリカに武器の供与を懇願している。とある国家が他国から侵略を受け、「武器が足りない。頼むから供与してほしい」とフツーに頼んでいる事自体、自国を守るためとはいえ、世界を俯瞰して見ればかなりの異常事態である。

 まさか自分が人生の後半にさしかかった頃、このような未来が待っているとは、『ベトナム戦争終結』の新聞記事を読んだ中学生当時は夢にも思わなかった。

 

 「負の連鎖」という言葉があるのをご存じだろうか。

 どなたの著書だったか忘れてしまったのだが、この言葉が書かれている本を昔読んだ事がある。

 「負の連鎖」とは、一度二つの国が戦争を始めるとそこに互いに対する憎悪が生まれ、たとえ戦闘行為が終わって終戦を迎えても、両国民の間には相手国に対する「憎悪」は綿々と残り、やがては新たな戦争の引き金になりかねない、という趣旨の文だったと思う。

 さらには、人類の歴史とはとどのつまりは「負の連鎖」であり、戦争=人類の負の側面は、まるで永遠に途切れる事のない、どこまでも続く鎖のようなものだとも書かれていた記憶がある。

 思えば太古の昔から戦争はあったわけだが、そう考えてみると、人類は営々と、多大な労力と人々の死を費やしながら、この「負の連鎖」を続けているという事になる。

 

 私は、長年主にテレビアニメの脚本を書いて生計を立ててきた者だが、どうも業界内で「あの人は『アクションものが得意なライター』という先入観をもたれているらしく(間違いではないが、微妙に心外でもある。他のジャンルだって書いてはいるのだが……)、そうした傾向の、つまりヒーローが悪者と戦いやがては倒すという題材の依頼が多い。

 仕事だから当然引き受けるし書きもするが、正直、どうも勧善懲悪は昔から好きになれず、「悪者を倒すカタルシス」が嫌いなのだと思う。それよりは、ヒーロー側にもワル側にも双方の事情があり、その事情が折り合わなかったがためにそこに戦いが発生してしまっている、そういう内容の方が好きだ(アニメではないが、名作『史上最大の作戦』がまさにそれである。アニメでは「ファーストガンダム」がその典型といっていい)。

 よって、いつもではないにせよ、時に「戦えばいいってもんじゃない」という意味の台詞を入れる。

 ある小学生向けの作品の時は、酸いも甘いもかみしめた大人のキャラにこういう台詞を言わせた事がある。

『戦争はつまりは負の鎖がずっとつながっているようなものだ。その鎖は決して外れず、一度(戦争が)始まってしまったら、憎悪という名の鎖は伸びていくばかりで、負の連鎖は決して断ち切れない』と。昔読んだ本のパクリなどと思わないでほしい。これはどうも真実な気がして、リスペクトの意味で引用しただけである。

 また、かつてヨーロッパの局所的な紛争をおさめようと介入したアメリカを中心とする国連軍の爆撃機が、民間人と貨物を乗せているだけの列車を誤爆してしまい、多くの死傷者を出しただけでなく、運んでいた貨物もほぼ壊滅したというニュースを見た時、その映像の中には、まだ煙を上げている貨物車の残骸の周囲に、運ばれていた途中の赤ちゃんのおむつが大量に散乱していていたたまれなくなり、その頃書いていたアニメの脚本は最終的にかなり反戦的な内容になった。

 

 それでいて、ここ数年の私は、昔から飛行機好きだった事もあり、飛行機模型を作っている。旅客機も作るが、あれは基本は戦闘機や爆撃機を作るという趣味で、戦闘機の模型を作る人が全て戦争を肯定している訳ではないのだが(私だって肯定はしていない)、あまり大声で「爆撃機を作るのが大好きです!」とは言えない感がある。私自身は戦争と模型を作る趣味とは全くの別物だと思っているが、そこを直結させて見る人も少なからずいるはずなので、なかなか難しいものだと感じている。

 

 だが、これだけは言えると思う。

「人類はいつか必ず負の連鎖を断ち切らねばならない。『負の連鎖』が永遠に続くような事があってはならない」と。

 当時、上で書いた「負の連鎖云々」の台詞を会議で読んだ時、その作品のプロデューサーは、「これは小学生には難しすぎるのではないか」と言い、削除した方がいいと言った。私はこれには厳然と異を唱え、「今はわからなくても、いつか彼ら彼女らが大きくなった時思い出してくれればいい。しかし、書かなければ思い出してももらえない」と強引に押し切り、結局無事にそのまま放送された。

 私は極端な反戦論者ではないと思っているが、少なくとも世界から戦争がなくなってほしいとは考えている。だとすれば、私がその意思を社会に伝えるためには、このように、たとえ小さな子供が対象のアニメでも、「今はわからなくて構わないから、ひとまずこうした台詞を入れておく」のが、私にできる唯一の反戦の意思表示なのである。

 効果のほどはわからないが、これは今でも続けている。

 ベトナム戦争が終わった時の中学生だった私のように「戦争っていつかは終わるんだ」と、一瞬でも感じてもらうためには、このような台詞を忍ばせておくのは案外重要な気がするからだ。言えば『逆プロパガンダ』のようなものだが、何も考えずにただヒーローが悪を倒すよりはマシだと思っている。

 

 終戦の日の今日。

 今の私はたまたまかつての米軍の戦闘爆撃機「ファントムⅡ」の模型を作っている。少しずつ模型が形になるにつれ、あの日の新聞の見出しを思い出す。

『ベトナム戦争終結』

 

 いつかは根絶しなければならないもの、それが戦争なのである。