104人の大和魂 No.38 上杉 鷹山  | 社長力検定「後継者育成塾」

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 上杉鷹山は、寛延4年(1751)日向国

高鍋藩6代藩主秋月種美の次男として誕生。

母方の祖母が上杉家から嫁入りしていた縁に

より、米沢藩8代目藩主重定の養子となる。

この頃、米沢藩は借財が20万両(150億相当)

あり、石高が15万石しかないのにも関わらず、

家臣を6000人召し抱えていたので、赤字は

増える一方であった。藩主上杉重定は、

「公儀(幕府)に領地を返上するしかない」

と考えていた。

16歳で家督を継いだ鷹山(治憲)は、

1500両であった江戸仕切料(江戸での

生活費)を209両余りに減額し、奥女中

を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。

天明年間には大飢饉で東北地方を中心に餓死

者が多数出た。鷹山(治憲)は、自らも鍬を

手に新田開発に精を出し、食事は一汁一菜と

して範を示す。増収のために、漆、桑、楮

(こうぞ)など各百万本の植樹を実行。

機織りの技術を取り入れ、米沢藩の青苧

(あおそ)を原料に「米沢織」を創り出した。

やがて、絹織物に発展し、米沢の名産となる。

鷹山は、「民の父母」として、民の生活を豊か

にすることに誠を尽くした。彼の心の中には、

いつでも師細井平州の教えがあった。「民の傷

をいたわるように見る国は栄え、民をごみのよ

うに扱う国は亡びる」(春秋左伝)思いやりの

深さは生涯変わりがなかった。

藩は、1年に一度しか取れない米や麦などの純

農業生産だけに平均4割の税をかける。耕地面積

が広がらない限り、藩の収入は増えない。鷹山

の優れた点は、工業、商業分野に目を付けたとこ

ろである。

鷹山の改革も容易ではなかった。重役らが「建言書」

を提出し、鷹山の退陣を迫る場面があった。藩士も

同意していると謀ったので、評定を開き、藩士全員

の真意を問うことにしたのである。

そこで、青年藩士が立ち上がり、「今は、登城して

仕事をするのが楽しい。なぜ、仕事するのかを教え

てくださったからです」と発言。鷹山は単に命令

するのではなく、一つ一つ考えさせて行動させたの

である。首謀者2名を切腹させ、他の5名を閉門

とした。改革を止める勢力は、取り去る以外に

方法はなかった。

曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖

されていた学問所「興譲館(現・興譲館高校)」

を再興させた。藩士・農民など身分を問わず、

「考えさせる」教育を行った。「民のために藩

がある」として、藩、領民を公のものだとして、

私(わたくし)しない方針を貫く。破綻寸前の

藩財政は立ち直り、鷹山死去の6年後、

次々代の斉定時代に借債を完済した。

鷹山の人柄を表すエピソードが残っている。
ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立

が降りそうで、手が足りず困っていたが、

通りかかった武士2人が手伝ってくれた。

お礼に餅を33個持って伺ってみると、

通された先にいたのは藩主(治憲)

であった。お侍どころかお殿様であった

ので、腰が抜けるばかりにたまげた。

その勤勉さを褒められ、褒美に銀5枚まで

授けられた。その御恩を忘れず記念とす

るために、家族や孫たちに特製の足袋を

贈ることにした。講談『水戸黄門漫遊記』

のように、お忍びの殿様が庶民を手助けす

る話はよく語られるが、こうした実例が示

されることは少ない。

米沢藩中興の祖である鷹山は、現在の米沢

市民にも尊敬されている。他の歴代藩主は

敬称なしで呼ばれることがあっても、

上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」と

いう敬称を付けて呼ばれることが多い。