104人の大和魂 No.32 真田幸村  大坂の陣 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 慶長19年(1614)10月初め、

真田幸村(信繁)に大野治長の使者が

配流先の九度山を訪れた。使者は書状と

黄金200枚、銀30貫目を渡すと、

戦場では5000人の指揮を任せると

いう条件を伝えた。さらに勝利の暁には、

50万石の大名に取り立てるという。

幸村親子が関ケ原合戦に徳川秀忠軍を翻弄し、

3万8000の兵を上田に足止めしたことは、

伝説になっていた。天下分け目の戦いから

14年が経過し、すでに徳川の世であった。

劣勢となった豊臣方に味方する大名は皆無で、

「伝説の武将」幸村に白羽の矢が立ったのである。

幸村にとって、条件は二の次だった。自分が必要

とされていることが嬉しかった。14年間蟄居

生活が続き、世間から忘れ去られ、2度と武士

として働くことができないのではないか。

山中で朽ち果てるしかないと半ば諦めていた。

実姉の夫小山田茂誠に「急に老け込み、

歯も抜け落ち、ひげもすべて白くなってしまい

ました」と手紙に弱音を吐くほど、心身ともに

衰えていた。ところが、思う存分力を発揮できる

チャンスが幸村に到来した。

10月9日、幸村一行は九度村を出て、大坂に

向かった。流人が脱出となれば、領主はお咎めを

被るはずである。だが、「翁草」に村の地侍などが

同行を願い出たと記されていることから、

「見て見ぬふり」をして領主や村びとたちが幸村を

送り出したことが分かる。

当時、関ケ原の合戦により主家を失った牢人が巷

にあふれていた。そのため、容易に兵が集まった。

寄せ集めという向きはあったが、後藤又兵衛のよう

にかつて武功を挙げたものも入っていた。幸村は

後藤らと共に「五人衆」として中心的な役割を

担うことになる。9万人もの牢人が集まり、

秀頼の家臣を合わせるとおよそ10万人に膨れ

上がった。

当時、オランダは慶長14年(1609)から

幕府の許可を得て、長崎平戸に商館を開設。京、

大阪にも商務員を滞在させ、大名や商人と接触し、

交易を進めていた。「大阪の陣」は、徳川が勝利

すると考えて、肩入れしている。戦いの前には、

「陛下(家康)に大砲を贈り、勝利後は家康に

「火薬、散弾」、側近の本田正純には「金属製フ

ァルコネット砲」を贈ると記している。(元和元年・

1615年10月28日)外国の目からも戦いは、

徳川有利と見られていたことが分かる。

10月11日、家康は駿府を出発。豊臣家を滅

ぼさない限り、天下泰平の世は来ない。73歳

になっても、徳川盤石体制に余念がなかった。

家康が進軍途中に「真田が豊臣側に与力した」

との報せが入る。家康は思わず注進した者に近づき、

「真田の親か子か?」と質した。真田昌幸は、

すでにこの世の人ではないことを知っているはずだっ

たが、真田の名を聞いて動転してしまった。家康が手

にかけていた戸がガタガタ音を立てたという位、

強敵として記憶されていたのである。

家康は過去2回、真田昌幸(幸村の父)に手痛い目に

合わされていた。1度目は、罠と知らずに本丸に

攻め込み徳川軍は袋のネズミになり、一斉砲撃さ

れてほぼ全滅。この時幸村は、まだ元服前なので

参陣していない。(第一次上田合戦)

