104人の大和魂 No.21 後醍醐天皇 建武の親 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 鎌倉幕府9代執権、北条貞時が病死を境に、

得宗専制の綻びが見え始める。政権中枢から

外された御家人らの不満が噴出。後醍醐は、

好機と「元弘の乱」を起こしたが失敗。

隠岐島に配流されてしまう。配流先から脱出し、

再び倒幕の狼煙を上げる。足利尊氏が後醍醐

天皇に味方し、鎌倉幕府を倒すことに成功。

念願の「建武の親政」が始まった。
建武元年(1334)7月17日、後醍醐

天皇による親政が始まる。中国の後漢が簒奪

された皇帝の座を新から奪い返した時の年号

を用いた。スタート時から誰にも相談するこ

となく、「綸旨」を頻繁に出し、手続きなし

で事を運んだ。旧領回復令、朝敵所領没収令、

寺領没収令等を次々に出し、悉く土地所有権

を白紙に戻した。武家に奪われた土地を取り

返そうと、公卿、僧侶、神主らが上洛し、

人があふれ大混乱に陥った。後醍醐は、

武士が領地にこだわる生き方を理解していな

かった。武士の死活問題である土地争いの

訴訟機関を「雑訴決断所」と命名したことから

も些末な問題と考えていたことが分かる。
警備体制が緩く、「強盗」がはびこり、

夥しい「生首」が道路に転がっているという

惨状が頻繁に起きる。僧侶を止めて、

俗人に戻る者や租税逃れのために「出家」

するものが後を絶たなかった。
 後醍醐は、真言密教によって、自然界の不

思議な力を引きだすことに異常にこだわった。

自ら法衣をまとい、祈祷を行ったが効果はなかった。
天皇を補佐する、「摂政」「関白」「太政大臣」

等を置かない、文字通りの独裁体制だった。

楠木正成、新田義貞らが天皇を支えたが、

武士の立場や公家などを思いやることができ

なかった。帝を援けた公卿や我が子護良親王

でも自身が不利になるとあっさりと見殺しにす

るなど、常に自己中心であり、人望を得ること

ができなかった。
北畠顕家は、後醍醐帝に「上奏」した。公卿

(参議)であり、陸奥国鎮守府代将軍を務める

武将である。
上奏文は、「恩賞は、職務への忠誠心によって

公平に与えることにし、天皇への忠誠心を基

にしない。佞臣(ねいしん)を排除すること」

など7つの批判を行った。末文には、もし受け

入れられない場合、職を辞し、山にこもると必

死の決意を伝えた。だが、後醍醐は聞く耳を

持たず、独裁政治は間もなく破綻する。「上奏

文」提出の7日後、顕家は北朝方に討ち取られ、

「大和魂」が散った。
足利尊氏の離反によって、「建武の親政」は、

2年余りで瓦解。後醍醐は、「時計の針を戻す」

ことはできず、幕末まで武家が日本国を動かす

ことになる。
後醍醐は、湊川の戦いで尊氏に敗れた後、

吉野に南朝を立てた。尊氏に渡した三種の

神器は偽物であり、本物を所持している天皇

こそが正当だと主張。崩御(延元4年・1339.

8.15)の前日、義良(後村上天皇)に譲位。

南北朝時代が始まった。宝算(天皇が崩御した場

合の呼称)52.
後醍醐天皇から堀源次郎が賜った、「日の丸」

旗が最も古い可能性が高いと発表された。

(2019.8.16京都大学)後醍醐天皇は、

日本を太陽の国と認識していたことが窺える。