104人の大和魂 No.45 渡辺崋山  蛮社の獄 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 江戸時代にも「二刀流」として活躍した人物が

いた。渡辺崋山は、田原藩家老として藩政を取

り仕切り、画家としても非凡な才能を発揮。

文武ともに一流の域に達していた。国宝・

鷹見泉石像は、大塩平八郎の乱鎮圧を江戸

幕府に報告に出向いた際に描かれた作品である。

 渡辺家は、田原藩の上士の家格であった。

しかし、藩財政が苦しく、十分な禄が貰えな

いために生活は困窮した。父定道は病気が

ちで勤務が思うようにできず、薬代が払え

ないほど追い込まれていた。崋山は長男で、

その下に男子4人、女子3人、そして両親

と祖母、家族11人の家計は文字通り火の車

だった。ついに次男、三男を寺に、女子は旗

本に奉公に出した。

 12歳の時、ショッキングな事件が起きた。

崋山は、岡山藩の大名行列にぶつかり、

さんざん殴りつけられた。この時に同じ

年頃の少年が駕籠に乗っていたことに

「不平等」感を覚えた。儒家として

30万石の大名になり、我が門に礼

を取らせる地位を得ると決意する。

だが、親友の高橋文平は、「天稟

(賦)の才は、画を描くことにある」

として、画業によって生計を立てる

ことを勧めている。世間では、画家

よりも儒家の方が上だという見方が

一般的だった。そのため、崋山は儒学

で身を立てたいという意識が強かった

のだろう。

崋山は考え直し、画業を志す。父は、

つてを頼って、金子金陵(きんりょう)

に崋山を弟子入りさせた。外出時は、

いつでもスケッチ帳を携帯し、すぐに

描きとめた。瞬く間に画力が向上。

初午灯篭の絵を百枚描いて、銭1貫

(約1万円)稼げるほどになる。

さらに金陵の師である谷文晁

(たにぶんちょう)にも教えを受けた。

谷は、崋山の才能を見抜いて、様々な画

技を授けた。崋山は、陰影法を用いて、

肖像画を実物の如く描く写実法を完成さ

せていく。23歳の時に書かれた

「寓画堂日記」には、「元日、卯の

刻(午前6時)に起き、吉凶図を成す。

太平雀画幅を摸す。午後、古木八歌図

を写す。夜、書見を課す。子刻(夜12時)

寝る。」と元日から絵画に没頭している様子

が記されている。20代半ばには絵の世界で

名を成し、生活には全く困らなくなった。

作品は幅広く、「一掃百態」には士農工商あ

らゆる人たちの生活の様子を描き、「四州真

景図」には武蔵,常陸等の風景画、「虫魚冊」

にはカマキリやコオロギ等の生物、「校書図」

として、女性(芸妓)を描いている。