2度目も袋のネズミにされ、正面、側面から砲撃、

弓矢攻撃を受け、多くの兵士を失った。

(第二次上田合戦)秀忠軍は攻略をあきらめ、

関ケ原に向かったが、「関ケ原の戦い」に

遅参する大失態を犯してしまう。

共通点は、敗走と思わせて深追いさせ、

袋のネズミ状態になったところを一斉砲

撃するやり方だ。この戦法は、敗走する者

を追いかけてしまう兵士の心理を熟知した

昌幸の十八番であった。

真田の家紋の「六文銭」は、三途の川の

渡し賃である。例え人を殺しても「六文」

払えば、地獄に落ちないと信じて、真田の兵は

命がけで戦うことができた。もちろん幸村も死ん

でも地獄に落ちないと信じ、「大坂の陣」に臨んだ。

今日のようにDNA鑑定ができないが、高身長、

容貌等誰の目にも秀頼が「不倫の子」であること

は明らかだった。子種がない秀吉は、2人の関係に

目をつぶり、秀頼を我が子として育てる他ない。

子を残せないということは、「関白」の地位など

一変に飛んでしまうほどの致命的な欠陥である

男としての価値はゼロ。正面切って治長を処分

できるはずもなく、秀吉は知らん顔をするしか

手がなかった。

 軍略は、通常軍議によって決定される。

実戦経験がない者が主導権を握っている場合、

やっかいなことになる。「机上の空論」によって、

押し切ろうとするので、折角の名案が台無しになる。

豊臣方を差配していたのは、戦場経験がない大野

治長だった。

幸村は、徳川軍が大阪に入る前の近江瀬田川で打

撃を加え、出鼻を挫くことを提案した。ところが、

大野治長が反対する。大坂城に籠城すれば、敵は

攻めあぐね、退散する。治長は、わざわざ城を出

て死に急ぐことはないと考えていた。徳川方の

間者として入り込んだ小幡景剣が瀬田の戦いが

いかに困難であるかを説くと、一気に「籠城」に

方針が決定された。間者は、自軍に有利な方向に導く。

当時の戦いは、双方が「間者」を送り込み、

機密を手に入れるのが常套手段だった。当然、

幸村にも徳川方へ内通しているのではないかという

疑いの目が向けられていた。実兄が徳川方に付いてい

るので無理もない。

 幸村は、天下一の知略の武将として華々しく

散るために大坂に来た。言わば名誉欲と言える。

内通者のレッテルを張られるほど不名誉なことはない。

そのために幸村は、一重の空堀しかない最も危険な

南側を守るために「真田丸」を造った。大坂城の

南東に40間(約72メートル)も張り出した出城

を築いたのである。30センチ間隔に鉄砲を三丁ずつ

配置し、敵を狙い撃ちできるようにした。幸村が出城

を構えたのは、城内では邪魔立てされ、思い通りに

采配を揮うことができないからだ。身の潔白を証明す

るためには早く手柄を立てる必要があった。約束通り

に幸村に5000名を超える牢人兵が預けられた。

 慶長19年(1614)11月11日、徳川方は

大坂城の目の前に柵を設け、布陣した。狙いは幸村の

予想通り、城の南側であった。砦に来た徳川軍の兵士

を「鳥獣狩りに来たのか?ここには誰もおらんぞ、

退屈だったら、出丸でも攻めてみるか」とからかって

真田丸を攻撃させた。プライドを傷つけられた徳川兵

士が怒ったのは言うまでもない。真田隊は、低い所に

入り込んだ徳川隊を高い位置から攻撃し、1万5000

人もの兵士を討ち取った。徳川は、又しても真田に

してやられ、多くの死者を出した。

家康は、堀を埋めない限り、大坂城を攻め落とすこと

はできないと考えた。堀を埋めるために「和睦」に

持ち込むことを企む。事前に内通者から情報を得て、

淀殿がいる部屋を狙い撃ちした。砲弾が直撃し、

侍女2名が命を落とす。泣きわめく女子供に手を

差し伸べるのは、男の責任と考えるのは古今東西

共通している。

家康は、次のように和睦を2段階にして、交渉に

臨んだ。最初に無理難題を突き付けて、「拒否」

させてから譲歩するやり方である。

 

① 秀頼が国替えをする→ 免除

② 淀殿を人質に差し出す→淀殿以外でよい

③ 牢人衆を追放する→牢人衆は、そのままでよい

 

 条件を緩和された側は、だいぶ得した気持ち

になり、YESが言いやすくなる。人間は、

得よりも「損」を恐れることを家康は心得

ていた。「三の丸を徳川に埋めさせろ。

(但し、二の丸は、秀頼側が埋めてよい)」

という条件を秀頼側は、いとも簡単に受け

入れてしまったのである。

この間、家康は幸村に調略を図る。叔父信尹

(のぶただ)を使者に立て、「信濃」一国を

与えようとするも幸村は面会にも応じていない。

領地に目がくらむことはなかった。

 幸村には、秀頼側の負けが見えた。しかし、

最後まで決してあきらめない。敵が油断した

ところを襲えば勝機があると幸村は徳川への

「奇襲攻撃」を提案する。「武士に二言は

ない」と女性の淀殿に一蹴されてしまう。

彼女は、あくまでも豊臣が正当な天下人と

いう考えを捨てることができなかった。

「豊臣家は家康に臣従する」と秀頼を説得し、

方針転換ができていれば存続できたはずである。

織田家、浅井家の血を引くプライドが許さなかっ

たのだろう。

 家康は、三の丸をすぐに埋めてしまう。そして、

二の丸も埋め始める。大坂側が抗議すると

「大坂側の代わりに埋め立て工事をしてあげ

ますよ」と嘯(うそぶい)いた。正月19日、

大坂城は無防備な裸城になってしまった。

幸村は、死を覚悟し、娘婿の石合十蔵に

「自分は籠城し、討ち死にする。もう二度と

娘と会うことはできない。至らぬことがあっ

ても娘を見捨てないで欲しい」と我が娘を

案じる手紙を出している。

 家康は、大坂方が和睦に背いて、戦いの

準備を進めていると言い掛かりをつけた。

徳川軍15万に対し、大坂方は5万と3分の

1の兵しかいないので、まともに戦っても

勝ち目はない。幸村は、秀頼の出陣を要請

するも大野治長に退けられた。

「天王寺の合戦」は、幸村劇場のクライ

マックスである。大坂方が一発逆転勝利する

には、家康の首を取るしかない。幸村は茶臼

山から1万もの兵を率いて、天王寺南の家康本

陣に向かって駆け下りた。凄まじい勢いで押し

寄せた幸村軍を松平忠直軍は防ぎきれなかった。

 次に、幸村軍は本陣前の駿府兵も突破。

ついに家康本陣を襲うと狼狽した旗本勢は、

クモの子を散らすように逃げてしまった。

三度の突撃によって、馬印や陣幕は無残に

破壊され、壊滅状態に陥る。家康の盾になり

護ったのは、小栗久次だけだった。家康が

死を覚悟したのは、信玄との「三方が原の

戦い」とこの時以外にない。応援に駆け付

けた旗本勢によって、家康は護られ、

命拾いをする。唯一、家康の首を取るチャ

ンスだったが、幸村軍に援軍が無く、

力尽き敗走。茶臼山に戻った時には、

わずか3名、風前の灯となる。そこへ

松平忠直の兵が襲い、幸村は銃撃されて

命を落とした。家康は、幸村を仕留めた

鉄砲頭を呼び、「天敵」の最期を聞いた。

すると「あっさり仕留めた」という言い

草に家康は腹を立てたという。家康は、

散々苦しめられた幸村と徳川兵との最後

の名勝負を聞きたかったのである。

 嫡男大助は、幸村の遺言通りに秀頼

とともに自害し果てた。幸村軍から

逃亡者もなく、一糸乱れぬ戦いを家康に

仕掛けたことで、「幸村は日ノ本一の兵

(つわもの)」(島津家久)として伝説

の人物となった。