104人の大和魂 No.44  大塩 平八郎の乱  | 社長力検定「後継者育成塾」

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No.44 大塩 平八郎  大塩 平八郎の乱  

 

天明の大飢饉(1833年~1839年)に

よって、およそ125万人の命が失われた。

大雨による洪水や冷害などの大凶作が主な

原因である。各地で百姓一揆が盛んに起きた。

 大塩平八郎は、大坂東町奉行で与力をし

ていたが、養子挌之助に家督を譲り、

隠居していた。大阪でも米不足が起こり、

蔵書約5万冊を売却し、救援に当たっていた。

大坂奉行所の跡部良弼(水野忠邦実弟)は、

平八郎の民衆救済の訴えを無視し、豪商から

購入した米を新将軍就任祝いとして江戸に

送った。大阪の窮状を全く無視した所業だ。

豪商らは米を買い占め、暴利を貪った。

民衆の食糧に事欠くありさまに「激情派」

平八郎の堪忍袋の緒が切れる。武装蜂起に備え、

家財を売却し、妻と離縁。大砲や爆薬を用意し、

私塾生には軍事教練を施した。

 豪商らに天誅を加えるとして、「檄文」を近

郷の農民に回し、金1朱(約5000円)と交

換できる札を大坂市中に配布。天満で火災が

発生したら、駆け付けるよう呼びかけた。

 

 大塩平八郎の乱 檄文 現代語要約

 天子(天皇)は、室町以来隠居同然に

なっており、賞罰を与える権限がない。

だから、人民は怨みを訴えるところが無い。

人々の怨みは天に達し、年々地震、火災、

山崩れ、洪水などの様々な天災が流行し、

ついに五穀が実らず、飢饉になってしま

った。この時節、米価は高騰し、大坂の

奉行や役人は勝手な政治を行っている。

大坂の金持ちどもは、諸大名へ貸し付けた、

利息、扶持米などを掠めとり、贅沢な暮ら

しをして、町人ながら大名の家老、用人挌

などに採用されている。また、田畑を多く

所持し、何の不足もなく暮らしている。天災、

天罰を畏れず、餓死する貧乏人や乞食を救おう

ともせずに高価な酒を呑み、絹の服を身にまとい、

妾宅に入りこんでいる。奉行所役人は、これら

の者を取り締まらず、人民を救おうともしないで、

相場ばかりを弄んでいる。

 最早、堪忍することはできない。有志の者と

申し合わせ、民を苦しめ、悩ます奉行所役人を

先ず誅伐する。続いて大坂の金持ちの町人ども

を誅殺する。そして、穴蔵に蓄えている金銀銅等、

蔵屋敷に隠している俵米を摂津、河内、和泉、

播磨のうち、家族を養えず、困窮している者へ

分け与える。大坂市中の我らの行動の知らせを

聞いたら、一刻も早く大坂に駆けつけなさい。

この度の決起は、武王の故事に倣うものだ。

将門のように天下国家を奪い取ろうとするもの

ではない。漢の高祖、明の太祖のように、君

を誅殺(天誅)し、民を救う誠心から出た

ものだ。この書付は、坊主、医者などから

小百姓へ読み聞かせて欲しい。庄屋、年寄

りが奉行などの目を畏れ、自分だけで隠

し読んだならば、その罪は追及されるこ

とになる。天命により、天誅を下す。

 

摂津、河内、和泉、播磨の村々

 庄屋、年寄、小前百姓共へ

 

 大塩らは、決起日を2月19日とした。

東町奉行の跡部良弼に新任の西町奉行堀

利堅が挨拶に来るからだ。この時、両者の

爆殺を図ろうとしたものである。その一方、

大坂町奉行所における汚職の実態を文書に

して幕閣に送った。

 決起直前の2月17日夜、町目付平山助

次郎が東町奉行跡部に決起計画を密告した。

驚いた跡部は、西町奉行堀と相談し、大塩の

捕縛に向かおうとしたが、大塩門弟の役人が

「何かの間違いだ。確認するまで待って欲し

い」と懇願し、大塩の捕縛を妨げた。

 決起当日(19日)未明、大塩門弟数名が

檄文持参で東町奉行所に決起情報を垂れ込ん

できた。堀は、決起一味の泊り番与力2名

(小泉、瀬田)を捕縛しようとした。しかし、

両者ともに騒ぎに乗じて逃亡を図る。小泉は

惨殺されたが、瀬田は大塩邸に逃げ込んだ。

大塩は、決起予定時間を繰り上げ、自邸に

火を放ち蜂起した。大塩一党は、天満橋

(現大阪市北区)の大塩邸を出発し、北

船橋にある三井呉服店や鴻池屋を次々に襲

った。

近在農民と大坂町民で総勢300人余りに決

起部隊は膨らんだが、奉行所側にわずか半日

で鎮圧されてしまう。「救民」を掲げ、

豪商家に大砲や矢を放ったが、効き目が

なく、火災が広がっただけに終わる。

「浮世の有様」によれば、大坂市内の

約5分の1が焼失し、当時の大坂市内

人口の5分1に相当する約7万人が焼

け出された。大塩らは、罪のない大坂

市民を死に追いやった。

 大塩は、養子挌之助と商人宅に潜伏。

幕閣に送付した建議書に対し、どのよう

に対応してくれるのか、期待していた。

しかし、建議書は大坂奉行所が差し戻

し命令を発したことにより、幕閣に届

かなかった。

 大塩親子の潜伏先は、商人宅の女中の

一言によって露見する。女中は、実家に

帰った際「神棚に二膳お供えをしているが、

いつも食べられている」と家人に漏らした。

すると、それを聞きつけた村役人が大坂城

代土井利位に通報したことで、大塩親子の

隠れ家が発覚してしまう。3月27日早朝、

潜伏先を包囲された大塩親子は火薬によって

自害する。遺体は顔の判別ができないほど破

損していた。そのため、逃亡し、生存してい

るという噂が後々まで続くことになった。

 大塩の挙兵は失敗したが、大坂という幕

府直轄地での反乱だったため、幕府、諸藩

ばかりではなく、幕政に不満をもつ民衆に

も衝撃を与えた。

 大塩の発した檄文は、取り締まりをかい

くぐり、筆写により全国へ拡散していった。

越後では、生田万が柏崎の代官所を襲撃

(生田万の乱)、摂津では山田屋大助が

一揆を起こした(能勢騒動)。全国で同様

の乱が頻発し、首謀者らは「大塩門弟」

あるいは「大塩残党」と自称した。アメ

リカのモリソン号が日本沿岸に接近した

ことから、「大塩が異国人を連れて、

幕府を攻めてくる」という風説が流れた。

 幕府は、1年後に結着をつけるために

大塩ら反乱軍の磔を行う。通常ならば、

事件直後に実行すべきだが、遺体の損傷

が激しかったので、磔にしなかった。

磔が遅きに失したこともあって、

「大塩生存説」が全国を駆け巡った。

大塩の執念が幕府の屋台骨を揺るがし、

幕府は崩壊に向かっていく。大塩の信じる、

実践行動重視の「陽明学」は、幕府滅亡の引

き金となったことだけは間違いない。