104人の大和魂 Q.19 北条 時宗  | 社長力検定「後継者育成塾」

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 時宗は、鎌倉幕府5代執権、最明寺時頼の

3男として生まれた。兄2人は妾腹だった。

相模守時頼の正式な長男として、相模太郎と

呼ばれた。時頼は妻の懐妊を知ると誕生するま

で自分の領内で殺生を禁じたほどの待望の男子だった。

時宗は11歳の時、将軍宗尊の面前で射芸を行い、

見事に的串(まとぐし)に矢を命中させている。

時頼は、肝が据わったこの少年を「北条家を継

ぐにふさわしい人物だ」と大いに期待した。

弘安2年(1279)、モンゴル帝国第5代

フビライは、南宗を滅ぼして国号を元とし、

都を大都(北京)に遷す。すでにビルマ、ジャワ

を従え、高麗を属国にしていた。高麗は日本との

親善関係があったが、元を強国と見るや軍門に

下った。

どんなに横暴な国であっても、いきなり攻め

込むようなことはしない。元は、外交戦として、

最初は威嚇的な文書で脅す。又、「恐ろしい国」

であるという噂を広げることを常套手段とした。

弱国ならば、戦火を交えることなく、簡単に膝を

屈した。

文永5年(1268)正月1日、蒙古の使者とし

て高麗国の潘阜が大宰府に国書を持参した。

「兵を用ふるに至ると夫レ孰(いず)れか好む所」

と親しく交わる気が無ければ、武力を用いるとい

う脅しだった。国書は、大宰府から鎌倉幕府に

送られた。幕府は、朝廷に奏上し、対応を委

ねた。評議を重ね、「返書は不要」と朝廷が

幕府に回答したのは、2月19日。判断が遅

いのは、今も昔も変わらない。

フビライは、返答がないことに業を煮やし、

高麗に1千艘の製造を命じた。さらに高麗

の属国耽羅(済州島)にも百艘造れと厳命する。

技術力が無い高麗が造った船は、堅牢なも

のではない。

蒙古は、陸上での戦いは豊富な経験があるが、

海上での戦闘ノウハウがないため、日本征服

には不安を抱えていた。そのため、雨天の際

には水上訓練を行ったという。

当時の征夷大将軍は、5歳の惟康親王であったから、

にわかに政情不安になった。「深心院関白紀」

(近藤基平)は、「此事国家の珍事大事也」と記し、

「増鏡」には、「公家武家たこの騒ぎなり」と国

中が右往左往している様子が分かる。国家一大事に

対し、18歳の時宗が執権に就いた。64歳の政村

が執権を退き、若きホープに国の舵取りを任せたの

である。

蒙古の国書到来の8年前に日蓮聖人は、「立正安国論」

を時宗の父時頼に奏上していた。正しい仏法に国が

帰依しなければ、他国から侵略を受けるという

諌暁書(かんぎょうしょ)だった。幕府は、海を

渡って日本を攻めるなどありえないと逆上。

あろうことか聖人を罪人扱いにして、斬首を執

行したが、「諸天の働き」によって命を奪うこと

ができなかった。仕方なく、「佐渡」島流しの

愚挙に出た。

文永11年(1274)10月3日、ついに聖人

の断定通りになる。元、高麗の連合侵略軍

26000人が朝鮮合浦を出帆した。5日に対島、

14日に壱岐を襲った。赤子に至るまで耳鼻を削

ぐなどして虐殺。女性は、手の甲に穴を空け、

縄を通し、数珠つなぎして矢除けにした。目を覆

うような残忍さは日本ではありえないものだ。

今でも対島、壱岐では「モックリ(蒙古)」、

「コックリ(高麗)」と言えば、泣く子も黙ると

言われている。

19日には、元軍が博多に押し寄せた。敵軍は、

一人の兵士を取り囲んで攻撃するという団体式

