尊氏は、建武3年(1336)5月、
光厳上皇の院宣を盾に京都に攻め上り、
「湊川の戦い」で朝廷軍を撃破する。
日本史上唯一の錦旗を掲げた「天皇」軍に勝利。
但し、尊氏は上皇を旗印にしている
ので、武家と天皇家の戦いではない。尊氏は、
すかさず後醍醐天皇から三種の神器
(鏡、剣、玉) を取り上げ、光明天
皇に託し、即位させている。そして、
「建武式目」を制定し、事実上の室町
幕府をスタートさせた。鎌倉時代の
「御成敗式目」と同様に室町幕府が
支配する法的根拠を示したのである。
17の条文は、聖徳太子の17条の
憲法を真似たものだ。政道は、居所
ではなく、為政者の良し悪しで決まる
とし、北条得宗家専制以前の義時、
泰時時代を理想とした。室町幕府を
鎌倉幕府の正当な後継であると位置
づけている。幕府を鎌倉に置くべきだ
という意見を退け、京都御所に隣接し
た場所に設けた。朝廷の一角に幕府
を構えることで、政庁の一部門とした。
「幕府」のような一時的な存在では
ないと主張。又、為政者とは、万人
の愁いを休めることだと幕府の役割
を明記したことは、イノベーション
として評価できる。ところが、
後醍醐天皇が渡した三種の神器
(鏡=正直、玉=慈悲、剣=知恵)は、
いずれも偽モノだとして、自身を正当
な天皇だと主張。このため、後醍醐天
皇が南朝、光明天皇を北朝とする、
我が国初の南北が並立する南北朝
時代に突入。
暦応元年(1338)、尊氏が征夷
大将軍に就くも南北は統一されず、
1392年義満の時代まで2人の
天皇が並ぶ時代が続いた。さすがの
尊氏も後醍醐天皇の命を奪うような
ことはしていない。「大本家」を
滅ぼすことは、絶対にしてはいけ
ないという認識はもっていた。
軍記書・梅松論は、尊氏を
「笑みをたたえ、死を恐れない
将軍らしい大人物」と評価している。