吉宗は自身の食事を1汁1菜にするなど、
率先垂範して、質素倹約に務めた。ひな人形
の寸法も制限するなど、相当な徹底ぶりだった。
当然、大奥にも手を入れた。大奥は将軍の子が
絶えないようにするための制度であった。将軍
お目見えの上臈御年寄から御広座敷まで15段階
にランキングされていた。最盛期には3000人
の女が仕えていた。吉宗が将軍に就いた時には、
約400人程度だった。3代将軍家光以降、13人
の正室は、4人しか子を産んでいない。しかも4
人とも早世しており、最高でも13歳までしか
生きていない。
女性は、白ければ白いほど美人に見えるという
風潮があり、乳房にも白粉を塗ったという。その
ため、白粉に含まれる水銀が将軍家の子の早死に
つながったと考えられる。正室には、身分が高い
皇族や公家の姫君が多く、子を生む体力がない
女性が多かった。そのため、体力のある民間女性
を大奥に仕えさせたのである。正室、側室も
すべて、30歳になったら将軍との夜のお相手
を辞退するという「御褥御免=おしとねごめん」
という年齢制限が設けられていた。
吉宗は、一方でハレ(非日常)も大切にした。
飛鳥山をアミューズメントパークにして、遊興の
場所を提供。矢場で弓を射る、土器を投げるなど、
庶民は大いに楽しんだ。出会いの場も設定し、
仮面を付けて踊る者、男装する女子、さまざま工
夫をして交流させた。桜を1300本植え、茶店
を出させ、雇用創出にも気を配った。吉宗自身も
ここで家臣らと酒を酌み交わし、鷹狩もしている。
吉宗は、好奇心が強く、新しもの好きだった。
広南国(ベトナム)から象を連れて来させ、
江戸で象に大行進をさせた。清涼殿の格子を
すべてはずし、中御門天皇に高覧座から見せた。
象が前足を上げて天皇に拝礼すると、「人の国
なる(他国)のけだもの(獣)みるがうれしき」
(江戸名所図会)と天皇が喜んだ様子を伝えている。
1平方キロメートルに6万人が暮らす(現在の4倍)、
世界最大の100万人都市江戸の繁栄を第一に考えた
将軍であった。
吉宗の最大の功績は、甘藷(サツマイモ)の栽培
によって飢餓を救ったことだ。儒学者青木昆陽に
サツマイモを食用として全国に普及させたのである。
栄養価が高く、腹持ちがいい。餓死者が激減した。
薩摩の船乗りが琉球から持ち帰ったことがきっかけ
となったので、ネーミングされた。