104人の大和魂  No.31島津義弘  関ケ原の戦い「本陣突破」 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 文治元年(1185)、鎌倉幕府創設

と共に摂関近衛家の家司・島津忠久が島

津荘(薩摩・大隅・日向)三州の太守に

なった。これ以降、島津家は700年

近く幕末まで九州南部地域を治めること

になる。一つの家中が同じ地域を統治した

世界記録である。

島津義弘は、天文4年(1535)、

島津家15代当主貴久の次男として生まれた。

義弘は、2歳年上の義久、2歳年下の歳久、

12歳年下の末弟家久らとともに「島津四兄弟」

として怖れられた。

「鬼島津」として、天下に名を轟かせたのは、

関ケ原の戦いにおける「本陣突破」である。

義弘は、「当初家康に加担しようと伏見城に

入ろうと試みたが、城将鳥居元忠が拒絶したので、

三成側に加わることになった」という俗説は一次

資料で確認できず、信憑性に乏しい。関ケ原の戦後、

家康との交渉に兄義久が言い訳材料として使ってい

ないことから、義弘は初めから西軍に参加する意志

だったと考えられる。

義弘は、夜襲などを三成に提案するも用いられなか

った。実戦経験が乏しい三成には、義弘の戦術が

理解できるはずもない。当日、戦闘が始まっても

島津軍は、全く動かなかった。光成らの西軍武将が

攻撃され、次々に戦線を離脱していく。島津義弘軍

も東軍の攻撃を受ける。この時、義弘は驚きの決断

を下す。南、東の両側から攻められたのに対し、

真ん中を切り開いていったのである。(神戸五兵衛覚書)

福島軍を突き崩すと、次に本陣に向かった。家康は着陣

していないので、「家康本陣」という記述の書籍は誤り

である。

この時、伊勢平左衛門が本陣に対し、堂々と言い放った。

「図らずも内府と相対することになったのは遺憾である。

我らに逆心なく、帰国仕(つかまつ)る」と本陣の目前

を横切ろうと突進した。義弘は、敵に背を向けて逃げる

軍勢は脆く、追いかける軍勢の強さを分かっていたからだ。

現に西軍武将は、東軍の追撃を受けて、数多く討ち取られ

ている。

目前の退却を許すのは武士にとって大変な屈辱だ。

井伊直政、松平忠吉らは死に物狂いで追った。義弘は、

容易に逃げ切れないと判断し、奥の手「捨て奸(がまり)」

に打って出る。反転して、「我こそが大将である」

と名乗り、殿(しんがり)を務め、追撃を食い止めて

大将を逃がす戦法である。中でも長寿院盛淳と義弘の

甥豊久の活躍には目を見張るものがあった。直政、忠吉

らは揃って負傷し、本多忠勝は愛馬を失い命も危うく落

としそうになる。当然、島津勢も数多くの兵を失った。

参陣した中馬大蔵は、後にこの戦いを振り返って、

「関ケ原の合戦なるは・・・」と言葉に詰まり、戦場の

露と消えた同士らに思いを馳せた。後に、徳川本陣突破は、

「島津の退き口」と語り草になる。

義弘は、やっとの思いで薩摩に逃げ帰った。実は、九州に

辿り着いてから、立花宗茂の軍勢に襲われる危険性があった。

しかし、「手負いの武士を襲うなど武士ではない」と宗茂は

家臣の出陣を引き留めたのである。この「武士の情け」

によって、宗茂は戦国武将の一人に数えられている。

 

日本人の教養 4 薩摩の郷中教育

薩摩藩には,独自の人材育成システム「郷中教育」が機能し

ていた。郷中とは、今でいえば町内会単位の自治会組織で

ある。藩士の子供たち(6、7歳~15歳前後)は、青少年

(15歳前後~25歳前後)たちから個別指導を受ける。

子供たちは、自ら師匠を選んで学ぶ。

藩士は、城下に分散して居住し、農作業に従事。俸禄

をあてにしないで、食い扶持は自分で稼ぐという生活

をしていた。幕末には、調所広郷が500万両の借金を

250年かけて返済するというウルトラC によって借金

を棒引きし、「財政再建」を果たしていた。討幕の準備を

していたことになる。

彼らは、1日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと

一緒に過ごす。武芸を身につけ、儒教、経典、歴史などを

学ぶ。松下村塾のように1人の秀でた師匠が中心となる

「寺子屋方式」とは大きく異なる。多くの書物を読ませ、

特に日本史を教えていることが特徴的である。従って、

日本の統治を考える思想が育つ。

「○○の場合、どうするか?」と僉議(想定問答)

が繰り返され、極めて実践向きの訓練が施された。

知力と体力を同時進行で鍛えるトレーニング方法に

よって人材が続々と育っていった。

西郷隆盛は、第一次長州征伐の際、連絡役の吉川経幹

(つねまさ)と緊密に連絡を取っていた。幕府の追及

に対し、「どう答えるのか?という想定質問を西郷は

吉川にしている。「藩主は、暴臣どもに誑ざ(欺かれ)

致され」と藩主は暴臣に騙されたという吉川の「言い訳」

に賛同した文書が残されている。結果、幕府は長州を

攻めずに退いた。僉議が長州を救ったと言えよう。

特に西郷隆盛が生まれた郷中は、大久保利通、山本権

兵衛等、幕末、明治維新で活躍したメンバーを数多く

輩出している。現代の小学校入学段階から特訓を受けてい

るので、他藩出身者が容易に適うはずがない。関ケ原の

戦いの恨みを260年余り忘れることなく、徳川幕府を

倒す。

明治14年(1881)から明治24年(1891)

までの薩摩の就学児童の割合は、全国最低だった。

(薩摩見聞記)この地域には、数学の難問が解けると

神社仏閣に奉納し、神仏に感謝する「算額」の風習がな

かった。明治政府で藩閥政治を行った「薩長土肥」

すなわち鹿児島、山口、高知、佐賀だけが数学を楽しむ

文化がなかったのである。「論より証拠」という気風が

支配する土地柄だった。

薩摩の特徴は、路上で行き交った際に身分の高い者に

土下座を強要しなかったところにある。会津藩では、

大雨が降っていたとして、足軽は物頭(隊長)と行き合

えば草履を脱いで土下座をさせられた。「ならぬものは

ならぬ」と理由を考えさせない命令型の思考力欠如の教

育が行われていた。白虎隊の少年たちのように、

城下が燃えているだけで城が落ちたと思い、「斥候

(偵察)」もせずに集団自決をしてしまうような悲劇を

生むことになる。しかし、薩摩には藩主以外は対等で

あるという意識があった。郷中教育が盛んに行われた

理由と言える。

詳しくは、拙著「薩摩の郷中教育」に詳しく書いてい

るので、そちらを参照して頂きたい。