104人の大和魂  No.25武田信玄 | 社長力検定「後継者育成塾」

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① (トップ面接・山本勘助


天文5年(1536)、37歳になった勘助は、

駿河国主今川義元に仕官しようとしたが、

召抱えられなかった。義元の重臣は、勘助

の異様な風体を見て敬遠した。色黒で容貌醜く、

隻眼(せきがん)、身に無数の傷があり、

足が不自由で、指もそろっていない。

小者一人も連れぬ貧しい浪人で、兵を率いた

こともない。重臣は、「兵法を極めたとは

大法螺である」と決め付けた。勘助は仕方なく、

仕官叶わず浪人の身のまま7年にわたり駿河に

留まった。
武田家重臣板垣信方は、駿河国に「城取り(

築城術)」に通じた浪人がいると若き甲斐国

主武田晴信(信玄)に勘助を推挙した。
天文12年(1543)、武田家は知行100貫で

勘助を召し抱えようと申し入れた。勘助は、

躑躅ヶ崎館で晴信と対面する。晴信は勘助の

才を見抜き、知行200貫とした。浪人者の新

規召し抱えとしては、破格の待遇であった。

当時、当主が直接面接し、採用するケースは

ほとんどなかった。晴信は、入国にあたって

勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍を用意させた。

➁ 働き改革 「適材適所・フレックスタイム」
1. 温泉治癒


信玄は、温泉には身体を温め、免疫力を高める

効果があると考えていた。傷口を予防し、

破傷風を防いだ。当時は、「金創医」と

言われた刀傷を治療する医師は少なく、

医療施設として温泉を用いた。温泉を

領内に30か所設け、兵士の健康ケアに

力を尽くした。川中島第四次合戦の4か月

前にも「河浦湯屋(現川浦温泉)造」を命じ、

万全を期している。同温泉は、現在でも川浦

温泉として、武田四天王の一人「山県昌景」

の子孫によって経営されている。
武田信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀」と

いう言葉を遺すほど人材の大切さを肝に銘じてい

た。常に人を思い通りに動かすことに知恵を

絞っていた。信長に対しても「越後(上杉)との

戦いに、お味方してくださるとは頼もしい」と

距離を近づけようとする手紙を送っている。
ある時、敵陣へ向かったはずの岩間大蔵左衛門

と言う家臣が陣地に戻ってきた。ぶるぶる震え

怖じけずいた岩間を何と馬が見限り、敵前から

引き返した。武士らしくない岩間をクビにすべ

きだと重臣が進言したが、信玄は「使いみち

はある」と受け入れなかった。これ以降、信玄は

岩間を館の留守居役に命じた。館を丹念に清掃し、

又家臣の細かな情報を逐一信玄に報告した。

「総務部長」としての役割を立派に成し遂げたの

である。

➂ 甲陽軍鑑
日本の武士、ひいては現代につながる日本男子の生

き方に最大級の影響を与えた名著である。江戸時代

ベストセラーになり、「男らしさ」の原典とも言える。

命がけで戦国を生き抜く、男の美学が一貫して描かれ

ている。本書は、「闘戦経」(大江匡房著)を下地に

していると考えられる。「漢(中国)の兵学書は、

すべて詭道を説いているが間違いであると指摘。

誠を貫くべきだ」と大和魂を大江は主張している。

甲陽軍艦ばかりか「葉隠れ」の「武士道とは死ぬ事

と見つけたり」などにも影響している。日露戦争に諜

報活動で活躍した、明石元二郎にも「誠」の日本人

スピリットが受け継がれている。
全59品中53品までは、武田家臣高坂弾正昌信の

語りを猿学者大倉彦十郎が筆記。高坂没後、54品

から59品までを甥の春日惣二郎が書き継ぎ、

武田家臣出の小幡勘兵衛景憲が最終的にまと

め上げ、刊行された。(原典に従い、章を品と

称する)
信玄遺臣の立場から新君勝頼に対し、「諌暁

(かんぎょう)」する内容で、信玄、勝頼2代に

渡る。鎬(しのぎ)を削った謙信、信長らの合戦

における思想と行動、武士道の基本となった家訓

99箇条、公事(裁判)沙汰まで幅広く書かれ

ている。
「軍艦」第47「脇指心」には、喧嘩両成敗のこ

とが書かれている。喧嘩の当事者2人(40代、

50代)に対し、「宿老(いい年の壮年)なの

に男子道が若輩(未熟)だ」として、「両人を

召し取り、耳鼻をかきて(切り取って)、

かり坂をこさせよ(首を斬れ)」と厳罰に処

したことを明記している。
武士は、「忍」の一字を肝に銘じて生きなけ

ればならない。喧嘩をするならば、刀を抜い

て相手を斬り、その後切腹すればよい。刀を抜

く気がなく、取っ組み合いのけんか程度で終

わりにするのは、武士ではないと信玄は断じた。
「軍艦」は、「贲(かざる)は女人或いは商人

の法なり。一事をかざれば万事の実皆偽りなり」

と武士道は正直に誠を尽くすことだと説く。

女は男に好かれようと顔に紅白粉をぬる。

商人は、商品を売るために身や心をかざり、

卑屈なまでに下手に出る。「弓矢の儀(武士)は、

ありように(あるがままに)申しおくこそ武道なれ」

と決して欺いてはならぬと戒めている。武士道の

堕落は、身をかざり、ゑよう(ぜいたく)にふけり、

おごりから始まるとしている。さらに「女人に似

たる男が、人を猜(そね)み人をいやしむと聞

こえ候。
人をそねみいやしむは女のわざ」とねたむような

未熟な侍を「女侍」と武士にあるまじきふるまいだ

としている。
「軍艦」によれば、信玄は、戸石の合戦(天文15年・

1546)勝利の際、「人間のわざにてなし(人間技

ではない)と勘介の武功を絶賛した。勘介はこれに対し、

「御法度を能(よ)くたてなされ・・」と軍律が徹底

されていたことが最大の勝因だと応えている。御法度

には、国持大名の慈悲が根底になければならぬという。

規律が良ければ行儀が良くなり、一切の善悪の判断が

できる。納得すれば義理を感じ、主君を大切に思い、

軍法を守る。大将がよく治めれば、諸人は安心する。

出発点は、家臣、農民すべての領民を慈しむ心だという。