104人の大和魂 No.24  足利義満  皇位簒奪計画 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 康応3年(1392)、3代将軍義満は南北朝

を統一させ、南北の両立をストップさせた。

義満は、南朝から三種の神器を北朝に譲らせて、

一旦は北朝を正当と認めさせる。その代償として

南朝から次の天皇を出すという調停案を出す。

義満は、初めから約束を守る気はなく、

南朝は滅んだ。以後、---北朝の子孫が玉座に

座ることになる。

 応永15年(1408)4月25日、足利義満は

次男義嗣の元服を宮中「清涼殿」で挙行した。

従来、親王(次期天皇候補)以外は、紫宸殿で行う

のが通例とされていた。加冠役を内大臣二条満基が務め、

繧繝縁(うんげんべり)の畳が使用された。当時、身分

により座る畳の縁の模様がはっきり区別されていた。

繧繝縁といわれるものは、朱、青、緑、紫などに濃淡

を付け、菱形模様が施されていた。公卿などが使用す

る白黒の高麗縁とは異なり、格調が高い。「椿葉記」

には、立太子に基づく親王扱いの儀式だったと記され

ている。鎌倉で幕府を開くつもりであったが、北朝に

にらみを利かせるために、「室町通り」に花の御所を

建造した。義満は、明に天皇の臣下ではないとし、

「日本国王」と名乗った。

 義満は、日本国内では「貿易」と偽ったが実際は

朝貢である。中国は貢物以上に「土産」を持たせたので、

周辺国は尻尾を振って近づいていった。資金力を強める、

有難い「中華思想」だった。

 応永14年(1407)、すでに婦人の日野康子を

後小松天皇の准母としており、義満に天皇と同等の座

が設けられていた。今後は、天皇が譲位するか死を

待ってから義嗣が天皇の位に就くかいずれかであった。

 義満は、平清盛のように娘を天皇の后にして「外戚」

を狙うような遠回りをせずに、「天皇」の位を簒奪しよ

うと図った。幕府の北側に接していた自邸を「花の御所」

と呼ばせ、内裏(天皇の住まい)扱いとした。しかし、

皇位簒奪直前、義嗣元服の儀式2日後に病を発症、

5月6日に死去。頑健な肉体をもち、健康自慢をし

ていた義満の暗殺説は、後々まで噂された。又して

も「天皇家」に自動制御装置が働いた。