No.41 松平 定信 寛政の改革  | 社長力検定「後継者育成塾」

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 天明7年(1787)、松平定信は、田沼

意次失脚の後、老中首座に就いた。老中職

は譜代大名がなるのが掟だが、定信は吉宗の

孫なので、微妙な立ち位置であった。譜代

大名に養子に入った為、将軍の孫が老中に

就任するという異例の人事になる。養子先

の白河藩の財政を立て直した実績により、

徳川御三家が推挙したものだ。

 定信は、幕閣から田沼の息がかかった者を

一掃し、祖父吉宗を手本として、後世「寛政

の改革」と言われた改革を開始する。生来の

一途さと8代将軍吉宗の孫というプライドとが

相まって、妥協のない政治になった。そのため、

「白河の清きに 魚もすみかねて もとの濁りの

田沼恋しき」と揶揄された。

 一般的には、田沼政治を覆した政策を採ったと

考えられがちだが、むしろ田沼路線の継承発展

をしている。たとえば、二朱銀を西日本でも

使うように強制、運上金、冥加金を一部だけ

撤回し、継続させている。株仲間、公金貸付等

もそのまま。田沼が出した「倹約令」も廃止せず、

大奥の縮小、諸経費の削減なども田沼の緊縮政策を

着実に実行し、財政を切り詰めた。結果、20万両

貯蓄するまでに幕府財政が潤った。定信は、田沼を

憎んでいながらも多くの政策を引き継いだことから、

為政者としては田沼を評価していたことが覗える。

江戸には、およそ旗本5000人、御家人1700

0人が生活していた。御家人たちは、生活苦から少

しでも上の暮らしを望むことから「タコ」と揶揄

された。実際、御家人の日記「藤岡居日記」に

よれば、崖の土を土壁用に売ったと記されている。

多くの御家人は傘貼りなどの内職で少しでも収入

を得ることに必死だった。

 そのため、御家人救済のために「棄捐(きえん)

令」を出し、札差(ふださし)に対し、6年以上前の

債権(借金)を放棄および5年以内に借りた金の利

息引き下げを命じた。同時に札差には、貸付を行い、

今後の経営に支障がないように配慮。「休業要請」と

「保証」をセットで実行した。

定信は、庶民にひもじい思いをさせれば、暴動に

つながることがよく分かっていた。白河藩は、

「天明の飢饉」の際、「社倉」に穀物を備蓄させ、

餓死者を出さなかった。この成功体験から、白河藩

同様に「囲い米」として備蓄を命じている。これを

「七分積金」という救済基金と同時に実行している。

町入り経費をできるだけ節約させ、生まれた剰余金の

7割に、幕府からの1万両を加えて、いざという時の

救済に当てることにした。町入り経費は、地主に負

担させ、道路や橋の修繕のために準備させたもので

ある。本制度は、明治維新まで継続して実行され、

総額170万両が蓄積された。東京市が接収し、

インフラ整備に大いに役立てられた。

 定信は、禁廷(天皇)から日本六十余州の統治

を委託されている

と「大政委任論」として理論化した。大政に口出しを

すべきではないと朝廷に強硬姿勢を示したのである。

文久3年(1863)3月7日、家茂は京都御所に参内

した際、孝明天皇に対して、定信が主張した

「政務委任」の謝辞を述べた。本来、徳川幕府は

初代家康が自らの力で政権を取ったもので、朝廷

から委任された事実はない。

 定信の性格を象徴しているのは、「尊号一件」

である。光格天皇が実父閑院宮典仁親王に太上

天皇の尊号を贈ろうとしたことに対し、天皇位

に就いていないという理由で反対した。又、将

軍家斉が父治済に大御所の尊号を贈ろうとした

ことにも将軍に就いていないことを理由に反対

している。並みの老中ならば黙認するところだが、

将軍の孫というプライドが妥協を許さなかったの

だろう。「幕府の要職者は、卑しい身分の出身者

が多い」と記録していることからも、家格を振り

かざす鼻もちならない性格だったことが覗える。

 田沼と同じく、定信も志半ばで辞任に追い込

まれている。直接辞任を迫ったのは、将軍家斉だ。

しかし、実際は「大御所」尊号を得られなかった

父治済が背後で糸を引いていたものと思われる。

 一橋治済の描いたシナリオは、次のようなものだ。

老中田沼に取り入り、田安家の定信を白川藩へ追

いやる。これで、御三卿のライバル田安家定信の

将軍職の芽を摘む。(御三卿清水家は家格がやや

劣るため将軍は出せない)一橋家から我が子家斉

を将軍に就ける。将軍家斉が成人後は定信と反目させ、

定信を幕府から追放するというシナリオだ。家斉の

計略は、見事に成し遂げられた。本来、定信が憎

むべき相手は田沼ではなく、一橋治済だったのである。

 家斉は、55人の子(男28人、女27人)をなし

た。男子なら養嗣子、女子なら藩主の室として、

御三家、御三卿、有力大名に送り込んだ。

11代から14代までは、一橋家斉直系が将軍に就く。

(15代一橋慶喜は水戸家出身)一橋治済、家斉親子は、

田沼意次、意知(殺害)親子、松平定信を幕府から追放し、

権勢を振るった。

 定信の功績は、「人足寄場」の設置である。

「鬼平犯科帳」のモデルになった長谷川平蔵の

建言を受け入れ、犯罪者の職業訓練所を

開いた。罪人を社会復帰させるという画期的な

施設で、世界初の試みだった。大工や左官など

生計が立てられる技能を教え、軽作業に賃金を

支払った。さらに賃金を貯金させ、出所の際に

起業資金として渡した。保護司の役割を兼ねて

いたのには驚かされる。

平蔵は若い頃無頼漢と交わり、生活苦から犯罪

に走る者が多いと感じていた。儒教者定信は、

「性善説」を信じ、認可したと思われる。

 定信は、儒教者らしく頭が固い。寛政4年

(1792)、林子平の「海国兵談」を

「世迷言(世迷言)」として一方的に退けた。

書籍を回収したうえで版木まで没収するという

強引さだった。ところが、林の開国論をテスト

するかのように蝦夷地にロシア船が来航した。

日本人漂流民大黒屋光太夫を通訳にして、漂流

民を日本に帰す代わりに交易を求めてきたので

ある。定信は、外国との窓口になる長崎へ回航

するように指示しただけで「祖法(祖先の方針)」

だとして、交易に応じなかった。家康は貿易を奨励

していたので、ロシアとの交易をするのが筋である。

だが、家康の国家構想が曲がって、オランダ、中国以

外と交易をしない国柄と思い込んでいた。これは、

思想(歴史)家の責任は大きい。頼山陽は、定信の

献呈した「日本外史」に家康が積極的な貿易論者で

あったことを触れていない。幕府の為政者が創業者

家康の理念を知らなかったのも無理はなかったのか

も知れない。