No.33 伊達政宗  天下の副将軍 | 社長力検定「後継者育成塾」

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  元和2年(1616)年2月、伊達政宗は臨終間際

の家康を見舞った。六男忠輝と舅政宗が「謀反を企

てている」という疑いを打ち消すためだ。もちろん、

噂を立てたのは家康である。家康は、政宗が輝忠と

合力し謀反を企てているという噂を流し、申し開き

に来るように仕向けた。2人の仲を裂くことが狙い

であった。最後の憂いは、忠輝が将軍秀忠に反旗を

翻すことだった。後ろ盾となっている政宗が引けば

可能性は消える。

  家康は、「将軍家のことは、のちのち頼み置く」

と政宗に徳川家の行く末を委ねた。ちょうど秀吉が

家康に「豊臣家」を頼み込んだのと全く同じ情況だ。

果たして、家康は本当にこの政宗を信じているの

だろうか?将軍家の後ろ盾になり、粉骨砕身働くと

思っているのか、秀吉の頼みを反故にして、豊臣家

を滅ぼしたのは、一体誰か、家康ではないのか・・・。

家康が逝けば、再び「関ケ原の戦い」のような大

規模な戦が起こるかも知れない。政宗に幕府転覆を

期待する声も聞こえてくる。

父親の拉致計画を知り、阿武隈川で待ち伏せし、

父親もろとも義継勢を皆殺しにした。御家騒動に

ケリをつけるために、母から毒を盛られたことにして、

弟の首を取る自作自演もした。秀吉に小田原遅参の

詫びを入れ、すんでのところで命拾いをしたことも

あった。スペインに使節を送り、貿易の道を開こうと

したのも天下取りのためだ。茶の湯を愛好したのもひと

えに天下を目指したゆえではないか。

我に後事を託すあわれな老人を前にして、人生のは

かなさを思い知る。どんな権力者であっても死を避け

ることはできない。

 思えば文禄4年(1595)「関白秀次事件」の際

には、秀次に連座し死罪にされるところを家康の

とりなしによって、不問に付された。慶長4年

(1599)、長女五郎八姫が家康の六男忠輝に

嫁いでいる。この時に「向後(今後)たとい如何様

の世上に成り行き候とも、一筋に内府(家康)お手前

を守り、一命を奉るべく候」と一生家康に仕える血判

起請文を出した。家康が死しても徳川家を守るべきでは

ないか。

「将軍家の安泰」と「世の平安」とは同じ意味だ。今は、

冥途に旅立とする前将軍に日ノ本の安寧を誓う気持ちに

なっている。天下を夢見たが、「人間50年」を迎えて、

心身の衰えは隠せない。野心を捨てる時期に来ている。

凄惨な殺し合いなどをせずに風雅に生きた方がよほど

楽しい。自分が徳川を守れば、平穏な世の中が作れる。

家康は、やや身体を起こし、政宗の手を取った。瘦細り、

皺が深く刻まれた手だったが、温もりを感じた。

「陸奥守どの、万事頼み申す」

「どの」と尊称して、家康は懇願している。

政宗の眼に熱いものがこみ上げた。

「大御所さま、この政宗にお任せあれ。武士に二

言はござらぬ」

政宗が、手を強く握り返した。家康の眼にも涙が溢

れていた。

秀吉の願いを家康が反故にしたのは、利休に茶の

で家康の毒殺を命じるような殺意を抱いていたから

だろう。家康は政宗に対し、裏表なく接した。家康は、

秀吉のような「人たらし」ではなく、誠意を尽くす

人間だ。

家康亡き後、政宗は誓った如く、二代将軍秀忠、

三代将軍家光を補佐し、徳川幕藩体制に貢献する

ことになる。

政宗も家康同様に優れた土木工学家だった。江戸

城堀普請には、日雇、舟大工、人足を合わせ、

42万3000人余りを使い、大工事を完成させた。

飯田橋から日本橋に至る川が内堀となり、小石川から

浅草橋に至る水路が神田川と呼ばれ、外堀になった。

千代田区は、江戸城の石垣が見つかったと公表。

(令和3年(2021)4月13日)高さ約

4メートル、幅約16メートル、段数は7段程度、

石垣上部の表面は当時海水につかっていたと見ら

れると政宗の土木工事が実際に行われたことを

裏付けた。

領国経営が順調だったことで、諸藩は政宗に一

目も二目も置いた。領地では、追波湾に注いでい

た北上川本流を石巻港に流れるように大改修を

行った。家臣たちに新田開発をさせ、開発した

田地を知行地として家臣に分け与えた。62万石の

経営を48人の社長たちに任せたのである。所有権

が自分のものになれば、人はよく働くことを政宗は

知っていた。

石巻は米の集積地になり、積出港として発展。

急激に人口が増加する江戸の「米供給」の基地にな

った。領内の余剰米は、藩で買い取り、江戸に回

送して大きな利益を得た。

ただの金持ちでは、誰も認めない。知性の証明は、

やはり和歌、連歌、漢詩などの「言霊」を巧みに

操る能力である。「道之記」等に自作の和歌を載せ、

才能を披歴した。

政宗は、「鄙(ひな)の華人」と呼ばれ、千利休、

古田織部、近衛信尋等の代表的な教養人と互角に

渡り合った。大名物・唐物利休物相茄子茶入

(からものりきゅうもつそうなすちゃいれ)、

砂張舟花生(すなはりぶねはないけ)等の大名物品

が現存しており、茶道の執心ぶりを知ることができる。

寛永5年(1628)3月12日、政宗は秀忠を仙

台藩江戸屋敷に招き、供応した。政宗自ら秀忠の前

に膳を運んだ時、秀忠側近の内藤正重が「伊達殿、

鬼見(毒見)をしてくだされ」と政宗に注文を付けた。

すると政宗は、「無礼であろう。天下を取る気ならば、

毒殺など卑怯なまねはしない。堂々と勝負する」と内藤を

叱責した。徳川を護るという家康との約束を忘れていな

かった。(政宗公御名語集)

参勤交代の際には、2代、3代の将軍は、千住まで政

宗を迎えに出るという「もてなし」までした。正式な

役職ではないが、「天下の副将軍」として、家康の孫

の代まで守った。政宗が家康の死後20年間に渡り、

「隻眼」によって睨みを利かせた。「義理堅い」

政宗は、徳川幕府250年余りの礎を築いたと言えよう。