104人の大和魂 No.39 吉宗 ①「目安箱」 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 目安箱と言えば、吉宗オリジナルと思いきや、

実は大化の改新(645年)の際にすでに実行

されていた。当時は、最初訴人が判造に不満や

要求を訴えた。満足できない場合、朝廷に投書

すると群卿が裁定を行った。ここでも不満の場合、

直接朝廷に出向き、鐘を突き「直訴」ができた。

朝廷の鐘を突くことや櫃(ひつ)に投書を置く

ことから「鐘櫃(かねひつ)の制」と呼ばれた。

646年、役人からの余計な雑役をさせられた

庶民の訴えを聞き入れた孝徳天皇が、それを

停止させたという記録が残っている。日本には、

古代から平等主義が根付いていたことが分かる。

 教科書等には、「目安箱」として表記されて

いるが、江戸時代には単に「箱」と呼ばれていた。

幕府の過ちを認めない「武断政治」から、過ちを

認める「文治政治」へ舵が切られたのである。

縦割りの官僚行政によって、都合の悪いことは

トップに届かない。だから、「幕府の過ちは、

認め改める」というものであった。

 吉宗は、享保6年(1721)、和田倉門

(江戸城大手門)に近い評定所前に毎月3回

(2日、11日、21日)目安箱を設置すること

を日本橋に高札を立てて公示した。投書には、

住所、氏名を必ず記入することが決まりになっ

ていて、無記入の場合は破棄された。

箱は、鍵が懸けられた状態で、老中から御側

用取次まで5段階を経て、将軍に届けられた。

箱を開けるカギは一つしかなく、歴代の将軍に

渡されている。目的は、単に民衆の不満の

ガス抜きと思いきや、訴えを真剣に聞き入

れた。重要な案件とみれば、御側用取次より

御庭番に命じて処理させている。例えば、

「郡上一揆」の場合、年貢の取り立てが厳

し過ぎたことが原因だと分かった。藩主が

老中に賄賂を渡し、揉み消していたことが

判明。老中を罷免し、郡上藩を取り潰した。

目安箱に投じられた書状は、「訴状留」として、

ほぼすべてを記録した。投書がきっかけで、

小石川養生所などが設立された。