104人の大和魂 2章 武力の時代  No.13 白河法皇 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 応徳3年(1086)、白河天皇は皇位を

退いた。だが、すぐに白河院として「院政」

を敷いた訳ではない。「我が世の春」までの

道のりは、イバラの道であった。権力を恣

(ほしいまま)にできる日を夢見て、「爪」

を隠す。

 嘉承2年(1107)、堀河天皇が29歳で亡

くなる。娘の死とともに出家していた白河法皇は

重祚を断念し、5歳の皇子宗仁親王を鳥羽天皇

として即位させた。幼帝即位後は、法皇は内裏に

隣接する院御所に居住し、内裏周辺の警護

を厳重にした。依然として、異母弟輔仁は勢力

を保っており、皇位を諦めていなかった。そこで、

輔仁の護持僧仁寛とその実兄醍醐寺座主勝覚の童子を

天皇への「呪詛」の嫌疑をかけ、流罪とした。

ついに輔仁の力を削ぐことに成功。

白河法皇は、院庁で政務を執った。法皇に対抗す

る人物が無くなり、55歳にしてようやく

「院政」を敷くことができた。

翌嘉承3年(1108)、「上皇已に専政主也」

(中右記)と記され、専制君主として絶対的な

権力を揮った。この後、白河法皇の「院政」が

20年余り続く。トップを退いたにも関わらず、

陰で糸を引くことの語源になった。

白河法皇は、朝廷貴族らの最大の関心事である

人事権をも掌握した。「折紙」つまりメモ書き

という非公式な文書で人事を指示し、天皇に実行

させたのである。伊勢神宮の外宮正殿の心柱が倒

壊したときも法皇の主導で仮宮造営が行われている。

 

   強訴

 最大の「国家大事」は、「強訴」であった。これは、

大寺社が仏神の権威を背景にして、朝廷に要求を飲ませるため、

武装した衆徒(僧兵)集団で押しかける実力行使を指す。

奈良の興福寺と比叡山延暦寺が強訴の常連だった。

興福寺は春日大社の神木、延暦寺は日吉大社の

神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に侵入。

要求が通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、

統治機能を麻痺させる手段に出た。

「強訴」は、国司が寺社の荘園を侵害したことを訴えること、

競合する寺社よりも優遇措置を得ることなどを目的にした。

朝廷は、強訴を武力で解決するために武士を重用した。武士は、

公家のように仏神を恐れなかったからである。源氏や平氏は、

「北面の武士」として採用され、朝廷の軍事力となる。

天皇(天子)の南面向きに対し、その正反対の位置を

占めたので、このように呼ばれた。

嘉保2年(1095)10月24日、延暦寺の僧兵

が美濃守源義綱の流罪を承諾できぬと「強訴」した。

これを白河法皇が拒否したため、僧兵1000人が

蜂起し、賀茂川東岸から弓矢を御所に射掛けた。

法皇は武力鎮圧を図り、「北面の武士」を出動させた。

大規模な戦闘になり、僧兵4名の死者を出した。法皇は、

本来「心」を磨くはずの僧侶が武力に訴えることを認めず、

躊躇(ちゅうちょ)なく殺害に及んだ。「強訴」は、

平清盛の祖父平正盛などが台頭する契機になった。

やがて、清盛、頼朝などが権力をもつ武力の時代に

突入する