新宿昼話 | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 一口に新宿といってもいろいろな街があるが、私が住んでいるのは歌舞伎町の隣で、なにしろそういう場所だから「夜話」ならごろごろしている。だが、私は酒は飲まないので夜に外出はしないし、夜じゅう起きているとはいえ仕事をしているか模型を作っているかだから、近頃は歌舞伎町独特の「夜話」に遭遇する事もない。

 しかし、たとえば昼間の新宿の雑踏を駅の東口方向に向って歩いていると、街の変化やもっといえば時代の変化を感じ、「夜話」ならぬ「昼話」的な感慨が浮んでくる。

 

 数年前、渋谷区の外れに住んでいて、同居女子と一緒に買い物や映画に行く頃から、いや、もっと何十年も前の若い頃から、たいていは新宿で用事を済ます事が多かったのだが、あれは東京オリンピックの誘致が決まった2013年頃からだろうか、中国人観光客のいわゆる「爆買い」が話題になった頃から、新宿にはべらぼうに外国人が増えた。

 べらぼうに、である。

 昼間アルタ前や伊勢丹近くを歩いていると、とにかく外国人観光客が多く、まるで色とりどりの絵の具を街いっぱいにぶちまけたかのように、様々な「色彩豊かな言語」が街灯に溢れ返っている。中国語、韓国語、タイ語、英語、フランス語、たまにドイツ語や多分北欧の言葉、他にも様々だ。

 以前に仕事や観光で何度かニューヨークに行き、あの街のダイバージェントの凄まじさは体験済みだったが(ダイバージェントとは本来分岐するとか別の、という意味だが、昨今は多様性の意に解してもさしつかえないと思う)、あちらはどんなに多民族でもたいていの人が英語を話している。だが、数年前からの新宿は、観光客が多いのと(観光客はわざわざ訪問先の国の言葉で日常会話などしない)、日本語は難しいという事情から、当然母国語で話しながら歩いている。これらの言語が「ぶちまけられた色彩」の如く街に溢れているのである。

 今では爆買いはすっかり収まったようだが、その代わり中国人のツアー客は相変わらずひきもきらないし、ニュースでは「中国人観光客のリピーターが増えている」つまり、買い物の次は日本をじっくりと見て回る人たちが増えたなどと言っていた。例えば、私がよく模型の塗料を買いに行く大きなホビーショップでは、アニメ関連のフィギュアやグッズが豊富に売られているせいか(むしろそっちがメインの店である)、「よし、これからジャパニメーショングッズを買うぞ!」と意気込んだ若い中国人が何人もいて、店内に中国語が飛び交っている。アニメの仕事をする者としてちょっと鼻が高いような気恥ずかしいような、いつもそんな気分になる。

 

 一方、これは何度か書いているが、私の住むエリアには、観光客ではない外国人がたくさん「働き、かつ、暮らしている」。

 マンションの一階にある24時間営業のコンビニは、夜になると次の朝までずっとパキスタン人の若者たちが店員をしているし(日本人の店員は夜の間は1人もいない)、毎日行く大手スーパーのレジには、中国人や韓国人の若い女の子たちがずらりと並び、これも時間帯によっては日本人の店員がほとんどいない時もある。昨年引っ越してきて以来同居女子ととともにお気に入りでよく行っている、近所のネパール料理の店も、なにせネパール料理なのでシェフから店員まで全員がネパール人で、なかには日本語が全くできない人までいる。

 さらに、家の近所には若い韓国人のご夫婦やその幼い子供たち、同様の中国人家族、ちょっと見ただけではとごの国の人かわからない家族、白人、黒人、その他様々な国の人々が家を借り、仕事をし、スーパーやコンビニで買い物をし、皆「新宿で生活をしている」。

 昼間にようやく秋らしくなった日差しの中、涼しい風を顔に感じながらマンション裏の広場を通ると、そこには小さい子を遊ばせに来ている若いお母さんたちが何人もいて、しかし彼女らは多用な人種で形成されており、可愛らしく遊んでいる子供たちの言葉もまた、いろいろな国のそれで、広場に「国際子ども広場」のようなものが自然発生している状態になっている。

 

 悪くないな、と思う。

 そうした、笑っている各国の子供たちやそのお母さんたちを見ていると、日韓関係の悪化や米中の貿易摩擦などどうでもいいや、少なくとも今の私の住む新宿では、私たち日本人も含めた庶民は、国際的なゴタゴタなどはどこ吹く風で暮らしているよな、という気分になる。

 例えば、私と同居女子には子供はいないが、仮にいたとしよう。

 するとその子は家の近くの小学校に通い始めた時、いきなり自然に「多様性満載の小学校」に放り込まれる事になる。勿論日本人の子が多いのは当然だが、それでも少子化の事もあるし、一方で東京に住む外国人の家庭でも、普通の(東京の)区立の公立学校、すなわち家の近所の学校に我が子を通わせている親御さんも多いから(これはあまり知られていないと思うのだが、実はびっくりするほど都内ではそういう家庭は多い)、同級生に自動的に外国人が何人かいる、という環境で学校生活を送る訳である。

 政府与党や野党が「多様性の時代」を強調し始めて久しいが、そうした上の動きとは別に、特に新宿は自然ななりゆきで多様性社会になっているのである。そこには何の作為も意図もなく、自然発生的に生まれた多様な社会が既に息づいている。

 自分の子供の頃を考えれば、そうした環境で育つ新宿の子たちを、素朴に羨ましいと思う時もある。

 子供にとって、これは人生の中で得がたい大きな体験だろうし、しかもそれを自然に享受できるという点が貴重だ。

 そこに作り事や誰かの意図など存在しないからだ。

 

 ラグビーの日本代表に外国人がたくさんいても、こうした「昼話」をブログに書いているような私には全く違和感がない。それどころか、近頃はこんな事まで思うようになった。

 

「新宿に住んでいる人たちはみんなただの人間。人種や国籍なんてどうでもいいや」

 

 昼間の秋の日差しの新宿を歩いていると、そう感じる。

 

 人生の後半に来て、時代は面白い事になってきたと思うと同時に、そういう意味ではとびきり面白い街、新宿に住んでいる事をとても楽しくも思う。

 

 案外、悪くない。