の戦法で、日本式一対一の戦闘ルールは通用

しなかった。「矢合わせ」として鏑矢を射た

ところ、敵が笑ったという。又、破裂弾の音と

煙に惑わされた。しかし、肥前の御家人白石勢な

どは百騎余りの騎馬軍団で蒙古軍に襲いかかっ

ている。一騎打ちに拘らず、臨機応変に攻略し

ていることが分かる。定説では、日本側が蹂躙さ

れたことになっているが、実際は違う。蒙古軍

の兵士の3分の1程度は、極度の船酔い状態で

満足な働きができなかった。船は横揺れ角度

2度以下を超え、乗船経験に乏しい蒙古軍兵

士らは、嘔吐、食欲不振に陥った可能性が高い

という。(日本史サイエンス・播田安弘著)

20日、博多付近に上陸を許したが、大宰府

に進むことを許さなかった。日が暮れ、夜襲を

怖れた蒙古軍は、艦内に引き上げた。夜、暴

風が吹き荒れ、蒙古軍は命からがら逃げ帰っ

た。戦った蒙古軍兵士8000人ほぼ全員が

戦死、溺死した。九州の武将のみ5000騎

で退けた。

翌年、蒙古の使者5人が訪れた。国交を求

めるという主旨だったが、いずれも斬り捨て、

さらし首にした。使者を亡き者にするとは

暴挙であるが、時宗は絶対に屈しないとい

う決意を示したと考えられる。再度の来襲に

備え、九州探題を設置し、屈強な武士を護り

につけた。通報を受けてからでは援軍が間

に合わないからである。絶対に上陸させない

という思いから、博多を中心に約5里間に高さ、

厚さともに1.8メートルから3メートルの

石塁を築く。川の流れ口で、石垣が造れない

箇所には乱杭(らんぐい)を立て、侵入できな

いようにした。室町時代になっても60年余り、

石塁の修理を加え防御を怠らなかった。

 弘安4年(1281)5月3日、再び日本征

服のために4040艘に14万2029人の

兵士を載せた大群が朝鮮合浦、揚子江河口慶元

をそれぞれ3か月分の食糧を載せて出港した。

定住し、耕作地を拡大していくために「耕作の

スキ、クワ等まで持ちわたりけり」と用意万端

整えていた。(八幡愚童記)

石塁が功を奏し、元軍は上陸の地点を見出すこ

とができず、志賀島や能古島辺りを漂うばかり

で船に閉じ込められているような有様だった。

高温だったことから、伝染病が蔓延し、食糧、

薪水(しんすい)とも不足気味になっていった。

日本軍は昼夜を分かたず攻め、元軍の士気は益々

落ちていく。

7月1日、又もや大風雨が襲い、4040の

艦船を覆し、14万余りの兵士を呑みこんだ。

「引き出してはころし、皆落ちかさなりて首

をとり・・・」と関東からの援軍も加わり

蒙古兵に襲い掛かった。朝鮮「東国通鑑」には、

元軍13万人中生きて帰ったのは、3万人と記

れている。「元寇」を退けた要因は、元軍が世

界最強の騎馬隊を活かす馬を日本へ運べなかっ

たからである。馬は戦闘で負傷するので、

1人に対し3頭は必要になる。馬はデリケートな

動物なので、海路で運ぶのは無理なのだ。一方、

日本の騎馬隊は訓練されていたので、元軍を圧倒

することができた。日本が大東亜戦争まで、外敵

の侵略を受けなかったのは、海に囲まれている

らだと言える。

フビライは、文永、弘安と敗退し、その後も何

度も再征を企てたが挫折。29年間日本征服を

果たせず、病により死の床に付いた。時宗が一歩も

退かず、強気な姿勢を崩さず、舵取りをしたことが

功を奏した。「国難と北条時宗」(昭和17年・

1942年)の著者関靖は、時宗が「闘戦経」

(大江匡房著)の教訓「死を恐れない」を実践

したと説いている。時宗は、心労が重なり

32歳で死去。